くり 万太郎(くり まんたろう、1950年昭和25年〉3月6日[1] - )は、フリーアナウンサーラジオディレクターラジオパーソナリティ。本名は高橋 良一(たかはし りょういち)[1]

くり まんたろう
くり 万太郎
プロフィール
本名 高橋 良一
愛称 くりまん
出身地 日本の旗 日本 神奈川県川崎市
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1950-03-06) 1950年3月6日(74歳)
最終学歴 早稲田大学第一文学部演劇専攻
所属事務所 フリーランス
職歴 ニッポン放送1974年 - 2015年
活動期間 1974年 - 1990年
2009年 - 現在
ジャンル バラエティ番組音楽番組
配偶者 馬場直子(ニッポン放送元アナウンサー)
担当番組・活動
出演経歴タモリの週刊ダイナマイク
日立ミュージック・イン・ハイフォニック
ニッポン全国ヨッ!お疲れさん!
くり万太郎のオールナイトニッポンR

来歴

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神奈川県川崎市出身[1]神奈川県立多摩高等学校早稲田大学第一文学部卒業[2]した。

小学生時代から、声の良さで一際目立つ存在だった[2]。中学生時代はブラスバンド部と卓球部を経て放送部で、高校生時代は放送部でそれぞれ活動し、高校生のNHK放送コンクール神奈川県大会で入賞[2]した。早稲田大学からジャーナリズム分野へ多数が輩出されていることを知り、早稲田大学へ進学してアナウンス研究会に所属し、同会の1年後輩に吉田照美がいる[2]

1973年にアナウンサーの就職試験で、文化放送は最終の3人に、北海道放送は重役面接に、それぞれ残るも本採用に至らず[3]、1年間の就職浪人を決意してスポーツニッポン新聞社でアルバイトとして勤めた[2]1974年は、静岡放送などのアナウンサー試験で1年後輩の吉田照美と同席することも多く、文化放送は前年に続いて最終試験に至り、ニッポン放送にアナウンサーとして那須恵理子とともに入社する[2]

1975年から1978年にかけて『オールナイトニッポン』でパーソナリティを担当した[4]。本名でオールナイトニッポン火曜2部パーソナリティを務めた時は、本名を英語に直した名前「ハイブリッジ・グッドマン」を名乗った[2]

マイクネームの由来は栗饅頭に似ていることから[5]ドン上野が命名した[6]

1977年5月9日14時から5月12日午前2時まで、ヒゲ武こと高嶋秀武と『ヒゲ武・くり万60時間マラソンDJ』を放送し、1971年糸居五郎50時間マラソンジョッキー』を更に10時間上回った。

「しっかりと読む仕事も続けたい」という本人の希望もあり、「くり万太郎」としてバラエティ番組で活動していた間も「高橋良一」として日曜のニュース読み当番を継続していた。後輩の上柳昌彦はその姿勢に学ぶことが多かったという[7]。このこともあり、ワイド番組の代行では「くり万太郎」名義ではあるが、ニュースでは「高橋良一」を名乗り、番組中に速報を担当する際は「高橋アナウンサー」と呼称される。

1990年の夏に管理部へ異動し[8]、1990年代後半に制作部へ異動してディレクタープロデューサーとして数々の番組に携わり、2001年4月から2003年9月までBSデジタルラジオ放送LFX488の番組『ブロードバンド!ニッポン』でパーソナリティを担当した。

あっぱれ!日本一』(テレビ東京系)にゲスト出演者の関係者として本名で出演したことがある。

2009年3月30日にアナウンサールームへ復帰し、『くり万太郎のオールナイトニッポンR』でパーソナリティを担当した。2010年に定年を迎え、その後も嘱託として在籍、2015年12月31日にニッポン放送を退社したが、以降もアナウンサーを務めている。

31歳の時にニッポン放送のアナウンサーだった馬場直子と結婚した。

担当番組

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現在

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制作部時代に担当

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アナウンサーとして担当

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その他

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レコード

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  • 一人になれるかい(1977年5月25日発売、キャニオンレコード B面『オイラ、有楽町のマンタロウ』)
    作詞:島武実、作曲:宇崎竜童
    『くり万太郎のオールナイトニッポン』で行われていた企画『歌手デビューに挑戦!』から出されたレコードだった。この曲は何度かカバーされ、後にくり万太郎が『大入りダイヤルまだ宵の口』のパーソナリティだった時に、同じ番組のパーソナリティだったはた金次郎と『スイートポテト』というユニットを組み、1979年2月に発売された『真冬の帰り道』のB面にこの曲が二人の歌により収録。1989年には、作詞した島が関係の深いダウンタウンにこの曲を提供し、シングル『夕陽家族』のカップリング曲として収録(1991年発売のアルバム『万力の国』にも収録されている)。

脚注

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  1. ^ a b c d e DJ名鑑 1987三才ブックス、1987年2月15日、219頁。
  2. ^ a b c d e f g 月刊ラジオマガジンモーターマガジン社)1981年6月号 p.42-45
  3. ^ ニッポン放送は1973年度の入社試験はなかった。
  4. ^ 1975年10月から1976年9月まで…火曜2部(当時は本名の高橋良一名義で担当)
    1976年10月から1977年9月まで…火曜1部(火曜1部からリスナー公募で決定したくり万太郎名義で担当)
    1977年10月から1978年3月まで…月曜1部
  5. ^ 「くり万太郎」『ラジオライフ』1980年8月号、三才ブックス、103頁。 
  6. ^ 「シャベリスト・その世界」『ラジオライフ』第1巻第4号、三才ブックス、1980年12月1日、90頁。 
  7. ^ 上柳昌彦『定年ラジオ』(2018年 三才ブックス ISBN 9784866730684 p23)
  8. ^ 「帰ってきたラジオパラダイス」『ラジオライフ』2005年8月号、三才ブックス、174頁。 
  9. ^ 2012年6月19日『くり万太郎のナイタースペシャル』(ニッポン放送他ネットのプロ野球中継中止時の雨傘番組)にて。
  10. ^ 本名で担当。

外部リンク

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