長野芳斎
江戸時代、明治時代の儒学者、漢学者
長野 芳斎(ながの ほうさい、文化5年(1808年)4月 - 明治24年(1891年)8月15日))は、江戸時代、明治時代の儒学者、漢学者、教育者、神職、郷土史研究家。福岡藩士。初め月形氏。名は誠。幼名は牧之助。字(あざな)は叔達。通称は和平。号は芳斎、矯堂、佩絃、短斎[1]。
経歴
編集福岡藩藩儒月形鷦窠の三男として筑前国那珂郡警固村(現・福岡市中央区警固)に生まれ[2]、長野金十郎一興の養子となる[1]。朱子学や国学を修める[3]。
天保7年(1836年)学問所指南加勢見習となり、その後藩主黒田家の家譜の編修[1]、藩主の侍講、藩校修猷館の文学教授を務めた[3]。皇典、兵法をも修めた[1]。
明治維新後は、香椎宮権宮司となった[1]。郷土史、特に福岡藩政史研究に努め、史料の整理、著述などに多くの業績を残した[2]。
著作に『閲史筌蹄』『福岡藩民政略誌』『福岡教育史略』『福岡啓藩誌稿』などがある[2]。