保科 正静(ほしな まさやす、承応2年(1653年[1] - 正徳2年5月7日1712年6月10日))は、江戸時代中期の江戸幕府旗本寄合席飯野藩主家分家の旗本保科氏第2代目当主。は正豊、正峯、正静。通称は巳之助、主税。父は保科正英。兄は小出英勝。正室は松平信重藤井松平家)の娘。養子は保科正純岡部勝政の子、淡路守)、養女は保科正純の妻(沼間清氏の娘)。使番や先手弓頭などを勤める。

生涯編集

父の正英は但馬国出石藩小出吉重(修理亮)の弟にあたり、兄の英勝は小出吉英の養子となっている。このせいか、使番や先手弓頭時代に刊行された武鑑では「父 小出修理」と掲載されてしまっている。

寛文7年(1667年)閏2月21日に徳川家綱に初お目見えをし、延宝3年(1675年)12月14日に父の隠居を受けて、家督と安房国長狭郡のうち2000石の知行を相続する。

天和2年(1682年)3月29日に使番となり、4月21日上総国上野国下野国で500石加増される。また、同年6月18日酒井忠真が若年で庄内藩主に就任したために国目付として庄内藩に派遣された。

貞享2年(1685年2月15日、目付代として筑紫茂門とともに当時天領であった越後高田城に派遣されている。

元禄3年(1690年)5月11日に端午の朝賀で江戸城大広間に出勤した際に、表坊主への監督に不行届きがあったため、8月13日まで将軍徳川綱吉への拝謁が止められる。元禄4年(1691年)刊行の須原屋蔵板武鑑において、使番衆に「父 小出修理 二千五百石 保科主税 やしき びぜん丁」との記載がある。

元禄9年(1696年)に知行を蔵米に切り替えたが、元禄10年7月26日1697年9月12日)に荻原重秀主導で行われた元禄地方直により知行を上野国群馬郡吾妻郡2500石に改められる。以降明治維新まで知行地に変動はなかった。また翌元禄11年(1698年)に吾妻郡伊勢町(現在の中之条町)に役所を置き、根岸家を代官とした。

その後は日光山の目付代を度々勤めたほか、元禄14年(1701年)8月28日に先手弓頭に就任する。宝永元年(1704年)刊行の須原屋蔵板武鑑での惣弓頭と宝永7年(1710年)刊行の須藤権兵衛蔵板武鑑の先手弓頭に「父 小出修理  二千五百石 保科主税 とらの御門の内」の記載が見える。 

正徳2年(1712年)死去。享年60。法名は宗簾。墓所は麻布の天眞寺。 

脚注編集

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  1. ^ 寛政重修諸家譜記載の享年からの逆算

参考文献編集

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第4』(続群書類従完成会、1964年(昭和39年)初版)
    • 寛政重修諸家譜 巻二百五十
  • 『新訂寛政重修諸家譜 第12』(続群書類従完成会、1965年(昭和40年)初版)
    • 寛政重修諸家譜 巻七百三十八
  • 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、1965年、名著刊行会)
  • 「群馬県の地名 日本歴史地名大系10」(1987年平凡社