ミシェル・ルージュリー
ミシェル・ルージュリー(Michel Rougerie、1950年4月21日 - 1981年5月31日)は、ロードレース世界選手権で活躍したフランス出身のオートバイレーサーである。
ミシェル・ルージュリー | |
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グランプリでの経歴 | |
国籍 | フランス |
活動期間 | 1972 - 1981 |
チーム | ハーレーダビッドソン、ヤマハ |
レース数 | 65 |
優勝回数 | 3 |
表彰台回数 | 17 |
通算獲得ポイント | 393 |
ポールポジション回数 | 6 |
ファステストラップ回数 | 1 |
初グランプリ | 1972 125cc フランス |
初勝利 | 1975 250cc フィンランド |
最終勝利 | 1977 350cc スペイン |
最終グランプリ | 1981 350cc イタリア |
経歴
編集ルージュリーのレースキャリアにおける最初の大きな勝利は、19歳だった1969年にホンダのマシンで出場したボルドール24時間耐久レースだった。フランス国内選手権では250cc、350cc、500ccの各クラスで合計7度のタイトルを獲得しており、ロードレース世界選手権では通算3勝を記録した[1]。
ロードレース世界選手権でのベストシーズンは、ハーレーダビッドソンのチームメイトだったウォルター・ヴィラに次いで250ccクラスランキング2位となった1975年である[2]。この年、ルージュリーは91ポイントを獲得してポイント総合計では85ポイントのヴィラを上回ったが、この年の「成績が上位の6戦のポイントを有効とする」という有効ポイント制のため、シーズン2勝のルージュリーは5勝を挙げたヴィラにタイトルを譲ることになった[1]。ヤマハに移籍した1977年はスペインGPの350ccクラスでグランプリ通算3勝目を挙げ、350ccクラスランキング4位を獲得した[2]。
1980年、シルバーストンで行われたイギリスGP決勝レースにおいて、ルージュリーの前方で転倒したソノート・ヤマハチームのエース、パトリック・ポンスを避けきれずに激突。この事故によってポンスが死亡するアクシデントに見舞われる。
1981年、リエカ・サーキットで行われたユーゴスラビアGP350ccクラスの2周目、10位を走行していたルージュリーはクラッシュしてマシンから投げ出された。コースの外に逃げようとしたルージュリーに後続のマシンが全速で激突し、胸部を強打したルージュリーは即死した[1]。前年に発生したポンスとルージュリーの事故と同様のアクシデントで命を落とした。享年31。
主な戦績
編集ロードレース世界選手権
編集順位 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
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ポイント | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。