レイ・ナイト

アメリカの野球選手 (1952 - )

レイ・ナイト(Charles Ray Knight、1952年12月28日 - )はMLBで活躍したアメリカ合衆国ジョージア州オールバニ出身の元野球選手。内野手(主に三塁手一塁手だが、二塁手遊撃手外野手もこなしたユーティリティープレーヤー指名打者での出場もあった)。右投右打。

レイ・ナイト
Ray Knight
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ジョージア州オールバニ
生年月日 (1952-12-28) 1952年12月28日(71歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手, 一塁手
プロ入り 1970年 ドラフト10巡目でシンシナティ・レッズから指名
初出場 1974年9月10日 サンディエゴ・パドレス
最終出場 1988年10月2日 ニューヨーク・ヤンキース
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • シンシナティ・レッズ(1993 - 1997, 2002 - 2003)

夫人は全米女子プロゴルフ選手権優勝3回、1989年には世界ゴルフ殿堂入りを果たしたナンシー・ロペス

人物・来歴 編集

1974年9月10日シンシナティ・レッズでメジャーデビュー。当時のレッズはビッグレッドマシンと呼ばれた全盛期で、内野にも一塁トニー・ペレス、二塁ジョー・モーガン、三塁ピート・ローズ、遊撃デーブ・コンセプシオンとスターが揃い、2年連続でワールドシリーズ制覇を果たした1975年1976年は1試合も出場できず、1977年1978年も控え選手であった。

1979年にローズがフリーエージェント(FA)でフィラデルフィア・フィリーズに移籍したことでレギュラーとなる。この年150試合に出場して打率.318。翌1980年には全162試合に出場し、初のオールスター出場を果たす。この年、レッズが15連敗中であった5月13日に、ニューヨーク・メッツとの試合で、5回に1イニング2本塁打を放つ。この試合は15対4で大勝して連敗ストップの立役者となった。なお、現時点でレッズ史上唯一の1イニング2本塁打である。

1982年ヒューストン・アストロズに移籍し、この年2度目のオールスター出場を果たす。1983年にはハッチ賞を受賞。 1984年シーズン途中にニューヨーク・メッツに移籍。翌1985年ハワード・ジョンソンらとの併用で90試合の出場に終わり、打率.218と大不振。再度トレード要員となるが、監督デーブ・ジョンソンの意向で残留。

そして1986年にはハワード・ジョンソン、ケビン・ミッチェルとの正三塁手争いを制し、137試合の出場で打率.298、11本塁打と活躍。 チームはボストン・レッドソックスとのワールドシリーズに進出。 このシリーズの第6戦では、ビル・バックナーのサヨナラエラーで決勝のホームを踏み、3勝3敗のタイとなった第7戦では決勝ホームランを放ち、このシリーズのMVPになった。 また、この年にはベーブ・ルース賞と、スポーティング・ニューズ社が選ぶナ・リーグカムバック賞にも選出されたが、オフにFAでボルチモア・オリオールズに移籍。 初のア・リーグでのキャリアとなった1987年には自己最多タイの14本塁打を打つが、翌1988年デトロイト・タイガースに移籍し、その年限りで現役を引退。

引退後、1996年から1997年途中、そして2003年ボブ・ブーン前監督解任後に1試合の代理)にレッズの監督を務めた。監督通算成績は125勝137敗に終わる。 1997年には試合中にアウトカウントを勘違いしてバントのサインを出し、後に自分自身に250ドルの罰金を課している。

現在はMASNの野球解説者(ワシントン・ナショナルズ担当)。

現役時代、不振だった1985年頃には、「ナンシー・ロペスのキャディー」と野次られたが、引退後には、短期間ではあったが本当に妻ナンシーのキャディーを務めた。なお、ナンシーとは再婚同士であったが、ナンシーとの間にも子をもうけている。アマチュアボクサーの経歴もあるため、試合中の乱闘では「主役」であった。

2006年8月19日に、メッツがワールドシリーズ優勝20周年を記念して、当時の選手・コーチを集めたが、ナイトは参加しなかった。他の不参加者は、当時の監督デーブ・ジョンソン(アメリカ代表チームの監督としてキューバに遠征中)のほか、ドワイト・グッデン(コカイン使用で服役中)、ロジャー・マクダウエルアトランタ・ブレーブスのコーチ)、リー・マジーリニューヨーク・ヤンキースのベンチコーチ)、メル・ストットルマイヤーらであり、(グッデンを除けば)他球団等の監督・コーチを務めていたり、健康上の理由等のやむを得ない事情であったが、ナイトにはそれほどの理由がなく、多くの関係者が、1986年のワールドシリーズ終了後のメッツ経営陣との確執と、その影響を指摘している。

受賞歴・記録 編集

年度別打撃成績 編集
































O
P
S
1974 CIN 14 11 1 2 1 0 0 2 0 0 1 2 .182 .250 .273 3 0 0 0 0 1 0.523
1975 試合出場なし
1976 試合出場なし
1977 CIN 80 92 8 24 5 1 1 13 1 1 9 16 .261 .324 .370 34 1 1 1 0 0 0.694
1978 CIN 83 65 7 13 3 0 1 4 0 0 3 13 .200 .235 .292 19 0 0 0 0 4 0.527
1979 CIN 150 551 64 175 37 4 10 79 4 4 38 57 .318 .360 .454 250 4 8 4 3 20 0.814
1980 CIN 162 618 71 163 39 7 14 78 1 2 36 62 .264 .307 .417 258 5 4 9 4 24 0.724
1981 CIN 106 386 43 100 23 1 6 34 2 4 33 51 .259 .322 .370 143 3 3 3 4 18 0.692
1982 HOU 158 609 72 179 36 6 6 70 2 5 48 58 .294 .344 .402 245 1 13 9 5 16 0.746
1983 HOU 145 507 43 154 36 4 9 70 0 3 42 62 .304 .355 .444 225 3 11 9 4 17 0.799
1984 ※1 115 371 28 88 14 0 3 35 0 3 21 43 .237 .279 .299 111 0 4 2 2 5 0.578
1985 NYM 90 271 22 59 12 0 6 36 1 1 13 32 .218 .252 .328 89 0 5 1 1 17 0.580
1986 NYM 137 486 51 145 24 2 11 76 2 1 40 63 .298 .351 .424 206 3 8 2 4 19 0.775
1987 BAL 150 563 46 144 24 0 14 65 0 0 39 90 .256 .310 .373 210 0 1 3 6 16 0.683
1988 DET 105 299 34 65 12 2 3 33 1 1 20 30 .217 .271 .301 90 2 3 0 3 12 0.572
通算 13年 1495 4829 490 1311 266 27 84 595 14 25 343 579 .271 .321 .390 1883 22 61 43 36 169 0.711
  • 太字はリーグ1位。
  • ※1=ヒューストン・アストロズ→ニューヨーク・メッツ


外部リンク 編集