杉本清
杉本 清(すぎもと きよし、1937年2月19日[1] - )は、奈良県大和高田市出身のフリーアナウンサー・競馬ジャーナリスト。元関西テレビアナウンサーで、現在はアライバル所属。関西放送記者クラブ会友。血液型はB型。
すぎもと きよし 杉本 清 | |
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プロフィール | |
出身地 | 奈良県大和高田市 |
生年月日 | 1937年2月19日(83歳) |
血液型 | B型 |
最終学歴 | 関西学院大学法学部卒業 |
所属事務所 | アライバル |
職歴 |
元関西テレビアナウンサー・編成局専任局次長 局長待遇ゼネラルエキスパートアナウンサー |
活動期間 | 1961年 - |
ジャンル | スポーツ(主に競馬実況) |
出演番組・活動 | |
出演中 | 一覧を参照 |
出演経歴 | 「競馬中継」「エキサイティング競馬」「ドリーム競馬」「とんねるずのハンマープライス」 |
来歴編集
少年時代の夢はプロ野球選手であった。奈良県立高田高等学校在学中は野球部に所属していたが、猛特訓を受けた反動でスポーツ性の腎機能障害を患ってしまい、このことがきっかけで運動制限がかかってしまい、野球を断念する。この頃からラジオのナイター中継を聴いているうちに、プレーをしている選手よりも実況しているアナウンサーに興味が移っていった。
高校卒業後は関西学院大学法学部[1]へ進学し、在学中の1960年に知人のツテを頼って関西テレビにアルバイトとして入社[2]。大道具担当[3]→編成担当を経て[4]、1961年に松本暢章の勧めでアナウンサー試験を受験し[5]、合格して正社員に登用される[6]。
同年冬に研修で松本に連れられて行った阪神競馬場で馬券を的中させ、競馬の魅力に取り付かれる[7]。
1962年の桜花賞中継でパドック担当のアナウンサーとなり[8]、同年6月の中央競馬ダイジェストで出張中の松本に代わって毎日杯の実況を担当[9]。まずまずの出来だった事もあり、以降はパドック担当に加え、土曜日のダイジェストの実況を担当する事になり[10]、次いでゲートリポートと勝利ジョッキーインタビュー担当も兼ねる様になった[11]。1969年からは競馬中継がカラー放送化され、番組がレギュラー化、放送時間拡大される事に伴い、正式に松本が司会進行役となりメイン実況担当の座を譲られた[12]。但し、実況自体はこれ以前にも現在のGII・GIII相当の重賞を担当した事があり、1966年4月17日に京都競馬場で行われたスワンステークス(優勝・バリモスニセイ)が、確認できる内では最古の杉本の実況である。
メイン実況の座を正式に譲られて最初の実況は桜花賞で[13]、実況の中で通過時計を入れたのは杉本が最初とされている[14]。実は栗田勝から『1600mのレースで、最初の800mを47秒で通過すれば前の馬は全部つぶれる』と聞いており[15]、この桜花賞がそのペースで展開していたため「ゴールまで800m、47秒かかりました。かなり速いペース、桜花賞ペースになっています。追い込み馬が届く展開です。」[16]と思わず言ったが、レースは待機策を採ったヒデコトブキが1番人気・トウメイを差し切って優勝し[14]、名手・栗田の予言通りとなった。しかし、レース後に関東のアナウンサーから、この実況を『優駿』を通じて指摘されている[15]。
初期の実況では未熟さが露呈し、特に長距離レースの実況ではペースがうまく掴めず、最後の直線で声が一杯一杯になってしまう場面も多かった。代表例としてエリモジョージが逃げ切り勝ちを収めた1976年天皇賞・春が挙げられる[17]。1973年の天皇賞(春)では、双眼鏡で本命馬タイテエムを探すうちに見失ってしまい、あやふやな実況を余儀なくされたにも拘らず[18]、モニター画面ではタイテエムをしっかり映していたことや[19]、レースの翌日に『杉本さん、あなた、タイテエムを見失っていたでしょう』と競馬ファンから指摘されたこと[19]を切っ掛けに、双眼鏡を介した実況からモニター画面を重視した実況に変わっていった[20]。