伊香色雄

古代日本の豪族・物部氏の祖。開化朝、崇神朝の人物
伊香色雄命から転送)

伊香色雄命(いかがしこおのみこと)は、『記紀』等に伝わる古墳時代豪族物部氏の祖。『古事記』では伊迦賀色許男命と表記する。崇神天皇7年に大物主神を祀る「神班物者」(かみのものあかつひと)に任じられたと伝えられている。

 
伊香色雄命
時代 古墳時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 伊迦賀色許男命、伊香色男命、伊香賀色雄、伊香我色乎命、伊香我色男命、伊香我色雄命、伊賀我色男命、伊賀我色雄命
官位 大臣、神班物者
主君 開化天皇崇神天皇
氏族 物部連
父母 父:大綜麻杵命[1]、母:高屋阿波良姫[1]
兄弟 伊香色謎命[1]
真木姫[1]、荒姫[1]、玉手姫[1]、真鳥姫[1]
建胆心大禰命[1]、多辨宿禰命[1]、安毛建美命[1]大新河命[1]十市根命[1]、建新川命[1]大咩布命[1]、気津別命?
テンプレートを表示

記録 編集

古事記』によると、崇神天皇の時、疫病が流行したことがあり、人民が多く亡くなった。その際に、天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。天皇はその人物を捜し出し、

(すなは)ち意富多々泥古命(おほたたねこのみこと)を以ちて神主(かむぬし)と為(し)て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(いつ)き祭りたまひき。又伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰(おほ)せて、天(あめ)の八十(やそ)びらか(=平らな土器。平たい皿様の器)を作り、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め奉(まつ)りたまひき。(後略)

以上のようにして、疫病の流行はやみ、国は平安になった、という[2]

日本書紀』巻第五もほぼ同じ物語を伝えているが、天皇が皇女、豊鍬入姫命渟名城入姫命をそれぞれ天照大神倭大国魂神を祭らせている[3]。その後、夢の前に占いをしており、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に神がのりうつる、という一幕もある[4]

さらに、天皇の夢の後、臣下の大水口宿禰(おおぬなくちのすくね)らの夢にも貴人が現れて、大田田根子(おおたたねこ)と市磯長尾市(いちし の ながおち)をそれぞれ大物主神と倭大国魂を祭らせれば良い、という内容であった。大田田根子を求め、見つけることができた天皇は、

(すなは)ち物部連(もののべのむらじ)の祖(おや)伊香色雄(いかがしこを)をして、神班物者(かみのものあかつひと=神に捧げる物を分かつ人)にせむと卜(うらな)ふに、吉(よ)し。又(また)、便(たより)に(=ついでに)他神(あたしかみ)を祭らむと卜(うらな)ふに、吉(よ)からず。 (そこで、物部連の先祖伊香色雄を神班物者(かみのものあかつひと)にしようと占うと吉(よ)しと出て、またついでに他神を祭ろうと占うに、吉(よ)からずと出た。)訳:宇治谷孟[5]

その後、天皇は伊香色雄に命じて、物部のように沢山ある平瓮(ひらか)を祭神之物(かみまつりもの=神祭の供物)とされ、大田田根子を大物主大神の祭主にし、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主にした、という。これにより、疫病は収まり、国内も鎮まり、五穀が実って、百姓は賑わった[6]

伊香色雄が登場するのはこの場面だけであるが、このことから、崇神天皇が大和国三輪山の神を祭ることで、大和政権の基礎を固め、周辺の諸国の統一にとりかかったという祭政一致の政策を行ってきたことが分かってくる[7]

系譜 編集

父は大綜麻杵命、母は高屋阿波良姫とされ、山代県主の祖・長溝の娘である真木姫・荒姫・玉手姫の三姉妹と倭志紀彦の娘である真鳥姫の四人を妻とした。真木姫との間に物部連公の祖・建胆心大禰命と宇治部連、秦忌寸、葛野野、栗栖連、宇治山守連、長谷山直らの祖・多辨宿禰命を、荒姫との間に物部連公、六人部連、水取造、水取連、舂米宿禰らの祖・安毛建美命と長谷置始連、高橋連、矢田部造、矢集連、佐夜部直、佐夜部首、久努国造丈部小市国造小市直)、風速国造(風早直)、軽部造らの祖・大新河命を、玉手姫との間に十市根命と倭志紀県主、大宅首、川上造、春道宿禰らの祖・建新川命を、真鳥姫との間に倭志紀県主(志紀連)、十市部首、久自国造、大部造、真髪部造、若湯坐連、有道宿禰、今木連、和泉志紀県主らの祖・大売布命を生んだとされる[1]。また『新撰姓氏録』など真神田曽禰連、真神田首、曽根連らの祖・気津別命を子に含める伝承もある。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「天孫本紀」『先代旧事本紀』。
  2. ^ 『古事記』 中巻、崇神天皇日条
  3. ^ 『日本書紀』崇神天皇6年条
  4. ^ 『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条
  5. ^ 『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条
  6. ^ 『日本書紀』崇神天皇7年11月13日条
  7. ^ 中央公論社『日本の歴史1』p281 - 282

参考文献 編集

関連項目 編集