プリンスパラタインPrince Palatine1908年 - 1924年)は、イギリス競走馬種牡馬である。クラシックセントレジャーステークスしか出走、制覇することはできなかったが、古馬となってからはアスコットゴールドカップ連覇、ジョッキークラブステークス制覇など活躍した。とくにイギリス古馬戦線で大レースを何勝もした1912年の活躍には目を見張るものがある。

プリンスパラタイン
- Prince Palatine, 1920 -
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1908年
死没 1924年10月13日
パーシモン
レディライトフット
生国 イギリス
生産者 ウィリアム・ウォーカー
馬主 トーマス・ピルキントン
→ジャック.B.ジョエル
調教師 ヘンリー・ビアズリー
競走成績
生涯成績 21戦11勝
獲得賞金 184,555ドル換算(英語版参考)
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プリンスパラタインは1908年に生まれた。父パーシモンはこの年死亡しており、本馬は父最後の世代である。母はアイシングラス産駒のレディライトフットで、生産者はウィリアム・ウォーカー。馬名はカウンティーパラタイン (en:County palatine) に由来する。

ヘンリー・ビアズリーの調教を受け2歳時は6戦して3勝を挙げた。しかし脚部に不安があり2000ギニーエプソムダービーは回避せざるを得なかった。秋には調子を上げセントレジャーステークスを6馬身差で楽勝している。

翌年はコロネーションカップこそステッドファストの2着に敗れたが、ジョッキークラブステークス、アスコットゴールドカップ、エクリプスステークスドンカスターカップなどすべて楽勝。翌年も現役を続け、アスコットゴールドカップ連覇、コロネーションカップなどの勝ち星を重ねた。1912,1913年にはイギリス年度代表馬にも選ばれている。

引退間際4万5000ポンドで買われ、1914年からチャイルドウィックベリスタッドにて400ギニーの種付け料で供用された。しかし、受胎率が低くあまり活躍馬は出なかった。1920年にはリーディングサイアー9位につけてはいるが、その2年前の1918年には18000ギニーでフランスのウィイー牧場に転売されており、さらに1920年にはアメリカ合衆国に送られた。そこでも成功はかなわず、孫のプリンスローズやアンブレーカブレ、ハリーオフ兄弟が活躍し注目を集めたときには、すでに1924年ケンタッキーのハラパファームで起こった火事に巻き込まれ死亡してしまっていた。

競走成績

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  • 1910年(6戦3勝)
    • インペリアルプロデュースステークス
  • 1911年
    • セントレジャーステークス
    • ゴードンステークス
  • 1912年
    • アスコットゴールドカップ
    • エクリプスステークス
    • ジョッキークラブステークス
    • ドンカスターカップ
    • 2着 - コロネーションカップ(勝ち馬ステッドファスト)
  • 1913年
    • アスコットゴールドカップ
    • コロネーションカップ

おもな産駒

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  • ローズプリンス(クイーンアレクサンドラステークス、シザラウィッチ:プリンスローズの父)
  • ヒーゴーズ(アイリッシュダービー)
  • ジャンボローニャ(ジョッキークラブ大賞、イタリア大賞)
  • ブルーグラス(アンブレーカブレ、ハリーオフ、ブロードサイド3頭の母)

血統表

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プリンスパラタイン血統セントサイモン系 / Hampton3×4=18.75% Galopin3×5=15.62% Lord Clifden4×5.5=12.50%) (血統表の出典)

Persimmon
1893 鹿毛
父の父
St. Simon
1881 鹿毛
Galopin Vedette
Flying Duchess
St.Angela King Tom
Adeline
父の母
Perdita
1881 鹿毛
Hampton Lord Clifden
Lady Langden
Hermione Y.Melbourne
La Belle Helene

Lady Lightfoot
1900 鹿毛
Isinglass
1890 鹿毛
Isonomy Sterling
Isola Bella
Dead-Lock Wenlock
Malpractice
母の母
Glare
1891 青鹿毛
Ayrshire Hampton
Atalanta
Footlight Cremorne
Paraffin F-No.1-m


外部リンク

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