天皇賞の2週間程度前に行われた桜花賞でも2番人気・キシュウローレルをクインマハールと間違えて実況した。ほんの少しの間であったのと、タイテエムと違い、レースに勝利したのが間違えた馬達と関係無い1番人気・ニットウチドリだったこともあり、天皇賞の様な指摘は見当たらなかった。1973年の菊花賞の実況では3角にさしかかった2番手ハイセイコーを栗田勝から聞いていた言葉『ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、下らなければなりません』と放送した[21]。それに対してよい反応があったため坂を意識して実況するようになったという[22]。ハイセイコーには特に思い入れがあったため、1974年秋の京都大賞典では『ミスターサラブレッド・ハイセイコー、これが関西最後の雄姿です』は引退を年末に控えているとは言うものの、現役馬を表現するのには異彩を放った放送であった。
テンポイントとの繋がりは各方面で数多く触れられており、1975年の阪神3歳ステークスの実況の評判を聞きつけたポリドール・レコードの関係者(「さらばハイセイコー」のレコードも担当)が、杉本に「歌を歌ってくれ」と依頼[23]。杉本は一応は歌ってレコーディングもしたものの、出来の酷さに結局は不採用となった[24]。このレコードが世に出た頃、テンポイントが初めて関東のレース[25]に出走することになり、ポリドール関係者は東京競馬場のパドックにテンポイント応援の横断幕を張った。これが、現在では各地で一般に見られるパドック掲示の横断幕の始まりと言われている。レコード関連では、1980年に「杉本清・競馬名勝負大一番! - 1980年度中央競馬8大レースのすべて」という企画レコードもある。また1997年には「杉本清のGI〜完全実況'97前期・後期」のタイトルでCD・ビデオを出している。1997年の皐月賞と日本ダービーを実況したのは、このレコードのための実況だった(グレードAの競馬コーナー用に収録)。2000年以後は東京優駿(日本ダービー)スタート前の国歌斉唱(ないしは演奏)のセレモニー司会を担当している。また、テンポイント・トウショウボーイ・グリーングラス(俗に「TTG」と称す)が揃ったレースではこの3頭が上位を独占したが、杉本がTTG揃い踏みのレースを実況したのは、厳密に言えば1976年の菊花賞だけである(揃い踏みのレースは3度あったが、他の2回のうち1977年の宝塚記念は鈴木敏郎アナウンサー(当時)が実況しており、後述の名実況で名高い有馬記念は、本来は日経新春杯のアクシデントで実現せずに終わったテンポイントの海外遠征ドキュメンタリー番組での収録が予定されていた実況である)[26]。
「杉本節」「実況詩人」と呼ばれた杉本ではあったが、松本とは違い三冠馬の実況(松本は1964年シンザンの三冠達成を実況)をする機会にはなかなか恵まれなかった。1970年の二冠馬タニノムーティエと1976年のテイタニヤはそれぞれ敗北、1971年のヒカルイマイと1975年のカブラヤオー、1981年のカツトップエースはそれぞれ故障で出走叶わなかった。カツトップエースの不出走以降、周囲から「杉本は三冠馬の実況をした事が無い」と言われ始めたが、その矢先の1983年ミスターシービー、1984年シンボリルドルフと2年連続で三冠馬が出現、1年置いた1986年にはメジロラモーヌ、その8年後の1994年にはナリタブライアンと、計4頭の三冠達成の瞬間の実況をする栄誉を担った。その間、1987年のマックスビューティや1992年のミホノブルボンのように、三冠が確実視されながらも最後の直線で他馬に差されて三冠を逃したレースも実況していた。また、前述の1997年には通常関わることの無い関東のクラシックレースでサニーブライアン二冠達成の実況も行っていた。
