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伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)は、石川県鹿島郡中能登町石動山山頂(大御前)にある神社である。伊須留岐比古神社とも表記される。能登国二宮である。

伊須流岐比古神社
Isurugihiko-jinja shrine.jpg
所在地 石川県鹿島郡中能登町石動山子部1番地1
位置 北緯36度57分57秒
東経136度58分16秒
主祭神 伊須流岐比古神
白山比咩神
社格 式内社(小)
能登国二宮
郷社
創建 (伝)養老元年(717年
本殿の様式 入母屋造
例祭 7月7日
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地理院地図 Googleマップ 伊須流岐比古神社

祭神編集

伊須流岐比古神(石動彦)・白山比咩神を祭る。

このうち、主神の伊須流岐比古神は、「肯構泉達録」などに登場する日本神話で、また五社権現と称される石動権現ともされる。「いするぎ」の名は、はるか昔、石動山に空から流星が落ちてとなり、この地に留まったという伝説に由来する。その石は鳴動し神威を顕したのだという。伊須流岐比古神社は石の鳴動を鎮め、その石を神として祭るべく創建されたと伝わる。

明治期以降の国家神道の下で、権現の名称は否定されており、現在は伊須流岐比古神または石動彦と呼ばれている。

相殿神として、白山比咩神が祭られている。なお、石動彦と白山比咩神は、イザナギイザナミとしても扱われている。かつての本地仏は、虚空蔵菩薩(伊須流岐比古神)・十一面観音(白山比咩神)であった。

歴史編集

かつては、白山と並ぶ北陸地方を中心として広い地域からの尊敬を集める一大霊山であった。

創建は養老元年(717年白山を開いた泰澄により開山したと言われている(崇神天皇6年(紀元前92年)説もあり[要出典])。延喜式に記載された式内社の一つである。

治承4年(1180年)に藤原家通が参拝し、以降勅願寺として保護され、尊敬を受ける。神仏習合の形態であり、伊須流岐比古神社は真言宗寺院の「石動山天平寺」を称していた。天平寺は、院坊360余、衆徒約3,000人の規模を誇った。

中世以降、しばしば焼き討ちにあっては再建されている。南北朝時代には足利尊氏の軍に焼き討ちにされた後、暦応4年(1341年)に尊氏の手で再建され、能登国守護畠山氏により保護される。天正10年(1582年)、上杉謙信死後に七尾に攻め込んだ前田利家に率いられた織田軍と、上杉方についた畠山軍との合戦に巻き込まれ、全山焼き討ちに遭いまたもや焼失、翌天正11年(1583年)に、勅命により豊臣秀吉の手で再興されている。

現存する本殿は、承応2年(1653年)に加賀藩前田利常により建てられたものであり、建立当時は「大宮」と呼ばれていた。

明治5年(1872年)、神仏分離令が公布。寺号を廃し郷社に列する。その際、廃仏毀釈が行われ、石動山全山に渡って伽藍・院坊が破壊され、寺としての痕跡は徹底的に破却された。その後、わずかに残された大宮を御輿堂の場所に移設して、それぞれ本殿・拝殿とした。

富山県射水市放生津八幡宮では江戸時代より、高岡市二上射水神社では明治期に休止となり、昭和31年(1956年)より復活し現在も行われている、全国的にも珍しい古代信仰の形態である築山行事が行われているが、ここ伊須流岐比古神社でも明治期まで行われていた。なお3ケ所の主神の見た目から、放生津の「足なし」、二上山の「手なし」、石動山の「口なし」といわれてきた。

現在、地元自治体の手によって発掘調査が継続的に行われており、当時の全貌の解明が進められている。さらに、大宮坊が復元されるなど、史跡公園としての整備を行っている。

境内編集

  • 本殿(旧大宮。石川県指定文化財)
  • 拝殿(旧御輿堂。石川県指定文化財)
  • 鳥居

※その他、明治期に破壊された天平寺伽藍の礎石や、石仏・石碑などが点在して残っている。現存する建造物は、本殿(大宮)・拝殿(御輿堂)のほかに、行者堂・宝蔵。他にも、石川県内の各地に移設された堂宇が存在する。

関連項目編集

参考文献編集