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モスクワ芸術座の建物

モスクワ芸術座ロシア語: Московский Художественный Академический Театр、略称: МХАТ)はモスクワにあるロシアの劇場である。コンスタンチン・スタニスラフスキーヴラジーミル・ネミローヴィチ=ダンチェンコにより1897年に設立された。古儀式派資本家のサッバ・モロゾフが最大の出資を行い、彼はスタニスラフスキーとネミローヴィチ=ダンチェンコとともに初期の運営上の決定を行っていた[1]リアリズム演劇を確立し、世界の演劇界に多大な影響を与えた。反商業重視であったものの、赤字に苦しむことも多々あった。

沿革編集

1897年7月22日 レストラン「スラヴィアンスキイ・バザール」から場所を移してスタニスラフスキーの両親のリュビーモフカの別荘

と18時間2人で話し、この際にモスクワ芸術座をスタニスラフスキーはモスクワに本拠を置く株式会社、ダンチェンコは地方に拠点を置く個人出資の事業と意見したが、スタニスラフスキーがダンチェンコを説得。株式会社シンジケート(タヴァ―リィシチェストヴォ) 。

最初の公演はエルミターシュ劇場(馬車道街にある、客席狭く使い勝手悪い)を借りて上演。モスクワ公衆芸術劇場(最初はこう呼ばれていた)の最初の劇団員は373人(323人とも)であった。団員はダンチェンコが教えていたモスクワ音楽学院からイワン・モスクヴィン、オリガ・クニッペルメイエルホリド、E・M・ムント(メイエルホリドの義妹)など、芸術文芸協会のうちリーリナなど、マールイ劇場養成所や外部からも入団している。

1シーズン平均入場者数は756人。1番人気は皇帝フョードル・イワノヴィッチの平均826人、2番はヘッダー・ガブラー(4回のみの上演だが18回上演で平均804人のかもめを凌いだ)

不人気はグレタの幸福で、平均416人3回上演であった。

1898年10月に設立されたモスクワ芸術座を一躍有名にしたのは同年12月のアントン・チェーホフの『かもめ』の再演だった。1895年に書かれた『かもめ』はその翌年の1896年にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場(ru)で初演されたが、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わっていた。

しかしモスクワ芸術座による再演は俳優が役柄に生きる新しい演出によってこの劇の真価を明らかにし、大きな成功を収めた。この成功を記念してモスクワ芸術座は飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用した。

以後、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』や『三人姉妹』、『桜の園』を次々と初演していった。このほか主な演目にマクシム・ゴーリキーミハイル・ブルガーコフの作品、ウィリアム・シェイクスピアの『ハムレット』などがある。

芸術座は1901年に財政危機に陥るも、値上げに踏み切るとロシア1高くなってしまうことに。そこでモローゾフが株主から全て株を買い取って、三人共同で経営を提案。ダンチェンコが反対

するもダンチェンコの「夢のなかで」にモローゾフが関心を示したため、三人共同経営を受け入れることに。

しかしダンチェンコはチェーホフに、ゴーリキー過多は危険だと仄めかすなどゴーリキー、モローゾフとは不和の関係。結果モローゾフが支配的になることはなかったが、新たな株式会社の基礎を作るにあたり劇団員の中から株主を15人を抜擢することに。メイエルホリドやサーニンは選ばれず脱退の種になることに。これによって赤字は初解消となった。

劇団は1917年の十月革命の後もソビエト連邦政府の手厚い支援を受けつつ発展を続けた。劇団所属の多くの俳優たちにソ連人民芸術家の称号が与えられた。1923~24年にはニューヨーク公演を行った。リー・ストラスバーグはこの公演をきっかけに役者になる決意をする。

1987年に劇団はオレグ・エフレモフを芸術監督に擁するチェーホフ記念モスクワ芸術座と、タチアナ・ドロニナを擁するゴーリキー記念モスクワ芸術座の二つに分裂した。チェーホフ記念モスクワ芸術座は2000年からオレグ・タバコフロシア語版英語版が芸術監督を務めている。

主な演目編集

第一シーズン(1898~1899)

最初の演目 トルストイ(アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ)「皇帝フョードル・イワノヴィッチ」・・・リューリク王朝の衰退期を扱う三部作の第二部。イワン雷帝の晩年1部、後継者フョードルの不安定な治世2部、強奪者ボリス(フョードルの摂政)が権勢の動乱時代3部。

ハウプトマン「沈黙」

シェイクスピア「ヴェニスの商人」・・・シャイロックと改題

ピーセムスキイ「専制者」

エミール・マリオット「グレタの幸福」 

ゴルドーニ「宿屋の女主人」・・・二本立て

チェーホフ「かもめ」・・・チェーホフはトリゴーリン役のスタニスラフスキーとニーナ役のロクサノ―ワを良しとしなかった。スタニスラフスキー本来は外面的な細部によりかかり過ぎたこと、またチェーホフ戯曲を理解できていなかった。演出はスタニスラフスキーの演出台本をもとにダンチェンコが行った、しかし多くをあえて無視した。客には受けたが批判もあった。

ソフォクレス「アンティゴネ―」

イプセン「ヘッダー・ガブラー」  など


第二シーズン(1899~1900)

アレクセイ・トルストイ「イワン雷帝の死」・・・3部作の1、3は「皇帝ボリス」

シェイクスピア「十二夜」

ハウプトマン「馭(ぎょ)者ヘンシェル」

チェーホフ「ワーニャ伯父さん」・・・ゴーリキーがチェーホフに泣いてしまったと心底からの反応

ハウプトマン「寂しき人々」など


第三シーズン

チェーホフ「三人姉妹」など


第四シーズン

ダンチェンコ「夢の中で」・・・メイエルホリドやクニッペルは戯曲の出来が悪いにも関わらず上演することを批判

ゴーリキー「小市民」・・・ゴーリキーが劇作家として頭角を現す  など

第五シーズン

ゴーリキー「どん底」  など

第六シーズン

チェーホフ「桜の園」

など

日本との関わり編集

1912年から翌年にかけてモスクワを訪問した小山内薫はモスクワ芸術座によるゴーリキーの『どん底』を観劇し、スタニスラフスキーの自宅にも招かれた。小山内はこの時に記録した克明なノートをその後の演出に生かした。以来、モスクワ芸術座は日本の新劇界にとって範であり続けた。

1958年から翌年にかけて初めて日本を訪れ、『三人姉妹』などを上演した。1968年、1988年にも日本で公演を行っている。(1968年から20年空いてるのはブレジネフの停滞の時代で、社会主義リアリズムとモスクワ芸術座以外海外に出づらかったからである。また60,70年代は日本の演劇感の多様化でモスクワ芸術座への関心の薄れもあった)

2004年には静岡で鈴木忠志の演出によりシェイクスピアの『リア王』を上演した。この鈴木演出による『リア王』はモスクワ芸術座の正式なレパートリーとなり、鈴木はスタニスラフスキー賞を受賞した。2005年、2006年にも日本で鈴木演出の『リア王』を上演した。

参考文献編集

ニック・ウォーラル著『モスクワ芸術座』而立書房、2006年

リー・ストラスバーグ著『リー・ストラスバーグ メソードへの道』劇書房、1989年
堀江新二 ナタリヤ・スタロセーリスカヤ 松川直子 東山咲子著『ロシア演劇の魅力』2002年、東洋書店

 

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  1. ^ Орлов Ю., Экономика Московского Художественного театра 1898—1914 годов: к вопросу о самоокупаемости частных театров.

外部リンク編集