レッドパージ

第二次世界大戦直後の日本における、日本共産党員および同調者に対する「赤狩り」
レッド・パージから転送)

レッドパージ: red purge、レッド・パージと表記されることもある[1][2])は、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により[3]日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す[1]。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。

概要編集

 
皇居前広場のある皇居外苑付近(1989年撮影)

第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。その結果、労働運動は過激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。中国大陸では国共内戦毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。

民間情報教育局(CIE)教育顧問のW.C.イールズ1949年7月19日新潟大学の講演で「共産主義の教授は大学を去るのが適当」と演説し、以降各地の大学で同様の演説を行った(イールズ声明)。

1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日にマッカーサー書簡を受けだ吉田内閣は閣議で日本共産党中央委員24人[注 1][4]、及び機関紙「アカハタ」幹部17人の公職追放を決定し、アカハタを停刊処分にした[5]。これにより、20日後の6月26日から徳田球一、野坂参三、志賀義雄、伊藤憲一、春日正一、神山茂夫の6人は国会議員として失職することになり、高倉輝は第2回参院選で当選したものの直後に公職追放となり当選無効と扱われた。同年7月には9人の日本共産党幹部について、団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出る団規令事件が発生した(逮捕状が出た9人の日本共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。

こうした流れのなかで、マッカーサーは数次にわたり吉田首相に対し「共産分子の活動に関する書簡」を送付。各報道機関は1950年7月28日から書簡の趣旨に従い社内の共産党員、同調分子らに解雇を申し渡し始めた。初日の解雇数だけでも朝日新聞社72人、毎日新聞社49人、読売新聞社34人、日本経済新聞社10人、東京新聞社8人、日本放送協会104人、時事通信社16人、共同通信社33人に及んだ[6]

さらに同年9月の日本政府の閣議決定[7]により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放(解雇)が行われていった(なお、銀行業界などでは「当職場に共産党員は居ない」などとして、日共系の追放が最小限度に留まった例や、大学では日共系の追放がほとんど行われなかった例もあったし、逆に反対派を共産党員だとして名指しして解雇させ主導権を奪った国労のような例もあった)。

当時の日本共産党は1月のコミンフォルム批判(平和革命論を否定)により、徳田を中心とする「所感派」と宮本顕治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。

公職追放の指令それ自体は1952年サンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる[8]

なお、1950年にはアメリカ合衆国でも共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われた。この一連の動きも含めた全てをレッドパージと呼ぶ場合もある。詳細は赤狩りの項を参照

裁判編集

また、雇用主を相手取った訴訟は、主権回復前の1952年4月2日の共同通信事件の最高裁決定で報道機関に対するレッドパージが、そして主権回復後の1960年4月18日の中外製薬事件の最高裁決定でも重要産業に対するレッドパージが、いずれも「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」として原告敗訴となり、以降の関連訴訟の判決の判例となっている。

1950年に電気通信省旭硝子川崎製鉄で追放解雇・免職にされた3人が、思想・良心の自由に対する侵害であるとして2004年に人権救済を申し立てた事をきっかけに、2008年、70人により同様の申し立てがされている。なお3人については2008年、日本弁護士連合会より救済勧告、後に神戸地方裁判所国家賠償を求める訴訟を起こす。原告側は「報道機関や民間重要産業でのレッド・パージについてGHQは示唆したが指示まではおらず、日本政府が主導した」と主張したが、裁判所はこの主張について「示唆と受け取れるGHQ文書もあるが、実際はGHQの指示で日本政府には従う義務があった」とし、その上で「レッドパージはGHQの指示による超憲法的な措置で、解雇や免職は有効」と従来の判例を踏襲して2011年5月26日に請求を棄却。二審の大阪高等裁判所も、2012年10月24日に控訴棄却[9]、2013年4月25日に最高裁判所第一小法廷にて上告不受理を決定して判決が確定した。2010年にも長崎県の7人について、同県弁護士会からの救済勧告が出た。

日本共産党は神戸訴訟上告棄却・不受理について「日弁連も勧告を出しているように、日本国憲法第19条が保障する思想・良心の自由を蹂躙する人権侵害であり極めて不当なもの」とする抗議談話を発表した[2]

原因編集

GHQ/SCAPの民主化政策により、社会主義を背景にした労働運動が激化したが、これによって日本共産党の勢力が伸びていた。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では日本共産党が35議席を獲得した。そうしたなかで、1949年(昭和24年)の下山事件三鷹事件松川事件といういわゆる国鉄三大ミステリー事件が、日本共産党と国鉄労働組合が仕組んだという情報が流れたため、日本共産党・共産主義者排斥を容認する風潮が作られた。

脚注編集

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注釈編集

出典編集

  1. ^ a b ハンス・マーティン・クレーマ(KRÄMER Hans Martin) (2007-12-17). “だれが「逆コース」をもたらしたのか―占領期の高等教育機関におけるレッド・パージ―”. 『社会科学研究』 (東京大学社会科学研究所) 59 (1). https://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/jss/59/01/jss5901_150170.html 2021年7月7日閲覧. "日本共産党の党員もしくは支持者とされ,職場を解雇された人々であった.民間企業や政府機関はすでに1949年の半ごろから,緊縮財政にともなう企業整理または行政整理の名目で大量の人員削減を開始しており,民間企業で 1万 2千人,政府機関で 1,200人,教育機関でも 1,200人に及ぶ人員が解雇されていた.こうした「整理」の目的のひとつは,左翼思想の持ち主とおぼしき従業員を解雇することだった." 
  2. ^ a b レッド・パージ国賠訴訟 最高裁が上告棄却 原告ら 「救済までたたかう」 しんぶん赤旗2013年5月1日
  3. ^ “吉田茂が“大恩人”? なぜ日本共産党は非合法化されなかったか”. デイリー新潮. 新潮社. (2019年2月20日). https://www.dailyshincho.jp/article/2019/02200700 2021年7月7日閲覧. "この頃までに共産勢力への方針を転換していたGHQのダグラス・マッカーサーは、団体等規制令を公布しました。翌1950年の新憲法発効3周年記念日、マッカーサーは、共産党は『法の保護に値するか』疑問であるとの声明を出し、再び共産党非合法化を示唆します。" 
  4. ^ 5-12 レッドパージ”. 国立国会図書館. 2021年7月7日閲覧。 “占領の目的である日本の民主化を妨げる勢力として、共産党中央委員24名の名前を挙げ、SCAPIN548(ある種類の政党、協会、結社その他の団体の廃止)並びに550(好ましくない人物の公職よりの除去)に基づく公職追放を指令している。”
  5. ^ 井村 1980, p. 100(754).
  6. ^ 「報道界の赤色分子解雇」『日本経済新聞』昭和25年7月29日3面
  7. ^ 共産主義者等の公職からの排除に関する件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  8. ^ 松本清張日本の黒い霧
  9. ^ レッド・パージ国家賠償請求訴訟大阪高裁判決に関する会長談話”. 日本弁護士連合会 (2011年11月1日). 2021年7月28日閲覧。
  • 井村喜代子「"1949年秋-朝鮮戦争"における占領政策・講和政策」『三田学会雑誌』第73巻第5号、慶應義塾経済学会、1980年10月、 749(95)-770(116)、 ISSN 0026-6760NAID 120005360297。“翌6月7日付同書簡では共産党機関紙「アカハタ」の内容に厳重警告を発し,関係責任者17名の追放を指令した。”

関連項目編集

外部リンク編集