1990年に「専門職」(正式名は局長待遇ゼネラルエキスパートアナウンサー)と呼ばれる半ばフリーな立場となった。『優駿』での杉本の説明によれば、この「専門職」とは「好きなことをやっていいと言うことだったんですよ。こう言う対談に出るにしても、会社を通さなくて良いから、自分で判断してやる」立場とのこと。また、関西テレビ内では杉本の後輩・桑原征平もフリーになる直前の肩書は「専門職」だった。関西テレビアナウンサーが専門職まで登りつめたのは現在に至るまでこの2人のみである。
1992年からは年末恒例の『さんま・清の夢競馬』がスタート、1995年からは『とんねるずのハンマープライス』のオークショニアとして出演し、とんねるずと親交を持つようになり、バラエティーにも進出する[27]。また、1995年頃『さんまのナンでもダービー』(テレビ朝日制作)では局の垣根を越えて出演し、実況を担当した[28]。
一方では、1995年の宝塚記念での実況について苦情の手紙を寄せた視聴者に対し、生涯初めて実況に関する謝りの手紙を出している。このレースでライスシャワーが骨折、転倒した際に京都競馬場の客席から大きな悲鳴が起ったが、これを歓声と勘違いしてしまった杉本は「大歓声が上がった」と実況してしまう。すぐに落馬に気づき「おおーっと、1頭落馬!」と続けたが、この実況に「ライスシャワーが落馬しているのに『大歓声!』とは何事か」と苦情の手紙が来たのである。杉本はライスシャワー落馬の瞬間が初めは分からず、落馬に気付いた時に何が落馬したのかと双眼鏡で見ようとした際、ゲスト解説を務めていた田原成貴が「ライスシャワー!」と言ったので、その時点で落馬したのがライスシャワーだったのに気付いたと言う。ただし、その手紙には「あなたは以前よりライスシャワーに冷たかった」とも書かれていたというが、この言葉に対して杉本は「自分は競馬が単なるギャンブルでなく大衆スポーツとして認められるずっと以前から競馬に携わってきた。そんな私がライスシャワーに冷たいはずがないじゃないですか。同じ年の天皇賞の実況でもライスシャワーに思い入れをこめていた(2着馬ステージチャンプの蛯名正義がガッツポーズを見せる程の際どい決着であったが、杉本はゴール後すぐ「やったやったライスシャワーです!」「メジロマックイーンもミホノブルボンも喜んでいる事でしょう」とライスシャワー勝利を確信した実況をしている)し、愛すべき馬の一頭だった」と返答したという[29]。1996年には、大往生を遂げたシンザンの追悼イベントの司会も務めた。
1997年2月19日編成局専任局次長職を最後に定年退職。退職前にとんねるずの誘いを受け、彼らの個人事務所であるアライバルへの所属が決定。定年退職の当日は『ハンマープライス』の企画で「杉本清引退記念パレード」と銘打って、大阪市内をオープンカーでパレードを行った。以降は日本テレビ『スポーツうるぐす』の競馬キャスター、関西テレビ『ドリーム競馬』のターフコメンテイターを担当。また、数々の競馬イベントの司会も担当し、さらにはCMのナレーションも多く担当している。
競馬実況そのものは、定年退職直後は宝塚記念・天皇賞(春)・菊花賞とその関連のレースに絞り、徐々に担当レースをかつての部下で後輩アナウンサーの馬場鉄志に譲り(それ以前から杉本の不在時の実況や牝馬戦線を担当していた)、2000年の菊花賞で実況生活に一旦区切りをつけ、大阪国際女子マラソン開催時の京都競馬場での一般特別競走(非重賞)[30]と宝塚記念だけ実況していたが、2004年を最後に宝塚記念の実況からも引退し、以後の実況はどちらも石巻ゆうすけアナウンサーが務めている。
その後、2007年4月22日に、東京競馬場フジビュースタンド竣工を記念して開催された第1回ジョッキーマスターズで久々の実況を行い、2008年11月9日に、アジア競馬会議が23年振りに日本で開催されることを記念して開催された第2回ジョッキーマスターズでも実況を行った。
また、フジテレビ系列の真夏の一大イベント「FNSの日」の盛り上げにも一役買っていた。1993年の『第1回平成GIダービー』が同日・初登場かつ初実況。それ以降、1994年の『第2回平成GIダービー 北野大障害』を前年に引き続く2年連続実況を担当。それから11年後の2005年には、『FNSあっついテレビ局決定戦』決勝トーナメントで、初戦として行われた準々決勝のサラリーマンドッジボールと準決勝・決勝戦の社長アームレスリング、全7試合の実況を担当した。
