下間 頼言(しもつま らいげん)は、戦国時代武将本願寺の僧侶。

 
下間 頼言
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 弘治2年4月9日1556年5月17日
別名 源五、中務丞(通称)
主君 証如顕如
氏族 下間氏
父母 父:下間頼次
兄弟 頼言頼良
下間頼清の娘
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略歴

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天文5年(1536年)までに本願寺へ出仕、同年奏者に就任した[1]。また同族で下間氏宗家当主の下間頼総の名代である下間頼治下間真頼が天文20年(1551年)・翌天文21年(1552年)に相次いで没したため、天文21年に本願寺10世法主証如の命令で彼等の後を継ぎ、再従兄弟下間頼資と共に名代を務めた[2]。証如の側近・実従の日記『私心記』の天文20年12月6日条で、頼言が鉄砲で撃ち落とした雁を実従に献上し、雁汁がふるまわれたことが書かれている[3]

11世法主顕如の代では頼総・頼資や弟の下間頼良も奏者に加わり、4人で奏者を務めた。奏者就任については、父頼次も奏者だったこと、祖父の下間光宗が8世法主蓮如に伺候していたこと、妻(叔父の下間頼清の娘で従姉妹)も証如の母鎮永尼に伺候していたことが影響していたとされる[4]

天文24年(1555年)6月、朝倉方は朝倉宗滴(教景)を大将として江沼郡への大規模な侵攻を行なった。7月23日には江沼郡一帯で、8月13日には同郡菅生口・敷地口で激戦が交わされた。だが9月に教景が没し、翌弘治2年4月ころに休戦・撤兵する。同年に室町幕府13代将軍足利義輝の調停で加賀・越前は和睦したが、その際に本願寺より加賀へ派遣され、朝倉義景と加賀超勝寺の戦争の和睦工作に従事した最中に死亡。和睦に不満を持つ超勝寺顕祐(教芳)による毒殺とされ、加賀光教寺住持顕誓がこの事件を取り上げている[1][5]。また事件の影響か超勝寺内衆は「火起請」を取られている[6]

脚注

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参考文献

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