長崎抜天
長崎 抜天(ながさき ばってん[1]、1904年4月1日 - 1981年1月3日)は、日本の漫画家である。戦後、ラジオの人気番組『とんち教室』(NHK)でのレギュラー出演で広く知られる[2]。本名は繁吉(-しげきち)[3]。
長崎 抜天 Batten Nagasaki | |
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生誕 |
1904年4月1日 日本 東京市芝区新橋 (現在の東京都港区新橋) |
死没 |
1981年1月3日(76歳没) 東京都 |
職業 | 漫画家 |
人物・来歴
編集1904年(明治37年)4月1日、東京市芝区新橋(現在の東京都港区新橋)に長崎繁吉として生まれる[3]。「日本近代漫画の祖」と呼ばれる北澤楽天に師事した[2]。
1924年(大正13年)、20歳のころ、日刊新聞「時事新報」(福澤諭吉創刊)に「漫画記者」として入社した[2]。北澤楽天、保積稲天とともに「三天」と呼ばれた[4]。子ども向けの漫画『ピー坊物語』や『ソコヌケドンチャン』を連載した[3]。
1949年(昭和24年)1月、NHKラジオで『とんち教室』が放送開始、1969年(昭和44年)の放送終了まで、「長崎生徒」としてレギュラー出演をした[2][5]。また1954年(昭和29年)に同番組に取材したコメディ映画『爆笑天国とんち教室』(監督渡辺邦男)を東映東京撮影所が製作、柔道家の石黒敬七らレギュラー陣とともに出演した[6]。
1954年12月14日、「ゆうもあくらぶ」の設立に参加、賛同者は徳川夢声、石黒敬七、石田博英、江崎真澄、水谷八重子、春風亭柳橋、高橋掬太郎、宮田重雄、田河水泡、田村泰次郎、昔々亭桃太郎、榎本健一、松田トシ、並木一路、松内則三、古賀政男、内海突破ら47人。同日日比谷公会堂で発会式を行った。長崎はのちに同クラブの理事長を歴任した。
1966年(昭和41年)、永年の『とんち教室』出演の功[7]とラジオ番組『喫煙室』の台本等[2]で、第17回「NHK放送文化賞」(昭和40年度)を受賞した[2]。
主な作品
編集関連事項
編集註
編集- ^ ぬきてん、は間違い
- ^ a b c d e f g 京都国際マンガミュージアム公式サイト内の「『ひとり娘のひね子さん』が記録した世界展[リンク切れ]」の項の記述を参照。
- ^ a b c コトバンクサイト内の記事「長崎抜天」の記述を参照。
- ^ 鳩山町教育委員会 編『保積稲天の世界 鳩山町町制施行20周年記念事業』鳩山町教育委員会、2002年11月9日。 NCID BB08167146。
- ^ 「とんち教室」の項の記述を参照。
- ^ #外部リンクのキネマ旬報映画データベース「とんち教室」の項を参照。
- ^ 日本放送協会公式サイト内の「放送文化賞」の項の記述を参照。
- ^ “大マンガラクタ館vol.8”. kyotomm.jp. 京都国際マンガミュージアム. 2024年10月22日閲覧。