三宅秀
日本の医学者
(三宅有実から転送)
三宅 秀(みやけ ひいづ/すぐる[2]、1848年12月12日〈嘉永元年11月17日〉 - 1938年〈昭和13年〉3月16日[2])は、日本の医師・洋学者・医学者・貴族院議員。日本初の医学博士の一人。東京帝国大学名誉教授。幼名は復一(またいち)。
人物情報 | |
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生誕 |
1848年12月12日 日本 江戸本所 |
死没 | 1938年3月16日(89歳没) |
出身校 | ヘボン塾 |
子供 | 三宅鑛一(長男・精神医学者) |
学問 | |
研究分野 | 医学 |
研究機関 | 壮猶館、東京医学校 |
学位 | 医学博士 |
略歴
編集三宅家は肥前国にて代々医業を生業とする家系で、秀は、お玉ケ池種痘所(現東京大学医学部の起源)の創設に携わった医師三宅艮斎(ごんさい)の長男として江戸本所で生まれた。
安政4年(1858年)川島元成のもとで蘭学を習い始める。文久3年(1863年)田辺太一の従者として遣欧使節に随行。元治元年(1864年)欧州より帰国後、横浜のヘボン塾(明治学院高校の前身)で英学を学び、元アメリカ海軍医アレキサンダー・ウェッダー(Alexander M. Vedder)の助手となり医学を学んだ。
慶応3年(1867年)加賀藩壮猶館にて英書翻訳や英学教授に従事。明治3年(1870年)大学へ出仕、中助教、大助教、文部少教授を歴任。1874年(明治7年)東京医学校長心得となる。1876年(明治9年)渡米し、万国医学会の副会長に選任。1881年(明治14年)東京大学医学部長、その後、医科大学教授、医科大学長を務めた。1888年(明治21年)5月、学位令に基づき、池田謙斎・橋本綱常・高木兼寛・大沢謙二とともに日本初の医学博士の学位を受領。
1891年(明治24年)4月15日、貴族院勅選議員に任じられ[3][4]、同成会に所属して死去するまで在任した[2][5]。1903年(明治36年)3月、古市公威・富井政章とともに東京帝国大学名誉教授の名称を授与された[6]。
栄典
編集- 位階
親族
編集著書
編集- 編訳『病体剖観示要』島村利助、丸屋善七共同刊行、1879年。
- 『病理総論』1881年。
- 『薬品取扱方心得』青柳正辰、1890年。
- 『人名医語字典』英蘭堂、丸善、1894年。
- 三宅秀、浜武亀代子ほか『家事衛生』大日本女学会、1901年。
- 『修身衛生講話』国定教科書共同販売所、1908年。
- 『安眠法』広文堂、1912年。
- 三宅秀、大沢謙二『日本衛生文庫:第1-6集』教育新潮研究会、1917-1918年。
脚注
編集- ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 4』講談社、2003年。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』167頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、4頁。
- ^ 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。
- ^ 『官報』1903年3月9日「叙任及辞令」。
- ^ 『官報』第2237号「叙任及辞令」1890年12月11日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第2398号「叙任及辞令」1891年6月29日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 小崎登明「切支丹峠」『聖母の騎士』1959年11月号(19-24頁)及び同年12月号(7-12頁)、聖母の騎士社。
- ^ 三浦義彰「西の長崎、東の佐倉」『千葉医学』70号、千葉医学会、1994年、211-216頁。
- ^ 三宅鉱一(読み)みやけ こういちコトバンク
- ^ 三宅仁(読み)みやけ まさしコトバンク
参考文献
編集- 国立公文書館所蔵・叙勲裁可書「故三宅秀叙勲ノ件」添付履歴書、1938年3月16日。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 三浦義彰『医学者たちの一五〇年 名門医家四代の記』平凡社、1996年。
- 三浦義彰「20世紀のわが同時代人(36)-三宅秀」『千葉医学雑誌』76巻5号、2000年。
- 藤尾直史「三宅コレクションの世界」(『東京大学総合研究博物館ニュース Ouroboros』7巻1号、2002年5月10日発行)東京大学総合研究博物館webサイト、2024年6月28日閲覧