ケニー・ブラックKenny Bräck, 1966年3月21日 - )は、スウェーデン人の元レーシングドライバー、1999年インディ500優勝者。

ケニー・ブラック(2011年グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード

プロフィール 編集

1980年代末にスウェーデンF3で活躍後、1993年北米のバーバー・サーブシリーズでチャンピオンになる。国際F3000参戦3年目にシリーズ2位となり、その間F1のテストドライブも経験する。1997年活動の場をアメリカに移しIRLに参戦。AJフォイトに移籍をした1998年には3勝マークしてチャンピオンに、翌1999年にはインディ500を逆転で勝利を収めシリーズ2位と大成功を収めた。

2000年にCARTへ転向、レイホールに在籍をし初年度から活躍し、シリーズ4位でルーキーオブザイヤーを獲得する。翌年は4勝6PPでシリーズ2位へと躍進。2002年はチャンピオンを狙えるチーム、チップ・ガナッシに移籍をするが最終戦の1勝のみでシーズンを終了した。

2003年はCARTの騒動から、IRLへ流れたメーカー、チームと歩調を合わせてIRLへ移籍復帰し、CART時代の古巣レイホールへ復帰をしてシーズンを戦うが最終戦で大クラッシュ、腰椎などを骨折する重傷を負い、手術を受けた。

約1年半のリハビリおよび休養の後、2005年のインディ500で復帰。予選ではポールポジションのスピードを上回る結果を出したが、予選3日目であったためスタートは23番手。決勝ではハンドリングに苦しみ92周を終えた時点でリタイア、26位に終わった。

翌2006年、ブラックは引退を発表。引退後の一時期、母国スウェーデンの後輩であるマーカス・エリクソンのマネージャーを務めていた時期があった。エリクソンがインディ500を制するのは、ブラックがインディ500を制した23年後の出来事である。

2009年8月、ロサンゼルス郊外のホーム・デポ・センター周辺で開催されたX Games XVのラリーカーレーシング部門にフォード・フィエスタで参戦。決勝でスバル・インプレッサを操るトラビス・パストラーナと対戦、パストラーナのミスもあり見事金メダルを獲得した。

経歴 編集

  • 1996年 国際F3000参戦/ベネトンF1テストドライバー
  • 1997年 IRL参戦
  • 1998年 IRL(チーム:AJ フォイト エンタープライズ(A.J.Foyt Enterprises))3勝 シリーズチャンピオン
  • 1999年 IRL(チーム:AJ フォイト エンタープライズ)(マシン:ダラーラオールズモビル) シリーズ2位 インディ500優勝
  • 2000年 CART参戦(チーム:レイホール(Rahal))(マシン:レイナード2KIフォード)最高位2位 シリーズ4位 ルーキーオブザイヤー獲得
  • 2001年 CART(チーム:レイホール)(マシン:ローラB1/00フォード)4勝,6PP シリーズ2位
  • 2002年 CART(チーム:チップ・ガナッシ(Chip Ganassi))(マシン:ローラB2/00トヨタ)1勝 シリーズ6位
  • 2003年 IRL インディカー・シリーズ復帰(チーム:レイホール)(マシン:ダラーラIR03ホンダ)最高位2位 シリーズ9位
  • 2005年 IRL インディカー・シリーズ(チーム:レイホール)(マシン:パノスGフォースGF09ホンダ)インディ500 予選23位 決勝26位

国際F3000選手権 編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1994年 マジウィック・インターナショナル SIL
12
PAU
DNS
CAT
11
PER
11
HOC
9
SPA
3
EST
6
MAG
10
11位 5
1995年 SIL
5
CAT
13†
PAU
4
PER
Ret
HOC
2
SPA
Ret
EST
3
MAG
1
4位 24
1996年 スーパーノヴァ・レーシング NÜR
1
PAU
2
PER
Ret
HOC
1
SIL
1
SPA
5
MAG
2
EST
3
MUG
3
HOC
DSQ
2位 49

アメリカン・オープンホイール 編集

ボールド表示はポールポジション獲得レース)

