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劉 賜(りゅう し、? - 52年)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。子琴。祖父は劉利。父の名は不詳。兄は劉顕。甥(劉顕の子)は劉信。子は劉閔。義弟は樊宏(劉賜の妹の夫)。更始帝(劉玄)の従兄弟で、後漢の光武帝(劉秀)の族兄にあたる。

事跡編集

初期の事跡編集

姓名 劉賜
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 52年建武28年)
字・別号 子琴(字)
本貫・出身地等 荊州南陽郡蔡陽県
職官 〔舂陵軍部将〕→光禄勲〔更始〕

大司徒〔更始〕→丞相〔更始〕
→前大司馬〔更始〕 

爵位・号等 広漢侯〔更始〕→宛王〔更始〕

→慎侯〔後漢〕→安成侯〔後漢〕

陣営・所属等 劉縯更始帝光武帝
家族・一族 祖父:劉利 兄:劉顕

子:劉閔 甥:劉信 義弟:樊宏

劉賜は幼くして孤児となり、さらに兄の劉顕は復仇のために殺人を犯し[1]、役人に捕えられて処刑された。これを怨んだ劉賜は、劉顕の子劉信と共に、家財を擲って刺客を雇い入れて復讐を果たしている[2]。その後、劉賜らは新の追及を受けたが、幸運にも赦免された。地皇3年(22年)、劉縯が反新のために舂陵(南陽郡)で蜂起すると、劉賜もこれに従軍し、湖陽(南陽郡)などを攻撃している。

更始1年(23年)2月、劉玄が更始帝として即位すると、劉賜は光禄勲に任命され、広漢侯に封じられている。同年秋頃に大司徒劉縯が誅殺されると、劉賜が後任の大司徒となり、汝南郡の劉望荘尤(厳尤)、陳茂を討伐した。しかし、劉賜の軍事能力はさしたるものではなかったらしく、汝南討伐は苦戦し、更始帝により甥の奮威大将軍劉信と交代させられている。その後、更始帝と共に洛陽入りした。

同年9月、河北征伐について誰を派遣するかが問題になった際には、大司馬朱鮪らが劉秀の派遣に反対する中で、劉賜は劉秀の派遣を強く推し、これが更始帝に採用された。また、この時に、劉賜は丞相に任命され、長安へ赴いて宗廟・宮室の修繕を行っている。

漢への降伏編集

更始2年(24年)2月、更始帝が長安に遷都すると、劉賜は前大司馬に転任し、宛王に封じられた。劉賜は宛に駐留し、六部の兵を率いた。しかし、赤眉軍が更始帝に叛き、樊崇率いる部隊が荊州方面へ進攻してくると、六部の兵は戦わずして逃げ散り、宛を防衛できなくなった劉賜は、育陽(南陽郡)[3]へ退却している。

建武1年(25年)、劉賜は武関で更始帝の妻子を保護した上で、洛陽の光武帝(劉秀)に降った。建武2年(26年)、劉賜は慎侯に封じられている。建武13年(37年)、加増された上で、安成侯に転封された。劉賜は、劉秀からその忠誠心を高く評価され、格別の厚遇を受けている。

建武28年(52年)、劉賜は死去し、子の劉閔が後継した。

脚注編集

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  1. ^ 『後漢書』註の『続漢書』の引用によれば、先ず酔っ払った釜侯亭長が、劉玄(後の更始帝)の父・劉子張を罵り、劉子張は怒ってこの亭長を刺殺した。次に十余年後、この亭長の子が復仇として劉玄の弟劉騫を殺害し、従兄弟である劉顕はこれの仇を討とうとした。
  2. ^ 『続漢書』によれば亭長の妻子4人を焼き殺した。
  3. ^ 当時、育陽は鄧奉の支配下にあり、劉賜はその庇護を受けたものと思われる。また、更始政権の行大将軍事陰識陰麗華の異母兄)は、鄧奉の部将となっている。

参考文献編集

  • 後漢書』列伝4 安成孝侯賜伝
  • 同 列伝1 劉玄伝

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