井上 紅梅(いのうえ こうばい、1881年明治14年) - 1949年昭和24年)[1])は、日本の中国文学の研究者。本名は井上 進(いのうえ すすむ)。

生涯編集

東京出身[2]。少年期に寺田寅彦と交流があった[3]。家業を継ぐために東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学したが[2]、父が急死したため[2]、1913年に上海に渡り、放蕩生活を送った[3][1]。1918年、中国風俗を紹介する雑誌『支那風俗』を刊行[2][1]。初めて麻雀の遊び方を日本に紹介した。

井上は『支那女研究香艶録』(1921年)、『匪徒(土匪研究)』(1923年)、『金瓶梅支那の社会状態』(1923年)[3]、『支那各地風俗叢談』(1924年)などの中国風俗紹介書籍を出版。また、中国生活の実体験をもとにした随筆的著作『支那ニ浸ル人』(1924年)、『紅い土と緑い雀』(1926年)、『酒・阿片・麻雀』(1930年)、『中華万華鏡』(1938年)などを著した。これらは、いわゆる「シナ通」(中国を研究の対象とするが、興味本位で時に蔑視の対象とするといった、ネガティブなニュアンスがある)として知られた井上[1]の代表的な著作ともされる[2]武田泰淳との共訳で『支那辺疆視察記』を手掛けている[1]

一方で、1926年に張資平の作品に接したことを契機に、魯迅を中心とした中国新文学運動にも大きな関心を示した[2]胡適譚正璧の翻訳も手掛けている。1932年11月には、改造社より魯迅の26の短編小説を集めて翻訳した『魯迅全集』を刊行[2]。日本では初の本格的な翻訳集であった。

30年に及ぶ著作活動の後半には、当代一流とされた学者・知識人に互して中国事情の研究発表を手掛け、『改造』『文芸』『中央公論』等の大手雑誌に時事報道などを寄稿してもいた[2]

魯迅の「酷評」編集

井上が翻訳した改造社版『魯迅全集』について、魯迅が「誤訳が多い」「実にひどいやりかただ」と酷評したことで知られる[2]勝山稔によれば、中国文学研究界隈では「紅梅の著作を学問的な俎上に載せること自体半ば禁忌とさえなっている観がある」というる[2]

魯迅の酷評について、いわゆる「シナ通」としての井上を嫌ったのではないかという見解がある[2]。井上の随筆『酒・阿片・麻雀』を読んだ魯迅は、井上とは「道が違う」ということの思いを新たにしたと、愛弟子といえる増田渉に書き送っている[2]

しかし勝山の検討によれば、『魯迅全集』についての憤懣は、増田宛の書簡にほぼ限って見られるもので[2]、同じように翻訳を手掛けながらも機会に恵まれなかった増田を、慰め奮起させようとする文脈での言葉であろうとする[2]。魯迅は、『魯迅全集』が出版された後も井上や改造社に対して友好的に接しており、井上個人への敵愾心はなかったであろうという[2]。また、佐藤春夫や増田渉らも井上に好意的に接しており、「魯迅の酷評」が絶対的なものでも共有されていたわけではなかった[2]。魯迅から井上を酷評する書簡を受け取った当の増田は、魯迅死後の出版企画『大魯迅全集』の編集責任者となった際に井上を招聘した。また、魯迅書簡を公開した際も井上批判の箇所を長らく封印し、公開後も注記を付して意を払った[2]

勝山によれば、井上の翻訳はもちろん問題がないわけではなく、後発の訳に比べれば劣るものの、同時期の増田の訳と比較しても極端に「問題のある誤訳」が多いわけではないという。むしろ、参照できる先行翻訳がほとんどないまま多数の翻訳を行った井上を、肯定的に見てもよいのではないかとしている[2]

脚注編集

  1. ^ a b c d e 川越泰博. “井上紅梅”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 2020年7月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 勝山稔 (2011). “改造社版『魯迅全集』をめぐる井上紅梅の評価について”. 東北大學中國語學文學論集 (16). https://ci.nii.ac.jp/naid/120004247808 2020年7月18日閲覧。. 
  3. ^ a b c 井上紅梅”. 20世紀人名事典(コトバンク所収). 2020年7月18日閲覧。

参考文献編集

外部リンク編集