南部 行信(なんぶ ゆきのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名陸奥国盛岡藩の第4代藩主官位従四位下信濃守

 
南部 行信
南部 行信
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永19年8月17日1642年9月11日
死没 元禄15年10月11日1702年11月29日
改名 八内(幼名)、行信
別名 南英、信真
戒名 徳雲院殿玉翁宗冊大居士
墓所 岩手県盛岡市聖寿寺
官位 従五位下信濃守従四位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
陸奥盛岡藩
氏族 南部氏
父母 南部重信玉山秀久の娘・大智院
兄弟 七戸秀信七戸定信行信、辰之助、七戸英信政信、式姫、七姫、勝信、萬之助、千之助、通信七戸愛信坪内定信七戸舜信、慶姫、恵岐姫
正室熊姫
側室中里半兵衛の娘・広照院、心光院岩井与市郎の娘・慈恩院、椎名氏の娘・糸女
実信信恩利幹青山幸督正室、牧野英成正室、南部直政正室、艶姫、幕子ら
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経歴

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寛永19年(1642年)8月17日、第3代藩主・南部重信の長男として盛岡にて誕生。寛文6年(1664年)4月28日に4代将軍徳川家綱御目見する。同年12月28日に従五位下、信濃守に叙位・任官する。元禄5年(1692年)6月27日、重信の隠居により51歳で家督を継ぐ。元禄7年(1694年)8月21日、弟・政信に新田5000石、弟・勝信に新田3000石を分け与え、各々旗本に列する。元禄12年(1699年)12月18日、従四位下に昇進する。

行信が藩主となった頃には、鹿角金山を始めとする盛岡藩内における産金の減少、元禄7年(1694年)の大凶作から元禄8年(1695年)の大飢饉と、連年のように凶作が続いて4万人の餓死者を出すなど、藩財政が著しく悪化した。このため、新田開発の奨励、倹約の徹底、検見制廃止による税制改革、軍馬飼育義務の免除など様々な財政改革を試みるが効果はなく、元禄15年(1702年)には2万6000人の餓死者を出すに至った。

このため、行信は次第に藩政に対する関心を失った。儒教に盲信の域まで傾倒し、早世した長男・実信の葬儀は仏式を廃して儒式で行い、江戸落書のネタにされたという。このために儒臣が権勢を握り、代わって嗣子となった信恩を廃嫡しようとまでしている。

また武芸では砲術に長けており、数流派を合わせて心的妙化流を開き、5代将軍・徳川綱吉の前で披露したこともあったという。この他馬術でも行信流を開いた。

元禄15年(1702年)10月11日、父の後を追うように盛岡で死去した。享年61。跡を三男・信恩が継いだ。

系譜

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