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ニシノライデン日本競走馬種牡馬である。中央競馬重賞 (GII) を4勝した。

ニシノライデン
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1981年3月20日
死没 2011年12月31日(30歳没)
ダイコーター
ミスホマレシロー
母の父 ダディダンフィ
生国 日本の旗 日本北海道鵡川町
生産 西山牧場
馬主 西山正行
調教師 伊藤修司栗東
競走成績
生涯成績 中央競馬26戦7勝
獲得賞金 2億8923万8000円
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斜行癖があることで知られ、朝日チャレンジカップの1位失格や天皇賞・春の2位失格など延べ6回の処分歴があり、「降着制度の産みの親」とも言われる(後述)。

※戦績の馬齢は旧表記(数え年)とする。

戦績編集

4歳となった1984年2月京都競馬場でデビュー。当初は伊藤清章[1]が騎手をつとめた。デビュー戦を勝った後5戦3勝でクラシック路線に乗るが、三冠馬シンボリルドルフらの壁は厚く、皐月賞は6着、日本ダービーでは5着に終わった。秋に神戸新聞杯[2]2着の後、菊花賞トライアルの京都新聞杯で重賞初制覇。菊花賞では打倒ルドルフの一番手として2番人気に推された。直線早目に先頭に立って、堂々とシンボリルドルフを負かしにいく競馬をしたが3着に終わった。このレースを実況していた杉本清が、ニシノライデンのレースぶりをのちに著書[3]で褒めている。

5歳初戦の鳴尾記念(当時は3月に開催された芝2500mのGII)で重賞2勝目。大阪杯を挟んで天皇賞・春に出走するがシンボリルドルフの4着に終わった。そして秋初戦の朝日チャレンジカップでは1位に入線するが、斜行して失格となった。伊藤がこのレースでの処分で騎乗停止となり、次の京都大賞典では田原成貴が初騎乗し、ヤマノシラギクの2着。しかし天皇賞・秋では12着に敗れ、再び伊藤が騎乗すると阪神大賞典(当時は12月開催)で重賞3勝目をあげ、有馬記念ではシンボリルドルフ、ミホシンザンに次ぐ3着。

6歳初戦の日経新春杯で4着に敗れると故障し、1年2ヶ月の休養を経て7歳で復帰。復帰初戦の阪神大賞典[4]は8着に終わったが、再び田原に乗り替わった大阪杯で重賞4勝目を飾る。

そして、天皇賞・春では圧倒的1番人気のミホシンザンに次ぐ2番人気に支持された。レースでは最後の直線で急に外側に斜行し、外を走っていたアサヒエンペラーの進路を妨害。ゴール前ではアサヒエンペラーと内・外が入れ替わっているほどの斜行で、アサヒエンペラーは騎手蛯沢誠治が立ち上がるほどの不利を受けた。この間に内を突いたミホシンザンとニシノライデンがほぼ同時にゴールイン。長い写真判定と審議が行われ、まずは1位ミホシンザン、ハナ差2位にニシノライデンと表示されたが、さらに長引いた審議の末、ニシノライデンは失格処分となった。 GI級のレースで2着までに入線した馬が審議の結果失格処分となったのは日本中央競馬会史上初であった。

続く宝塚記念では、失格処分の同情票も集めたかGIレースで初めて1番人気に支持されたが、同期のスズパレードの3着に敗れた。

このレースを最後に故障し、現役を引退した。

競走成績編集

通算26戦7勝

  • 4歳:13戦4勝 京都新聞杯 (GII) 、神戸新聞杯 (GIII) 2着
  • 5歳:8戦2勝 鳴尾記念 (GII) 、阪神大賞典 (GII) 、京都大賞典 (GII) 2着
  • 6歳:1戦0勝
  • 7歳:4戦1勝 サンケイ大阪杯 (GII)

引退後編集

引退翌年の1988年より西山牧場で種牡馬となった。馬主の厚意で種牡馬入り間もない頃は桜花賞ダイアナソロンの母ベゴニヤや、西山牧場の割合優秀な成績を残した牝馬など、少ないながらもそれなりの繁殖牝馬が集められた。しかし産駒には気性に問題があり、入厩はしたものの出走にこぎ着けられない馬も多く、活躍馬は現れなかった。種牡馬登録は生涯続いたものの、1997年以降は産駒が生まれなかった。繁殖に上がった牝馬もほとんどおらず、結局ニシノライデンの血を引く馬は残せなかった。実質的な種牡馬引退後も西山牧場で功労馬として余生を送り、2011年12月31日老衰による心臓麻痺で死んだ[5]