競馬中継の他にも、関西テレビ制作の三菱ギャラントーナメント(後のダイヤモンドカップゴルフ)の実況を1996年まで務めていた。最終日が日本ダービー当日と重なるケースが多く、プレーオフなどで競技終了時間が遅くなると、ダービーの映像をリアルタイムで見ることができないことも多かった。
天覧競馬となった2005年10月30日の第132回天皇賞(秋)のレース前、競馬関係者の一人として上皇明仁から言葉を掛けられた。
2009年12月27日を以って18年間続いた『DREAM競馬』が終了すると共に、杉本自身が解説の大坪元雄共々70歳を超えていたために中堅若手へと世代交代となり降板した。
2010年以降、競馬中継の第一線から離れたが、後継番組『競馬beat』では番組サイト上のコラム執筆を継続することを明言している[31]ほか、不定期ゲスト出演の可能性についても言及した。同年6月27日、宝塚記念当日の『競馬beat』に出演した。
2010年のテレビドラマ『チャンス』(NHK)の最終回では 有馬記念の実況役で出演した。
実況歴編集
GIレース・関西編集
- 高松宮杯[32]:1979年、1993年、1997年
- 桜花賞:1969年~1987年、1989年~1991年
- 天皇賞・春:1969年~1990年、1992年~2000年
- 宝塚記念:1969年~1976年、1978年、1981年~1984年、1987年~2004年
- 秋華賞:1996年
- 菊花賞:1969年~2000年
- ビクトリアカップ→エリザベス女王杯:1970年~1990年、1995年
- マイルチャンピオンシップ:1984年~1996年
- 阪神3歳ステークス→阪神3歳牝馬ステークス:1969年~1990年、1992年、1995年、1998年
- フジテレビのハイビジョン実用化試験放送で放送されていた「ハイビジョン競馬」で、地上波とは別にGIの実況(関西・中京地区)を行った(1993年から2000年まで)。
GIレース・関東編集
- フェブラリーステークス:1997年
- 皐月賞:1980年、1997年
- 優駿牝馬(オークス):1980年
- NHKマイルカップ:1997年
- 東京優駿(日本ダービー):1980年、1997年、※2000年~2008年(『スポーツうるぐす』用素材音源)
- 天皇賞・秋:1980年
- 有馬記念:※1977年(特番用[33])、※1980年(レコード用)
- 「※」は本放送以外の用途でのみ使用された実況音源の収録を行った年
海外編集
地方編集
- 名古屋優駿:1997年
- クラスターカップ:1997年
- ブリーダーズゴールドカップ:1996年、1999年
その他(判明分)編集
- 金杯(西):1974年、1985年、1986年、1992年
- シンザン記念:1975年、1984年~1990年、1994年〜1996年
- 日経新春杯:1973年、1978年、1980年、1984年~1985年、1987年~1993年、1996年~1998年
- 京都牝馬特別:1973年、1975年~1978年、1980年、1982年、1984年~1986年、1988年~1994年、1996年~1997年
- きさらぎ賞:1970年、1988年~1993年、1995年
- 京都記念(春)→京都記念:1969年、1973年、1975年~1978年、1983年、1985年~1992年、1994年、1996年~1997年
- マイラーズカップ:1971年、1973年、1981年、1985年~1990年、1992年~1993年、1996年
- ペガサスステークス:1988年~1991年
- アーリントンカップ:1992年~1993年、1995年
- 4歳牝馬特別(西):1973年、1975年~1977年、1984年~1986年、1988年~1990年、1995年
