劉 信(りゅう しん、生没年不詳)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将・政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。父は劉顕。叔父は劉賜。従父は更始帝(劉玄)。後漢の光武帝(劉秀)の族甥にあたる。前漢末期に反王莽の挙兵を行い、翟義天子として擁立された厳郷侯劉信とは別人である。

事跡 編集

姓名 劉信
時代 代 - 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 荊州南陽郡蔡陽県
職官 〔舂陵軍部将〕?→奮威大将軍〔更始〕
爵位・号等 汝陰王〔更始〕→汝陰侯〔後漢〕
陣営・所属等 劉縯更始帝光武帝
家族・一族 父:劉顕 叔父:劉賜

父の劉顕が復仇のために殺人を犯し[1]、役人に捕えられて処刑されると、これを怨んだ劉信は、叔父の劉賜と共に、家財を擲って刺客を雇い入れて復讐を果たしている[2]。その後、劉賜・劉信らは新の追及を受けたが、幸運にも赦免された。地皇3年(22年)、劉縯が舂陵(南陽郡)で反新のために蜂起すると、劉賜はこれに従軍しており、劉信も劉賜に追従した可能性が高い。

更始元年(23年)秋、更始帝から大司徒に任命された劉賜が、汝南郡劉望荘尤(厳尤)・陳茂を討伐したが、苦戦してこれを鎮圧できなかった。そこで、同年10月、更始帝により劉信が奮威大将軍に任命され、叔父の劉賜に代わって汝南討伐に従事した。劉信は更始帝の期待に応え、劉望・荘尤・陳茂を尽く斬り、汝南を平定した。この功績もあって、更始2年(24年)2月に更始帝が長安に遷都すると、劉信は汝陰王に封じられた。劉信はさらに江南一帯を平定し、豫章郡に駐屯している。

しかし劉秀が光武帝として即位した頃になると、劉信は勢力が低迷した模様で、遂には桂陽太守張隆[3]に撃破されてしまう。進退窮まった劉信は、洛陽に参じて光武帝に降伏し、汝陰侯に封じられた。

永平13年(70年)の楚王劉英の反乱に加担したとされ、劉信は改易された。なお、この際に関係者は死刑または流罪に処されているが、劉信に対する処分がどちらであったかは不明である。

脚注 編集

  1. ^ 後漢書』劉賜伝註の『続漢書』の引用によれば、先ず酔っ払った釜亭侯長が、劉玄(後の更始帝)の父の劉子張を罵り、劉子張は怒ってこの釜亭侯長を刺殺した。次に十余年後、この釜亭侯長の子が復仇として劉玄の弟の劉騫を殺害し、従兄弟である劉顕はこれの仇を討とうとした。
  2. ^ 『続漢書』によれば釜亭侯長の妻子4人を焼き殺した。
  3. ^ 張隆などの荊州南部の有力地方官たちは、この当時、それぞれの拠点で自立・割拠していた。これらの地方官たちが光武帝に服従したのは、岑彭による懐柔工作が成功した建武6年(30年)頃のことである(『後漢書』岑彭伝)。

参考文献 編集

  • 後漢書』列伝4安成孝侯賜伝
  • 同列伝1劉玄伝
  • 同列伝7岑彭伝

関連項目 編集