皇別清原氏(きよはらうじ)は、平安時代8世紀末から9世紀後半にかけて臣籍降下した100人以上の皇族に対して下賜された氏(うじ)。略称は清氏(せいし)[2]。政治家・学者として大成した右大臣清原夏野(繁野王)を初め、天武天皇皇子舎人親王の後胤が多い。特に天武五世孫の清原有雄(有雄王)を氏祖とする一流が著名で、中古三十六歌仙の一人清原深養父、その孫の三十六歌仙及び「梨壺の五人」の一人清原元輔、そしてその娘の女流作家で『枕草子』を著した清少納言らを輩出した。なお、明経道家学として明治維新後に華族を多数輩出した広澄流清原氏は同名の別氏族である。

清原氏
氏姓 清原真人[1]
清原朝臣[1]
始祖 天皇皇子諸王
種別 皇別
著名な人物

有雄流
清原深養父
清原元輔
清少納言
長統流
清原令望

その他
清原長谷(長谷王)
清原夏野(繁野王)
清原長田(長田王)
清原岑成(岑成王)
後裔 出羽清原氏武家)?
豊後清原氏(武家)?
芳賀氏(武家)?
厚木氏(武家→地下人)?
古市氏(武家)?
凡例 / Category:氏

歴史編集

清原の氏は100人以上の皇族に与えられた日本史上屈指の大姓で、どの天皇から派生したか全てが明記されている訳ではないものの、その大部分は天武天皇の末裔である[1]。なお、『新撰姓氏録』によれば、「百済親王之後也」とあり、「桑田真人同祖」とあり、桑田氏大原真人と同祖とある[3]。そして、大原氏の項には、出自諡敏達百済王也とある。これは大原氏が皇族の百済王の子孫ということで、いわゆる渡来人としての亡命百済人という意味ではない[4]

初期の清原氏祖として著名なのは清原夏野である。夏野は天武天皇皇子舎人親王の孫小倉王の第五子で、初め繁野王と言ったが、延暦23年(804年)6月に父の上表によって清原真人に臣籍降下し、また桓武天皇皇子の諱を避けて夏野に改名した(『日本後紀』)[5][注釈 1]。夏野は、正五位下という下級貴族に相当する位階しかなかった父を遥かに超え、従二位右大臣にまで昇った[5]。夏野は政治・学問の両面で傑出し、『令義解』『内裏式』『日本後紀』などの編纂に関わった。

嘉祥3年(850年)には、貞代王の子で天武五世孫の有雄王が臣籍降下し、清原有雄となった(『日本文徳天皇実録天安元年(857年)12月条)[7]。この有雄流からは、有雄の玄孫の清原深養父(きよはら の ふかやぶ)が歌人として名を為し、さらにその孫で三十六歌仙の一人清原元輔や、元輔の娘で『枕草子』を著した女流作家清少納言などが出た[8]

後世、清原姓を称する氏族は出羽出羽清原氏)、下野紀伊筑前などに分布している。

なお、江戸時代後期の『群書類従』版「清原氏系図」では、明経道で栄えた清原広澄流の清原氏が有雄流の系図に繋げられ[9]、後の節に挙げる児玉幸多編『日本史年表・地図』の系図等、21世紀初頭現在でも概説書の類ではこれを採用するものもある。しかし、20世紀以降、日本史や氏族研究を専門とする研究者からは基本的に支持されていない[10][8][11][12](詳細は清原氏 (広澄流)#出自)。また、『群書類従』版では有雄王が天武天皇三世孫であるかのようになっているが、この点も『日本文徳天皇実録』の五世孫説に反し問題がある[13]

皇別清原氏の一覧編集

清原氏に臣籍降下した例は、『日本後紀』を始めとする六国史にきわめて多く掲載される[1]。以下の一覧のうち、承和13年(846年)7月に「清原朝臣」が下賜された例以外は、全て「清原真人」である[1]

以上の六国史に基づく記録以外では、長谷王(清原長谷)が延暦10年(791年)に清原真人の氏姓を下賜されたとする説もある[16]

系譜編集

一例編集

以下の系図は、『国史大辞典』「清原氏(一)」(芳賀幸四郎担当)[8]を基礎に、『日本文徳天皇実録』天安元年(857年)12月条を元に有雄を天武五世孫の位置に置き[13]、さらに和気王流、石浦王流、清原重文流、清原元貞清原致信を加えたものである。

『日本史年表・地図』説編集

以下の系譜は有雄王を天武天皇三世孫とし、さらに明経道清原氏の祖の広澄を有雄流とする『群書類従』説に基づくが、本文中に述べたように学術上は支持されない。

 
児玉幸多編『日本史年表・地図』(第7版)(吉川弘文館、2001年)に基づく清原氏系図


脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 原文:
    「散位正五位下小倉王上表して曰く、臣聞く、上天・象を開き、両曜をもって盈虚す。聖人・基を肇め、九族・其れに由りて差降す。このゆえに尊卑・序あり、星辰を仰ぎて知るべし。親疎・替なく、氏姓を命じて教を立つ。伏して惟みるに、陛下、品彙を彫鎪し、生霊を陶冶す。人にはその名を正し、物にはその性を安んず。小倉・幸に淳和に属し、謬りて霈澤に霑ふ。■乾■弘、大造無謝。ただし愚息内舎人繁野、および小倉の兄別王の孫内舎人山河らの款を得るには称はく、臣等智効・施す罕く、器識・庸微なり、天潰の末流を忝うし、瓊枝を仰いで悚懼す。伏して請う、去る延暦十七年十二月二十四日・友上王が姓を賜うの故事により、同じく清原眞人の姓を賜らん。また繁野の名は語・皇子に觸る、繁を改め、夏と曰はんと。小倉不忘■犢、聞ままに斯れ行はんや。特に天恩を望み、伏して進止を聽く、その姓を賜うべき人等に、具に目して別の如し。懇迫の至に任へず、謹んでもって申聞すと。これを許す。」 — 『日本後紀』延暦23年(804年6月21日[6]

出典編集

  1. ^ a b c d e 太田 1934, pp. 1980–1982.
  2. ^ 太田 1934, p. 1980.
  3. ^ 新撰姓氏録第一帙皇別(2016年11月2日時点のアーカイブ
  4. ^ 古代日本と朝鮮(2015年5月10日時点のアーカイブ
  5. ^ a b c d 太田 1934, pp. 1980–1981.
  6. ^ 太田 1934, pp. 1980-1981.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 太田 1934, p. 1981.
  8. ^ a b c 芳賀 1997.
  9. ^ 塙 1819.
  10. ^ 太田 1934, pp. 1985–1986.
  11. ^ 後藤 2007.
  12. ^ 鈴木理恵 「明経博士」 『国史大辞典』 吉川弘文館、1997年。 
  13. ^ a b 太田 1934, pp. 1981, 1985.
  14. ^ 太田 1934, pp. 1981–1982.
  15. ^ 太田 1934, p. 1982.
  16. ^ (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)『清原長谷』 - コトバンク

参考文献編集

  • 太田亮 「清原 キヨハラ」 『姓氏家系大辞典』 第2巻、上田萬年三上参次監修 姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1980-1989頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/84   
  • 後藤昭雄 「清原氏」 『改訂新版世界大百科事典平凡社、2007年。 
  • 塙保己一 「清原氏系図」 『群書類従』、1819年、47丁オ–48丁オ頁。doi:10.11501/2559094NDLJP:1879724https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559094/50 
  • 芳賀幸四郎 「清原氏(一)」 『国史大辞典』 吉川弘文館、1997年。 

関連項目編集