メインメニューを開く

クリフサイド

クリフサイド (Cliff Side) は、神奈川県横浜市中区元町にある、1946年創業のダンスホール[1]1950年代から1960年代にかけて、ナイトアンドデイブルースカイと並んで横浜を代表する大規模なナイトクラブであった[2]

歴史編集

1946年8月、元町の代官坂に近い600坪弱の敷地に、木造2階建ての「山手舞踏場」が設立され、後に「クリフサイド」としてナイトクラブとなった[3]。1階にあるメインのダンスフロアはおよそ100平方メートルの広さに、通常の3階分に相当する高さの吹き抜けが設けられ[4]、フロアは桜の木でできている[5]。最初期には、一部の富裕層しか入店できない高級店であり、飲食が提供され、従業員の女性ダンサーが客のダンスの相手をしており、女性ダンサーの数は最盛期には200人ほどであったという[4]。銀行員の初任給が220円という当時、ダンスを踊るためのチケットは10回分が40円であった[5]。その後は、経済成長とともに、より広い層が入店するようになっていった[4]

当時の横浜は、在日米軍の施設が多かったことから、ジャズ文化が根付いており、若者たちはクリフサイドをはじめとするナイトクラブで踊ることが多かったという[6]

初期には、トランペッターの南里文雄がしばしばステージに立っており、2階の小宴会場が現在「トランペット・ルーム」と称されるのは、南里にちなんだものである[7]

1990年代の時点で、ナイトクラブとしての実態は失われており、「今はバンド演奏とレストラン、バーの営業が中心で、週末にはダンスパーティーがよく開かれる」と紹介されていた[5]

文学・音楽作品などとの関連編集

クリフサイドは、津村謙1951年のヒット曲「上海帰りのリル」から作られた1952年の映画『上海帰りのリル』の舞台となった[8]

渡辺淳一の小説『化身』には、クリフサイドをモデルとしたナイトクラブが登場する[3]

桑田佳祐の楽曲「若い広場」のミュージックビデオの舞台として使用されており、歌詞には「上海帰りのリル」を思わせるフレーズが登場している[9]

脚注編集

  1. ^ クリフサイド Cliff Side 1946年創業”. クリフサイド. 2015年11月5日閲覧。
  2. ^ 大橋巨泉. “古き良き時代のヨコハマ”. 横濱JAZZプロムナード実行委員会事務局. 2015年11月5日閲覧。
  3. ^ a b “クリフサイド(街角のフェニックス 横浜・元町物語:9)”. 朝日新聞・朝刊・神奈川. (1990年11月20日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  4. ^ a b c 二階堂勇 (2006年9月4日). “ハマの社交場、夜彩り60年 クラブ「クリフサイド」”. 朝日新聞・朝刊・横浜: p. 31  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  5. ^ a b c “今夏で50周年 横浜・元町のナイトクラブ「クリフサイド」”. 朝日新聞・朝刊・神奈川. (1996年5月11日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  6. ^ 猪上杉子 (2013年2月25日). “横濱JAZZ PROMENADE”. 2015年11月5日閲覧。 “私の世代の横浜の若者達は、ナイトクラブで遊んだものでした。“ナイトアンドデイ”、“ブルースカイ”、“クリフサイド”、“ゼブラクラブ”といったナイトクラブに行くと、レイモンド・コンデだとか南里文雄率いるホット・ペッパーズ、秋吉敏子なんかが演奏していて、座って聞くだけではなく踊りまくったものでした。もともと横浜には戦後に(アメリカの)進駐軍が真っ先に入ってきたので、ジャズの土壌が作られていました。関内地区、山下公園、横浜公園、本牧、山手、港湾施設などには米軍施設が建てられて、ジャズをやるクラブもあちこちにあったんです。”:猪上杉子による鶴岡博ヘのインタビュー
  7. ^ バーリット・セービン (2005年10月19日). “(かながわ見聞録)クリフサイド”. 朝日新聞・朝刊・神奈川. "奥に行くと、250人が収容できるボールルームがある。つり天井で柱が少なく、ダンスフロアが特に広い。バンドが演奏する舞台もある。伝説のトランペッター南里文雄さんは昭和20年~30年代に、この舞台でよく吹いた。二階の「トランペット・ルーム」の名が南里さんに由来する。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  8. ^ 上海帰りのリル - Movie Walker
  9. ^ Pen」2017年 09月01日号 No.435 P82 - 83より

座標: 北緯35度26分18.9秒 東経139度38分57.3秒 / 北緯35.438583度 東経139.649250度 / 35.438583; 139.649250