木下祝郎

日本の農芸化学者、経営者

木下 祝郎(きのした しゅくお、1915年10月31日 - 2011年3月19日)は、日本の農芸化学者経営者農学博士[1]協和発酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。

来歴・人物

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京都府久美浜町(現京丹後市)出身[2]第八高等学校を経て、東京帝国大学に進み、1941年に同大農学部農芸化学科を卒業し、台湾総督府工業研究所に入所。同年12月開戦とともに徴兵され中国大陸南部に出兵、1946年5月に復員・帰国して協和産業(後の協和醗酵工業)に入社した[3]。同社では、ペニシリンの量産化、ストレプトマイシン生産技術の導入などに取り組んだ。その後、同社東京研究所で、発酵によるアミノ酸製造技術(アミノ酸発酵)を発明した研究開発チームを主導した[3][4][5]1958年に東京研究所長、1970年8月に専務を経て、1975年2月に副社長に就任し、1978年3月には社長に昇格[2]1984年3月に会長に就任し、1986年3月に相談役を経て、1990年3月には特別相談役に就任[2]

1966年5月に日本学士院賞を受賞[6]、同年9月に紫綬褒章を受章、1986年11月には勲二等旭日重光章を受章した[2]大河内記念賞、科学技術庁長官賞、米国工業微生物学会チャールズ・トム賞などを受賞[3]

2011年3月19日肺炎のために死去[7]。95歳没。叙正四位[3]

脚注

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  1. ^ 木下祝郎『廃糖蜜を主原料とするアセトン、ブタノール醗酵に於けるバクテリオフアージによる異常醗酵並びに核フアージに関する研究』(農学博士論文)東京大学、1955年https://cir.nii.ac.jp/crid/1110845735208270720 
  2. ^ a b c d 興信データ株式會社 2003, き12頁.
  3. ^ a b c d 別府輝彦 (2011), “木下祝郎先生を悼む”, 化学と生物 49 (7): 490-491, doi:10.1271/kagakutoseibutsu.49.490 
  4. ^ 鵜高重三 (2009), “アミノ酸発酵の黎明期”, 化学と生物 47 (3): 211-216, doi:10.1271/kagakutoseibutsu.47.211 
  5. ^ 研究者インタビュー木下祝郎”. 協和発酵バイオ. 2021年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月19日閲覧。
  6. ^ 日本学士院賞(第56回、1966年5月25日)「醱酵によるアミノ酸類の生成に関する研究」”. 日本学士院. 2022年5月8日閲覧。
  7. ^ 木下祝郎・元協和発酵工業〈現協和発酵キリン〉社長が死去2011年 3月28日 日本経済新聞

参考文献

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  • 興信データ株式會社『人事興信録 第42版 上』興信データ、2003年。 
先代
高田弘
協和発酵工業社長
1978年 - 1984年
次代
加藤幹夫