- 阪神大賞典:1972年、1984年~1985年、1988年〜1990年、1992年~1999年
- 毎日杯:1962年、1972年、1973年、1979年、1984年~1992年、1994年
- 阪急杯:1971年~1973年、1975年、1976年、1984年~1985年、1988年〜1990年、1993年~1994年
- サンケイ大阪杯→産経大阪杯:1973年、1974年、1976年、1984年〜1990年、1992年~1999年
- 京都4歳特別:1970年、1978年、1986年~1990年、1992年〜1994年、1996年
- 京都大障害(春):1975年
- スワンステークス:1966年、1973年、1975年、1976年、1982年~1984年、1988年~1990年
- 中日スポーツ賞4歳ステークス:1988年、1989年、1993年
- 鳴尾記念:1973年、1977年、1978年、1984年、1986年、1987年、1989年、1992年、1997年~1999年
- マーメイドステークス:1996年
- CBC賞:1993年
- 北九州記念:1984年
- 小倉記念:1984年
- 朝日チャレンジカップ:1973年、1976年、1981年、1982年、1984年~1986年、1988年、1989年、1995年、1996年
- 神戸新聞杯:1971年、1973年、1976年、1985年~1989年、1992年~1993年、1995年~1999年
- ローズステークス:1985年〜1993年、1995年
- サファイヤステークス:1983年、1988年~1990年、1992年
- セントウルステークス:1987年~1989年、1992年~1993年、1995年
- タマツバキ記念(秋):1984年
- ハリウッドターフクラブ賞→京都大賞典:1973年~1974年、1976年~1977年、1981年、1985年~1991年、1993年〜1996年
- 京都新聞杯:1971年、1973年、1981年、1983年~1999年
- 京都大障害(秋):1974年
- デイリー杯3歳ステークス:1969年、1973年
- 京都記念(秋):1976年、1980年
- 京阪杯:1977年、1978年、1984年、1987年~1992年
- 阪神牝馬特別:1984年、1986年、1988年~1992年、1994年~1996年
- ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス:1984年~1989年
エピソード編集
- 長年関西テレビの競馬中継で実況を担当し、「あなたの、そして私の夢が走っています」[34]という言葉は、宝塚記念を象徴する名言となっている。
- 競馬関係者との交流が幅広いが、それでも関東所属や地方競馬の関係者の中にはあまり顔を知らない人もいた[35]。かつて関東所属の関係者で縁が深かったのは柴田政人や、菊花賞2連覇の菅原泰夫が代表格で、岡部幸雄とは挨拶や対談程度で深い付き合いはなかった。しかし、岡部が引退して評論家に転身してからは、一緒に仕事をする機会が急増している。また、園田競馬場・姫路競馬場の場内実況で有名な吉田勝彦とも交友がある(吉田とは誕生日が5日違いの同級生どうしである)。
- プロ野球は長年南海ホークスのファンだったが、ホークスの身売りに伴う福岡移転で杉浦忠監督(当時)の「ホークスは不滅です。行ってまいります。」というコメントを聞いて感無量となり、それを機に野球ファンをやめた。
- 関西テレビ在職中はゴルフ中継も担当していたこともあり、プロゴルファー・杉原輝雄との親交も深かった。南海ホークスファン同士というつながりがあった。
- 1995年1月17日早朝、兵庫県南部を襲った阪神・淡路大震災の際は、杉本以外の関西テレビのアナウンサーが総動員で被災地の現場や最新情報などをレポートしたが、杉本だけは当時管理職であり「競馬実況のイメージが強すぎる」との理由から震災報道には加わらなかった。また、桑原とともにニュースもあまり担当することはなく、『KTVワイドニュース(FNNスピーク)』内でのローカルニュースを担当する程度であったが、1980年代中盤以降はそれもほとんどなくなった。定年退職の日には久方ぶりにニュースを担当した。
