他戸親王
皇太子
在位 宝亀2年1月23日771年2月12日)- 宝亀3年5月27日772年7月2日

時代 奈良時代
生誕 天平宝字5年(761年)?
死没 宝亀6年4月27日775年6月3日
墓所 他戸親王墓(奈良県五條市
父母 父:光仁天皇、母:井上内親王
兄弟 能登内親王開成桓武天皇早良親王薭田親王酒人内親王他戸親王弥努摩内親王広根諸勝
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他戸親王(おさべしんのう)は、光仁天皇皇子、母は井上内親王聖武天皇外孫にあたる。皇太子に立てられたが、のちに母井上内親王の大逆の罪により廃され、庶人に落とされて幽閉先にて没した。

経歴編集

天平宝字5年(761年[1]、白壁王(のちの光仁天皇)と井上内親王との間に生まれる。当時の天皇は、母方の叔母(母の異母妹)の称徳天皇であった。

父の白壁王は天智天皇の孫であるが、当時の皇統は天武天皇系に移されて久しく、白壁王自身も皇族の長老ゆえに大納言の高位に列しているだけの凡庸な人物と見られていた。だが、称徳天皇の時代、天武系皇族は皇位継承を巡る内紛から殆どが粛清されており、めぼしい人物がいなかった。このような状況下、天智天皇の曾孫で聖武天皇(天武天皇の嫡流)の皇女を母に持つ他戸が注目されるようになる[2]。やがて称徳天皇が崩御すると、藤原永手らによって他戸王の父である白壁王が皇位継承者として擁立された。そして宝亀元年(770年)に白壁王は即位し、光仁天皇となった。翌宝亀2年1月23日には、他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。

 
他戸親王墓(奈良県五條市)

ところが宝亀3年(772年)、突如皇后の井上内親王が夫である天皇を呪詛したという大逆のかどで皇后を廃され5月27日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃された。更に翌宝亀4年10月19日には、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を井上内親王が呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王は母と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年4月27日、幽閉先で母と共に急死した(この突然の死については暗殺説もある)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。

この事件により山部親王が替わって皇太子に立てられ、やがて桓武天皇として即位するものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で他戸親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁・桓武両朝を悩ませることになっていった。

系譜編集

系図編集

 
古人大兄皇子
 
倭姫王
(天智天皇后)
 
 
 
 
 
(38)天智天皇
(中大兄皇子)
 
(41)持統天皇
(天武天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(43)元明天皇
(草壁皇子妃)
 
 
 
間人皇女
(孝徳天皇后)
 
 
(39)弘文天皇
(大友皇子)
 
葛野王
 
池辺王
 
淡海三船
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志貴皇子
(春日宮天皇)
 
(49)光仁天皇
 
(50)桓武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
他戸親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
早良親王
(崇道天皇)
 
 
 
(40)天武天皇
(大海人皇子)
 
高市皇子
 
長屋王
 
桑田王
 
磯部王
 
石見王
 
高階峰緒
高階氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
草壁皇子
(岡宮天皇)
 
(44)元正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大津皇子
 
 
(42)文武天皇
 
(45)聖武天皇
 
(46)孝謙天皇
(48)称徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忍壁皇子
 
 
吉備内親王
 
 
 
 
 
 
井上内親王
(光仁天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長親王
 
智努王
文室浄三
 
大原王
 
文室綿麻呂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
御原王
 
小倉王
 
(清原)夏野
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舎人親王
(崇道尽敬皇帝)
 
 
(47)淳仁天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞代王
 
(清原)有雄
清原氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
新田部親王
 
塩焼王
 
(氷上)川継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道祖王
 

脚注編集

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  1. ^ 水鏡』の年齢記事によれば「宝亀三(772年)十二(歳)になる」とあり、逆算すれば生年は天平宝字5年となる。この場合母親の井上内親王が45歳の時の子となってしまい年齢が不自然であるとして、水鏡の記事は「二十二(歳)」の間違いとして天平勝宝3年(751年)とする説がある。だが、称徳天皇崩御後に最も皇位に近い立場にいたはずの他戸親王の『続日本紀』における初出が、父・光仁天皇の即位後であること(つまり称徳朝における記録が存在しない)や姉の酒人内親王も井上内親王が37歳の時の子であることを考えた場合、当時でも稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。このため、本項では天平宝字5年説で解説する。
  2. ^ 称徳天皇による僧侶・道鏡擁立(宇佐八幡宮神託事件)も、他戸親王への中継ぎ(称徳→道鏡→他戸)としての性格に求める説もある(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館))。