インディカー・シリーズ 編集

チーム シャシー No. エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
1996-97年 ガレス・レーシング Gフォース・GF01 4 オールズモビル・オーロラ V8 NHM LVS WDW PHX
11
INDY
33
TXS
18
PPIR
14
CLT
5
NH2
5
LV2
20
19位 139
1998年 A.J.フォイト・エンタープライズ ダラーラ・IR8 14 WDW
13
PHX
14
INDY
6
TXS
3
NHM
18
DOV
10
CLT
1
PPIR
1
ATL
1
TX2
5
LVS
10
1位 332
1999年 ダラーラ・IR9 WDW
22
PHX
24
CLT
C
INDY
1
TXS
13
PPIR
7
ATL
3
DOV
3
PPI2
10
LVS
2
TX2
16
2位 256
2002年 チップ・ガナッシ・レーシング Gフォース・GF05C 22 シボレー・インディ V8 HMS PHX FON NZR INDY
11
TXS PPIR RIR KAN NSH MIS KTY STL CHI TX2 42位 19
2003年 チーム・レイホール ダラーラ・IR-03 15 ホンダ・HI3R V8 HMS
11
PHX
5
MOT
2
INDY
16
TXS
4
PPIR
7
RIR
7
KAN
5
NSH
6
MIS
18
STL
19
KTY
19
NZR
5
CHI
21
FON
20
TX2
16
9位 342
2005年 レイホール・レターマン・レーシング パノス・GF09C ホンダ・HI5R V8 HMS PHX STP MOT INDY
26
TXS RIR KAN NSH MIL MIS KTY PPIR SNM CHI WGL FON 34位 10

インディ500 編集

シャシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
1997年 Gフォース・GF01 オールズモビル・オーロラ V8 15 33 ガレス・レーシング
1998年 ダラーラ・IR8 オールズモビル・オーロラ V8 3 6 A.J.フォイト・エンタープライズ
1999年 ダラーラ・IR9 オールズモビル・オーロラ V8 8 1 A.J.フォイト・エンタープライズ
2002年 Gフォース・GF05C シボレー・インディ V8 21 11 チップ・ガナッシ・レーシング
2003年 ダラーラ・IR-03 ホンダ・HI3R V8 6 16 チーム・レイホール
2005年 パノス・GF09C ホンダ・HI5R V8 23 26 レイホール・レターマン・レーシング

CART 編集

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 順位 ポイント
2000年 チーム・レイホール レイナード・2Ki フォード・XF V8t MIA
18
LBH
17
IO
10
MOT
5
NZR
3
MIL
4
DET
24
POR
6
CLE
2
TOR
10
MIS
22
CHI
4
MDO
5
ROA
3
VAN
9
LS
5
STL
11
HOU
15
SRF
2
FON
13
4位 135
2001年 ローラ・B01/00 MTY
5
LBH
25
TXS
NH
NZR
2
MOT
1
MIL
1
DET
9
POR
11
CLE
6
TOR
20
MIS
17
CHI
1
MDO
20
ROA
14
VAN
8
LAU
1
ROC
2
HOU
7
LS
25
SRF
5
FON
26
2位 163
2002年 チップ・ガナッシ・レーシング ローラ・B02/00 トヨタ・RV8F V8t MTY
18
LBH
5
MOT
17
MIL
8
LS
3
POR
15
CHI
18
TOR
2
CLE
4
VAN
18
MDO
6
ROA
14
MTL
18
DEN
7
ROC
8
MIA
13
SRF
4
FON
12
MEX
1
6位 114

エピソード 編集

1996年にベネトンでF1のテストドライバーを経験し、翌年のレギュラーシート獲得も期待されたが、実現することなくアメリカへ活躍の場を移した。これは当時ベネトンのマネージングディレクターであったフラビオ・ブリアトーレが自身のドライバーマネージメント傘下に入ることをオファーしてきたが、これを固辞したことが原因といわれる。フラビオは当時すでにチームマネージメントをこなす傍らで、ドライバーマネージメントも手がけ始めており、若手を中心にいわゆる「子飼い」のドライバーを増やし始めていた。ドライバーにとっては、下位カテゴリーでの活躍如何でF1のレギュラーシートやテストの機会が用意される期待もある半面、フラビオが数多く抱える他のドライバーとの兼ね合いなどにより、自身のレース活動が制約を受けたり、高額なマネージメント料をはねられるなどデメリットも言われており、これを嫌ったブラックは以降のF1での活動の場を奪われたと見る向きが強い。

関連項目 編集

外部リンク 編集