友松円諦
日本の仏教学者
(友松圓諦から転送)
友松 円諦(ともまつ えんたい、1895年〈明治28年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉11月16日)は、日本の宗教家、仏教学者である。幼名は春太郎。全日本仏教会創立者。
ともまつ えんたい 友松 円諦 | |
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生誕 |
1895年4月1日 日本 愛知県 |
死没 | 1973年11月16日(78歳) |
出身校 | 慶應義塾大学文学部史学科 |
職業 | 仏教学者 |
受賞 | 第7回仏教伝道文化賞 |
概要
編集浄土宗の僧侶となったが、既存の仏教の在り方に疑念を抱いた。浄土宗の僧侶のまま宗教大学へ入り、卒業してさらに慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学文学部史学科でサンスクリット(梵語)を学び、大正13年に卒業。
独・仏に留学し、帰国後に慶應義塾大学予科講師・教授、慶應義塾大学仏教青年会顧問、日本放送協会ラジオ講師、大正大学講師等を歴任。西洋哲学に裏打ちされた仏典研究をはじめる。また、高島米峰の新仏教運動に影響されて仏教復興運動(真理運動)を開始し、ラジオや機関誌で思想を広めた。戦後、無宗派の寺院である神田寺を設立して、在家信者の教化に当たる。また、様々な社会運動をリードし、全日本仏教会を設立して既存の仏教諸宗派をまとめ上げ、初代の事務総長となった。
明治仏教史編纂所が蒐集した蔵書の『明治仏教史編纂書蔵書』は、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫に保存されている。
また、東京大空襲で戦争孤児になった海老名香葉子(初代林家三平夫人)を、親交のあった三遊亭金馬(八代)に親代わりになってもらうようにお願いした。
長男は僧・仏教学者の友松諦道。
年表
編集- 1895年 愛知県名古屋市の米屋に次男として誕生 幼名は春太郎
- 1904年 東京都江東区の安民寺の住職である叔父の友松諦常に師事。浄土宗の僧侶となる。
- 1909年 僧侶業に嫌気が差し、帰郷。母親に「寺が嫌なら、いいと思う寺を作れ」と諭され、再び上京。
- 1912年 宗教大学(大正大学)に入学
- 1914年 志願して陸軍軍人となる
- 1916年 退役。大正大学に復学。安民寺住職に就任
- 1920年 慶應義塾大学予科
- 1924年 慶應義塾大学文学部史学科を卒業
- 1927年 ドイツのハイデルベルク大学へ留学
- 1929年 フランスのソルボンヌ大学へ留学
- 1931年 帰国。慶應義塾大学予科の講師となる
- 1934年 NHKラジオで『法句経』の講義を行う。
- 1935年 真理運動開始。機関誌「真理」発行
- 1936年 青江舜二郎が書いた論文を盗作した疑惑が朝日新聞に掲載される
- 1945年 東京大空襲により安民寺が焼失
- 1947年 東京都千代田区に神田寺を建立
- 1940年代 神田寺内に明治仏教史編纂所を設立
- 1957年 財団法人全日本仏教会を設立。事務総長に就任
- 1973年 死去
受賞歴
編集- 1973年 第7回仏教伝道文化賞受賞 - 長年の真理運動に対して
弟子
編集著作リスト
編集- 『阿含経』(佛教經典叢書刊行會、1921年)
- 『佛陀の言葉』(甲子社書房、1924年)
- 『新時代の仏教』(甲子社書房、1926年)
- 『佛教と社會』(甲子社書房、1928年)
- 『出家に禁ぜられた營利行爲』(佛教法政經濟研究所、1933年)
- 『現代人の仏教概論』(第一書房、1933年)
- 『法句経講義』(第一書房、1934年)
- 『不二の世界』(第一書房、1934年)
- 『佛教入門』(偕成社、1942年)
- 『アジアの光』(潮文閣、1944年)
- 『仏教聖典』(真理運動本部、1948年)
- 『宗教入門』(真理運動本部、1948年)
- 『話の仕方』(真理運動本部、1953年)
- 『般若心經講話』(河出書房、1957年)
- 『世間虚假』(誠信書房、1959年)
- 『法句経』(宝文館、1960年)
- 『月照』(吉川弘文館、1961年)
- 『経営者読本』(真理運動本部、1962年)
- 『仏教経済思想研究』(春秋社、1965年)
- 『人生春秋』(日本法令様式販売所、1968年)
- 『中道』(経済往来社、1971年)
- 『まことの生活』(筑摩書房、1972年)
- 『仏陀のおしえ』(講談社学術文庫、1980年)
- 『阿含経入門』(講談社学術文庫、1981年)
- 『法句経』(講談社学術文庫、1985年)
- 『仏教の未来をひらく』(鈴木出版、2002年)
その他