エピソード編集

  • のちにナリタブライアンのトレードマークとなるシャドーロールは、ナリタブライアンの登場までは、本馬もシャドーロールを代名詞とする一頭であった。
  • 1位失格となった朝日チャレンジカップでは、ワカオライデンが繰り上がり1着となった。
  • 3着に敗れた宝塚記念レース後、西山正行とその実子の西山茂行は、天皇賞で失格を告げられた裁決委員に呼ばれ、パトロールフィルムを見せてもらい、スタート直後にニシノライデンがコース上にできた影に驚いてジャンプし、それで引っかかったところを確認できたという。天皇賞で失格を告げた裁決委員がこの時には「お気の毒ですが」と優しく声をかけてくれたという。

第95回天皇賞について編集

  • 問題の天皇賞については、「真っ直ぐ走っていればニシノライデンが天皇賞馬だった」という意見もあるが、騎乗していた田原までも、「ニシノライデンは真っ直ぐ走るよりも、斜めに走る方が調子が良かった」とまで発言していた。
  • 田原は天皇賞で騎乗停止処分となり、いずれも当時お手馬であったマックスビューティでのサンスポ杯4歳牝馬特別フレッシュボイスでの安田記念に騎乗できなかった。いずれも柴田政人(天皇賞ではミホシンザンに騎乗)が騎乗し、勝利を収めた。
  • 柴田政人は後に、あくまでも推測としながらも、「ミホシンザンとアサヒエンペラーは馬の格好も似ているし、勝負服も似ていた[6]から、ひょっとして外に来たアサヒエンペラーを俺の馬(ミホシンザン)と間違えて、馬体を併せに来たら斜行してしまったんじゃないか。ニシノライデンとアサヒエンペラーが外に行ったから自分は内を突いて、ゴール板のところでミホシンザンがわずかに前に出たのは確信できた。」と語っている[7]
  • 失格の裁決が下った後、この時の審議に当事者であった田原が呼び出されたのが着順が決定した後だった事から、田原は「きっと、天皇賞馬を失格に出来ないので、ニシノライデンを2着にしたんだよ。」と思ったという。なお、「優勝したが故に、失格されてもおかしくなかったのに失格とならなかった例」は複数例ある[8]
  • ニシノライデンの天皇賞失格以後、「進路妨害等をした馬がレースで発揮した能力についても最大限尊重すべき」という論議が起こり、欧米で採用されていた降着制度が導入される一因となっている[9]

血統表編集

ニシノライデン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ボワルセル系
[§ 2]

ダイコーター
1962 鹿毛
父の父
*ヒンドスタン
Hindostan
1946 黒鹿毛
Bois Roussel Vatout
Plucky Liege
Sonibai Solario
Udaipur
父の母
*ダイアンケー
Dianne K.
1950 鹿毛
Lillokid Jack High
Amaranth
Bonnie Luna Bon Homme
Rockiluna

ミスホマレシロー
1975 栗毛
*ダディダンフィ
Daddy Dunphy
1965 鹿毛
Coboes Mahmoud
Belle of Troy
Feria Thoulouse Lautrec
Feira de Rio
母の母
クリロット
1970 黒鹿毛
*オンリーフォアライフ
Only For Life
Chanteur
Life Sentence
クリツヒメ ハクリヨウ
クリホマレ
母系(F-No.) セレタ系(FN:1-b) [§ 3]
5代内の近親交配 Blue Larkspur 5×5 [§ 4]
出典
  1. ^ [10]
  2. ^ [11]
  3. ^ [12][10]
  4. ^ [10]


母系は西山牧場由来ではなく大東牧場由来のもの。4代母クリホマレはクリペロクリヒデの天皇賞馬兄妹の姉にあたり、6代母英月(競走名テツバンザイ)1941年阪神優駿牝馬の勝ち馬。

脚注編集

  1. ^ 現姓上野、当時は調教師伊藤修司調教師の娘婿。
  2. ^ 当時はGIII。
  3. ^ 「あなたのそして私の夢が走っています」(双葉社
  4. ^ 鳴尾記念と入れ替わる形で3月開催。
  5. ^ ニシノライデン死す…
  6. ^ ミホシンザンの勝負服は横縞、アサヒエンペラーのそれは縦縞という違いはあるが、袖が赤で胴が緑と黄色の縞模様と言う配色は一緒である。
  7. ^ 別冊宝島143競馬名馬読本」より。
  8. ^ ミスターシービーが日本ダービーで、シンボリルドルフが皐月賞で進路妨害と受け取られかねない行為をしながらも、両者共に失格とはならず騎乗停止処分だけとなっている。
  9. ^ 降着制度は1991年に採用されている
  10. ^ a b c 血統情報:5代血統表|ニシノライデン”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2016年9月26日閲覧。
  11. ^ 小林皓正(編)『サラブレッド血統マップ'93』コスモヒルズ、1993年、32頁。
  12. ^ 『優駿』1985年5月号、日本中央競馬会、127頁

外部リンク編集