開化天皇
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。記紀における系図上の人物。
開化天皇 | |
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先代 | 孝元天皇 |
次代 | 崇神天皇 |
誕生 | 孝元天皇7年 |
崩御 | 開化天皇60年4月9日 115歳[注釈 1] |
陵所 | 春日率川坂上陵 |
別称 |
稚日本根子彦大日日天皇(紀) 若倭根子日子大毘毘命(記) |
父親 | 孝元天皇 |
母親 | 欝色謎命 |
皇后 | 伊香色謎命 |
夫人 |
丹波竹野媛 姥津媛 鸇比売 |
子女 |
御間城入彦五十瓊殖尊(崇神天皇) 御真津比売命 彦湯産隅命 彦坐王 建豊波豆羅和気王 |
皇居 | 春日率川宮(春日之伊邪河宮) |
欠史八代の1人。 |
目次
略歴編集
孝元天皇の第二皇子。母は皇后で欝色雄命(内色許男命、穂積臣遠祖)の妹の欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)[1]。同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命、異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいる。16才で皇太子となる。
父帝が崩御した同じ年の11月に即位。翌年、春日の率川宮に都を移す。以前の都とは大きく離れた大和盆地の北に位置している。即位6年、孝元天皇の妃(側室)だった伊香色謎命を皇后として御間城尊(後の崇神天皇)らを得た。また丹波竹野媛、和珥臣の祖の姥津命の妹の姥津媛を妃にしている。姥津媛との間には狭穂彦命、狭穂姫命、日葉酢媛命、神功皇后の祖となる彦坐王を得た。即位60年、崩御。
名編集
事績編集
系譜編集
系図編集
火闌降命 | [隼人] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天照大神 | 天忍穂耳尊 | 瓊瓊杵尊 | 火折尊 | 鸕鶿草葺不合尊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天穂日命 | [出雲氏族] | 火明命 | [尾張氏族] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
神八井耳命 | [多氏族] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1 神武天皇 | 2 綏靖天皇 | 3 安寧天皇 | 4 懿徳天皇 | 5 孝昭天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天足彦国押人命 | [和珥氏族] | 大彦命 | [阿倍氏族] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6 孝安天皇 | 7 孝霊天皇 | 8 孝元天皇 | 9 開化天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭迹迹日百襲姫命 | ◇ | ◇ | 武内宿禰 | [葛城氏族] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉備津彦命 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稚武彦命 | [吉備氏族] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女編集
- 皇后:伊香色謎命(いかがしこめのみこと) - 元は孝元天皇の妃。
- 妃:丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) - 丹波大県主由碁理の娘。
- 第一皇子:彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命)
- 妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命) - 姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹。
- 第三皇子:彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)
- 妃:鸇比売(わしひめ) - 葛城垂見宿禰の娘。
- 皇子:建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ:古事記) - 日本書紀なし。
『帝王編年記』『本朝皇胤紹運録』など中世編纂の史書には、以上の后妃のうち鸇比売のみが見えず、代わりに吉備津彦命の女の包媛(色媛?)が挙げられている。
年譜編集
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[3]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
宮編集
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では春日率川宮(かすがのいざかわのみや)、『古事記』では春日之伊邪河宮[4]。
宮の伝説地は、現在の奈良県奈良市本子守町周辺と伝承される[4]。同地では、率川神社境内が宮跡にあたるとされる(位置)[5]。この説は開化天皇陵にも近く優勢であるが、一方で奈良市春日野町の東の四恩院廃寺付近とする説もある[4]。
陵・霊廟編集
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市油阪町にある春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ、位置)に治定されている[6][7][8]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「念仏寺山古墳」で、墳丘長約100メートルの前方後円墳である。
陵について『日本書紀』では前述のように「春日率川坂本陵(坂上陵)」、『古事記』では「伊邪河之坂上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「春日率川坂上陵」として兆域は東西5段・南北5段、在京戸10烟を毎年あてる旨とともに遠陵としている[8]。近世には近隣の念仏寺の墓地になったため墳丘は削られたが、幕末に墓地の移転と陵の修補がなされて現在に至っている[8]。
考証編集
実在性編集
綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある[9](詳細は「欠史八代」を参照)。
名称編集
和風諡号である「わかやまとねこひこ-おおひひ」のうち、「わかやまとねこひこ」は後世に付加された美称(持統・文武・元明・元正の諡号に類例[9])、末尾の「ひ」は神名の末尾に付く「ひ」と同義と見て、開化天皇の原像は「おおひひ(大日日/大毘毘)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[1]。
脚注編集
参考文献編集
関連項目編集
外部リンク編集
- 春日率川坂上陵 - 宮内庁