- 家族は妻と長男。長男の名前が横山典弘と同じであり「『弘典』で同名は多くいるが、『典弘』で同名というのはそんなに多くないだろうから珍しい」と著書の中で語っている。
- 前述の通り、1990年からアナウンサー職ではなく「専門職」となり、関西テレビ関係以外での仕事もするようになった杉本であったが、1996年8月15日に旭川競馬場で行われた第8回ブリーダーズゴールドカップ(優勝・メイショウアムール)で、たまたま旭川競馬場に来ていた杉本がレース実況も行った。杉本本人は「専門職」でもあり、また地方競馬を盛り上げる意味合いで引き受けたとされるが、「許可なし」でやったことを主催者側と関西テレビが問題にし(先の「専門職」に関する説明とは随分異なる反応である)、翌1997年に発売された地方競馬の交流重賞の映像を集めたビデオ「ビデオハロン96前期」では、このレースの実況が別のアナウンサーに差し替えられている。なお、定年退職後も同レースを含む地方競馬の実況をしばしば行っていた。
- 2020年に、菊花賞において三冠達成の実況アナウンサーである馬場鉄志・岡安譲と3人の対談(※Number競馬特集号)が行われ、この様子はyoutubeで見ることができる[36]。
主な出演番組編集
過去の出演番組編集
- さんま・清の夢競馬(関西テレビ)※明石家さんまとのGI予想コーナー
- 杉本清のサラブレッド讃歌(関西テレビ)
- サタうま!(関西テレビ)
- さんまのナンでもダービー(テレビ朝日)※「水曜特バン!」時代。レース実況
- とんねるずのハンマープライス(関西テレビ)※オークショニア
- Grade-A(フジテレビ・関西テレビ)
- デリバティブTV(テレビ東京)※ベットマスター
- スポーツうるぐす(日本テレビ)※中央競馬GIレースの週限定(2008年まで)
- JRAサウンドコース(fm osaka)
- 向井荒太の動物日記 〜愛犬ロシナンテの災難〜(日本テレビ)※第6話のみ。劇中テレビ番組の競馬実況(声の出演)
- レッツ・ゴー!永田町(日本テレビ)※ナレーションを担当
- DREAM競馬(関西テレビ)※ご意見番、アナウンサー時代は実況もしていた。
- チャンス(NHK)※最終回。劇中の有馬記念の競馬実況。
- 杉本清のK-BAR(TOKYO FM)
- 中居正広のミになる図書館(テレビ朝日 2013年5月14日)※「滑舌が美しい美女No.1決定戦」審判員
スペシャル番組編集
CM編集
現在の出演CM編集
過去の出演CM編集
- 三菱自動車工業(トラック部門・現在の三菱ふそうトラック・バスに相当)※ラジオCM
- 大阪ガス
- 日本中央競馬会 ※過去に明石家さんまと共演したことがある
- 浜大津アーカス ※実況
- スーパーロボット大戦MX
- NINTENDO DS(任天堂)
- 「ダービータイム」(PSPソフト、ソニー・コンピュータエンタテインメント)
- キチンキトサン・かにチップ(味覚糖)※スナック菓子によるレースを競馬風に実況
ゲーム編集
- 実況競馬シミュレーション ステイブルスター〜厩舎物語〜 および同シリーズ(コナミ)※実況
- STARHORSEシリーズ(STARHORSE2→STARHORSE3→STARHORSE4及びSTARHORSE Pocketまで全シリーズにて実況を担当。セガ〈「3」以降セガ・インタラクティブ〉)
音楽編集
- SEAMO with BENNIE K「a love story」 ※カップリング曲「Runnin'」で実況を担当
イベント編集
- SDN48の内の選抜12人による「人間競馬」の実況(2010年10月11日、東京競馬場)
レコード・CD編集
- 「杉本清 テンポイント名勝負物語」(1978年)
- 「杉本清のGI」(1997年)
連載編集
- 「杉本清 私の夢」(スポーツ報知)
