デューイ (駆逐艦)

ファラガット級駆逐艦
デューイ (DD-349)から転送)
艦歴
起工 1932年12月16日
進水 1934年7月28日
就役 1934年10月4日
退役 1945年10月19日
その後 1946年12月20日スクラップとして売却
性能諸元
排水量 1,726トン
全長 341 ft 3 in (104.01 m)
全幅 34 ft 2 in (10.44 m)
吃水 10 ft 3 in (3.12m)
機関
最大速 36ノット(67 km/h)
乗員 士官、兵員160名
兵装 建造時
38口径5インチ砲5門
50口径機銃4基
21インチ魚雷発射管8門
1943年
Mk33火器管制システム
38口径5インチ砲4門
21インチ魚雷発射管8門
Mk51 ガンディレクター
ボフォース 40mm機関砲4門
エリコンSS 20mm機銃5門
爆雷投下軌条2軌

デューイ (USS Dewey, DD-349) は、アメリカ海軍駆逐艦ファラガット級駆逐艦の1隻。艦名はジョージ・デューイ大元帥にちなむ。

デューイは第二次世界大戦において太平洋で運用された。真珠湾攻撃にて損傷を免れ、珊瑚海海戦にて空母レキシントンが撃沈されるまで護衛した。その後、ガダルカナル島における戦闘及び第二次ソロモン海戦を通じてサラトガを護衛した。サンフランシスコでの修理・補修後、デューイは1943年にアラスカの海域でアッツ島キスカ島の攻撃を支援した。デューイは1944年にマーシャルキャロラインマリアナ沖海戦において空母の護衛及び攻撃の支援を行った。フィリピンの奪還中にコブラ台風によって被害を受けた後、デューイは硫黄島の侵攻を支援し、その後は終戦まで補給艦の護衛にあたった。

艦歴 編集

デューイは1934年7月28日にバス鉄工所にて起工、1932年12月16日起工1934年10月4日に就役した。 キューバグアンタナモ湾ハイチポルトープランスで訓練を行った後、デューイは1935年4月1日にバージニア州ノーフォークからカリフォルニア州サンディエゴに向けて出航し、4月14日に入港した。1938年まで、デューイはサンディエゴを母港として主に戦闘演習、艦隊演習に参加した。その後西海岸に沿って北はアラスカから南はペルーカヤオまで航行した。1939年1月4日から4月12日まで、デューイは大西洋の艦隊強化のため大西洋に配備された。その後1939年10月12日に真珠湾に入港し、1941年まで再び演習に参加した。

第二次世界大戦 編集

1941年12月7日、日本による真珠湾攻撃時、デューイは船体のメンテナンスを受けていた。デューイは敵機に対して対空砲撃を行い、その日の午後ハワイ海域の哨戒に出た。12月15日、第11任務部隊に参加し、12月23日に日本軍に占領されたウェーク島の海軍及び海兵隊を救援した。その後デューイは哨戒任務に戻った。

1942年2月、デューイはラバウルへの攻撃が計画されたため再び第11任務部隊に加わった。部隊は日本軍の哨戒機2機によって発見・報告され18機の日本の爆撃機が出撃した。デューイは日本軍爆撃機への迎撃を支援し、ラバウル攻撃は中止となった。3月10日のパプアニューギニアサラマウアへの攻撃においてレキシントンを警護し、26日に真珠湾に戻った。

第11任務部隊はソロモン諸島での作戦のために1942年4月15日に真珠湾から出撃した。5月5日、日本軍がポートモレスビーへ進軍しているとの報告があり、デューイが所属する部隊は珊瑚海海戦でヨークタウンの護衛に加わった。レキシントンが激しい攻撃を受けた際にデューイは対空砲火に加わり、5人の乗組員が敵の機銃掃射で負傷した。レキシントンは爆撃による火災が消化不能となり自沈、デューイは空母の生存者112名を救助した。デューイは5月12日にヨークタウンをヌメアまで護衛し、5月25日にエンタープライズを護衛して真珠湾に戻った。

デューイは3日後にエンタープライズの任務部隊に加わり出航した。ミッドウェー海戦では6月2日から6日まで参加し、この間は給油艦プラット (USS Platte, AO-24)を護衛した。6月9日に真珠湾に戻り、6月22日から29日の間にミッドウェーの航空戦隊に空母が合流する際、デューイはサラトガを護衛した。8月7日、ガダルカナル島上陸の際急降下爆撃機に対して対空砲火を行い、1人の乗組員が負傷した。デューイは損傷した駆逐艦ジャービスを曳航し、輸送艦ジョージ・F・エリオットの生存者のうち40人を救助した。

デューイは補給線と通信線を保護するためにソロモンに留まり、1942年8月24日の第二次ソロモン海戦においてサラトガを護衛した。8月31日の潜水艦の魚雷で損傷したサラトガを真珠湾まで護衛し、9月23日に入港した。6日後、サンフランシスコで修理・補修を受けるために出航した。1942年12月27日、デューイはアラスカ海域での任務に就いた。デューイはアムチトカ島で座礁したウォーデン曳航しようとしたが、曳航に失敗し、船体の放棄を余儀なくされた際に生存者を救助した。1943年4月7日、デューイはサンペドロに向けて出航し、5月11日の攻撃のため部隊を護衛した。デューイは更に、8月15日にキスカに上陸した後、戦車揚陸艦の部隊をサンフランシスコまで護衛し、9月19日に到着した。

1944年 編集

1944年1月13日にサンディエゴから出航したデューイは1月31日にクェゼリン沖に到着し、2月11日のマジュロでの空母攻撃と2月18日のエニウェトクへの侵攻の際に護衛を務めた。デューイはエニウェトクロイマジュロの間の護送船団を護衛し、3月17日から18日にミリ環礁を砲撃した。3月22日から6月6日まで、デューイは第58任務部隊の護衛に就き、4月21日と22日のホーランジアの戦い及び4月29日から5月1日までのトラックにおける戦闘にてパラオヤップ島ウルシー環礁ウォレアイ環礁の攻撃に参加した。6月6日、デューイは6月11日にテニアン島サイパン島を攻撃する空母を護衛するために航海し、6月13日と14日にサイパン島とテニアン島を爆撃が行われた。マリアナ諸島上陸時には、デューイは6月19日と20日のフィリピン海戦で空母を護衛し、塹壕を掘ることを余儀なくされた数人のパイロットと乗組員を救助した。

デューイはグアムの侵攻のために1944年7月1日に輸送艦の護衛に加わった。7月28日までに偵察部隊への火力支援、潜水艦隊の作業補助、夜間の擾乱射撃などを実施し、ピュージェット・サウンド海軍造船所で短期間の船体補修を受けた。

デューイは1944年9月30日に出航し、10月10日に第3艦隊の補給部隊に加わった。フィリピン攻撃のための補給作戦で部隊を護衛したが、12月18日の台風により第3艦隊は甚大な被害を被った。デューイは正午までに航行能力を失い、船体は75度以上傾斜した。1945年2月8日、ウルシー環礁での修理が完了した後、艦隊に復帰し、2月17日に硫黄島に到着した。そこでデューイはパタクセント (USS Patuxent, AO-44) の消化作業を援護し、さらに2月19日に島を襲撃した海兵隊を支援した。

1945年3月4日から6日までレイテ島へ護送船団を護衛した後、デューイは沖縄戦において再び補給部隊に加わり、空母に燃料を補給する際に補給艦を護衛した。

その後 編集

1945年10月19日に廃止され、1946年12月20日にスクラップとして売却された。

従軍星章 編集

デューイは第二次世界大戦中の功績により13個の従軍星章を受章した。

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集