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北畠 具房(きたばたけ ともふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名公家伊勢国司北畠家の第9代当主。

 
北畠具房
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文16年(1547年[1]
死没 天正8年[1]1月5日1580年1月21日
改名 具房 → 信雅[注釈 1]
別名 中の御所
渾名:大腹御所、太り御所[注釈 2]
戒名 圓徳院通山満浦大居士
官位 右近大夫将監、左近衛中将、
伊勢国司知行国主)
氏族 北畠家
父母 父:北畠具教、母:北の方(六角定頼の娘)
兄弟 具房長野具藤親成
雪姫(織田信雄室)、不破直光室、
徳松丸、亀松丸
昌教[注釈 3]?、女
養子:具豊(のち信意、織田信雄)、親顕
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目次

生涯編集

天文16年(1547年)、第8代当主・北畠具教の嫡男[1]として生まれる。

永禄6年(1563年)、父・具教が隠居し家督を相続した。

永禄12年(1569年)8月、織田軍に大河内城(現在の三重県松阪市)を攻められ、籠城して死守するも、10月に父と共に織田信長と和睦した(大河内城の戦い)。和睦の条件として、信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を養嗣子として迎えることになる[2]。ただし、谷口克広はこの戦いではむしろ織田方が次第に劣勢となり、信長の要請を受けた将軍・足利義昭の仲介で和議に入ったとする説を出している[3]。また、久野雅司は信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている[4]

天正3年(1575年)、茶筅丸が具豊として北畠家の家督を継ぐと、具房は中の御所[5]と敬称されるようになる。

天正4年(1576年)11月、大台の三瀬台に隠棲していた父・具教が信長・信意(具豊改め)父子によって殺害される(三瀬の変[6]と、具房は幽閉の身となり、その身柄を滝川一益に預けられて安濃郡河内に3年間幽閉された[1]

後に幽閉は解かれ、名を信雅(のぶまさ)に改めた[注釈 1]。その直後の天正8年(1580年)1月5日に京で死去。享年34[注釈 4]

人物・逸話編集

  • かなりの肥満体であり、に乗ることも出来なかったといわれる。父・具教と大河内城に篭城した際には、敵方の織田軍から「大腹御所の餅喰らい」とからかわれている。このような具房に、塚原卜伝の高弟・具教は不満を感じていたらしく、『勢州軍記』は具房は父から疎外されていたと記している。
  • 昌教という落胤があったとされており、昌教の名は北畠氏の系図でも確認できる。ただし具房には嗣子が無く、そのために中院通勝の次男・親顕を養子に迎えたとされていることから、昌教の実在には疑問もある。
  • 丹波柏原藩士系図に拠ると具房には一女があり、信雄に養われて織田高長の寵臣中山正就に嫁いで一男一女を生んだとされる。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ a b 幽閉解放後に改名(『勢州軍記』)。織田家の通字である「」の字を含んだ名前に改名させられたものと思われる。
  2. ^ 肥満であったからである(大河内村史蹟名勝誌)。
  3. ^ 子孫が主張しているが本当に具房の子かは疑わしい。
  4. ^ 『多芸録』によると没年は慶長8年(1603年)に52歳で没とする異説もある。

引用元編集

  1. ^ a b c d 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、278頁。
  2. ^ 岡野友彦『北畠親房』、ミネルヴァ書房、2009年、250頁。
  3. ^ 谷口克広『信長と将軍義昭』中公新書、2014年。
  4. ^ 久野雅司「足利義昭政権の研究」(所収:久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』、戒光祥出版、2015年 ISBN 978-4-86403-162-2
  5. ^ 大西源一『北畠氏の研究』、鹿東文庫、1960年。
  6. ^ 岡野友彦『北畠親房』、ミネルヴァ書房、2009年、250-251頁。

参考文献編集

  • 大西源一『北畠氏の研究』、鹿東文庫、1960年。
  • 『戦国人名事典コンパクト版』阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9
  • 岡野友彦『北畠親房』、ミネルヴァ書房、2009年。

関連項目編集