脚注編集
- ^ a b 杉本1992、プロフィール部。
- ^ 杉本1992、47-48頁。
- ^ 杉本1992、48頁。
- ^ 杉本1992、50頁。
- ^ 杉本1992、50-51頁。
- ^ 杉本1992、52頁。
- ^ 杉本1992、53-54頁。
- ^ 杉本1992、55頁。
- ^ 杉本1992、59頁。
- ^ 杉本1992、60頁。
- ^ 杉本1992、62頁。
- ^ 杉本1992、71-72頁。
- ^ 杉本1992、72頁。
- ^ a b 杉本1992、75頁。
- ^ a b 杉本1992、74頁。
- ^ 杉本1992、73頁。
- ^ 杉本1992、86 - 88頁。
- ^ 杉本1992、93-94頁。
- ^ a b 杉本1992、95頁。
- ^ 杉本1992、95-96頁。
- ^ 杉本1992、101-102頁。
- ^ 杉本1992、102頁。
- ^ 杉本1992、13-14頁。
- ^ 杉本1992、14頁。
- ^ 東京4歳ステークス=トキノミノル記念。現在の共同通信杯。
- ^ 杉本1992、30頁。
- ^ 後の定年退職後にはフジテレビ・関西テレビ共同制作のスポーツニュース番組『Grade-A』でとんねるずと共演している。
- ^ 当時は、在阪テレビ局アナが、系列外の在京テレビ局の番組に出演する事例がなかったが、杉本で初めて実現した。これ以前にも1991年に単発特番として放送された同番組で、声のみの出演で同じく実況を担当したことがある。
- ^ 杉本1995
- ^ 当時競馬実況にかかわっていた馬場、石巻、大橋雄介、岡安譲の4アナウンサー全員がマラソン担当となっていたため。担当しなかった年もあった。
- ^ 『DREAM競馬』では“杉本清・夢の一頭”。その2009年12月25日付で。
- ^ GI昇格前も含む
- ^ 杉本1992、30頁。
- ^ このフレーズは、1976年の第17回宝塚記念(優勝馬:フシノパーシア)実況時に発したのが最初であるが、有名になったのはテンポイントを特集した番組制作のために第22回有馬記念を特別実況した時に発した時である杉本1992、33頁によれば77年の有馬記念が初としている。
- ^ 現在でこそ中央競馬における人馬の東西交流は当たり前のように行われているが、80年代までは勝馬投票券の全国発売も重賞競走など一部に限られており、関東馬・関東所属騎手の関西遠征(或いはその逆)も今ほど多くなかったという背景もある。
- ^ [1]
参考文献編集
- 杉本清、鈴木淑子「杉本清の競馬談義番外編 特別企画 / 杉本清 関西テレビ定年退職記念」(『優駿』1997年4月号、日本中央競馬会)
- 杉本清『あなたのそして私の夢が走っています』双葉社、1992年。ISBN 4575711039。
- 杉本清 『三冠へ向かって視界よし - 杉本清・競馬名実況100選』日本文芸社、1995年、ISBN 4537065427
- 『これが夢に見た栄光のゴールだ - 名実況でつづる永遠の名馬たち』(日本文芸社、ISBN 453725050X)
関連人物編集
- 松本暢章(関西テレビ時代の先輩)
- 桑原征平(関西テレビ時代の後輩)
- 杉山一雄(同上)
- 馬場鉄志(同上)
- 岡本栄(同上)
- 毛利八郎(同上)
- 山本浩之(同上)
- 梅田淳 (同上、現在フリーアナウンサー)
- 石巻ゆうすけ(同上)
- 大橋雄介(同上)
- 岡安譲(杉本が退職した年に入社)
- 志摩直人(詩人、関西テレビ競馬中継解説者)
- 大坪元雄(関西テレビ競馬中継解説者)
- 宮川一朗太
- 水野麗奈
- 柳沼淳子
- 明石家さんま(関西テレビで競馬予想対決)
- とんねるず
- 江川卓
- 吉田勝彦
- 鳥居滋夫(元フジテレビアナウンサー、杉本が競馬実況デビューしたころから1970年代前半にかけて活躍した関東の雄)
- 盛山毅(同上、杉本と同時期に活躍した関東競馬実況の雄)
- 津田麻莉奈 (大学の後輩)
関連項目編集
外部リンク編集
- メールマガジン