1853年に造られた韮山反射炉。鉄骨のフレームは耐震補強用。

反射炉(はんしゃろ、英語:Reverberatory furnace)とは、金属融解炉の一種。18世紀から19世紀にかけて精錬に使われた。ただし、もとは鉄以外の金属に用いられた設備で現代でも鉄以外の金属の精錬に用いられている。

構造編集

 
パドル法で錬鉄を製造する反射炉の断面図
 
Firebox=燃焼室,、Hearth=炉床、Flue=煙突

熱を発生させる燃焼室と精錬を行う炉床が別室になっているのが特徴。燃焼室で発生した熱(熱線と燃焼ガス)を天井で反射、側方の炉床に熱を集中させる。炉床で金属(鉄)の精錬を行う。

歴史編集

反射炉は初期には低融点の金属の融解、中期には高炉からの銑鉄の再溶解、後期には攪拌精錬法(パドル法)による錬鉄の生産に主に用いられた[1]

初期編集

反射炉はもともと融点の低いなどの金属の融解に利用されていた[1]

最初の反射炉は中世の時代にあったとされ、を鋳込むときの青銅の溶解などに使用された。17世紀末に初めて金属の製錬に適用された。クレメント・クラーク准男爵(Sir Clement Clerke, 1st Baronet)と彼の息子タルボットSir Talbot Clerke, 2nd Baronet)は1678年ブリストルエイボン川の畔にキューポラ(cupolas、つまりは反射炉)を建てた。1687年まではの精錬に用いていたが、臭うので(訴訟になり)銅の精錬用に変えた。反射炉は次の十年の間に等の幅広い金属の精錬に用いられるようになった。旧来の精錬方法に比べて褐炭木炭ではなく石炭を燃料として使用できるという優位性があった。

中期編集

の鋳造技術においてはヨーロッパでは18世紀まで鋳鉄は硬くて脆いものとされていたため鍛造の鉄が重宝された[1]。しかし、1735年にダービー2世高炉での鋳鉄の製造に成功し、シリコンの高い加工可能な鋳鉄ができるようになったことで蒸気機関などの製造が可能となり産業革命が起こることになった[1]。この高炉の発明後、1766年にクラネージ兄弟Cranege brothers)によって高炉でできた銑鉄を再溶解する反射炉が発明され、高炉から独立して大量の溶湯を得ることができるようになった[1]

後期編集

1784年にはヘンリー・コートHenry Cort)によって攪拌精錬法(パドル法)が発明され反射炉は錬鉄の生産に用いられるようになった[1]。これにより旧来の塊鉄炉finery process)は置き換えられた。

ヨーロッパでは1760年代のクラネージ兄弟による発明から、1850年代のベッセマー転炉の発明までの約90年間が反射炉の時代にあたる[1]

日本での歴史編集

技術の輸入編集

江戸時代後期になると日本近海に外国船の出没が増え、海防の必要性が問われるようになった。外国船に対抗するには精度が高く飛距離の長い洋式砲が必要とされたが、従来の日本の鋳造技術では大型の洋式砲を製作することは困難であり、外国式の融解炉が求められることとなった。 外国の技術者を招聘することが叶わない時代でもあり、伊豆韮山代官の江川英龍、佐賀藩の鍋島直正などが、オランダの技術書(『鉄熕鋳鑑図』Ulrich Huguenin原著、金森建策訳)等を参考に作り始めた[2]

 
煙突部の遺構が現存する萩反射炉。実用炉ではなく試験炉とされる。

江戸時代末期に、技術水準の差はあったが伊豆国江戸佐賀藩薩摩藩水戸藩鳥取藩萩藩島原藩などで主に洋式の野の砲身を鋳造するために反射炉が作られた[2]。これらは幕府による伊豆国の韮山反射炉や江戸の滝野川反射炉を除き、主に幕藩体制の藩が中心となった。なお、鳥取藩では郷士で廻船業を営む武信家によって進められ、また島原藩では民間人の賀来惟熊によって進められた。鋳造された砲は、幕末には外国勢力への牽制として、また戊辰戦争などの実戦に用いられたとも言われているが、定説となってはいない。

反射炉に必要とされた耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用されるなど、歴史の転換に重要な役割を担った。

反射炉の製造技術の導入が、日本史において特記されるのは、鉄製の大砲の製造が可能になったからである。かつての鋳造技術では砲身を鉄で製造する場合は材質を均一にできず、砲身が破裂する事故が多発した。そのため大砲は鉄製から青銅製へと"進化"していった。しかしその後の技術発達において、鉄製であっても材質を均一に砲身を鋳造する事が可能になり、再び鉄製の大砲が登場するが、日本では青銅砲の段階で技術が停滞したままであった。反射炉による鉄製砲の製造は、日本にとって鎖国下の技術停滞、開国による技術革新の象徴的な出来事となった。

なお、反射炉では、鉄製のみならず青銅製の砲も製造された[2]

すでに反射炉が普及していた同時期のヨーロッパでは、生産性の高い転炉 (convertor) が出現したことから、日本での歴史的評価のように重要視はされてはいない。

現代編集

反射炉は20世紀に入り官営八幡製作所が操業を開始、圧延工程のロールを造るため復活した。鮎川儀介の戸畑鋳物(後の日立製作所)も追従し、反射炉によるロール製造を開始した。関東大震災後の鋼材需要増加で大谷重工業 日本ロールも、反射炉によるロール製造販売に参入、日立製作所は東洋一のロール工場を設立した。戦中、平炉メーカーの川崎製鉄(知多)と淀川製鋼所は自社向けロールの製造のため反射炉を建造し、戦中の反射炉稼働は10数基に及んだ。

戦後反射炉は倍増、30数基が稼働し大活躍をした。その結果日本の粗鋼生産量は1993年から1996年の4年間、遂に世界一になった。その後中国とインドに抜かれ3位の座にいるが[要出典]、技術を含めた総合力で世界一と評価されている[要出典]。参照<図解 世界と日本の粗鋼生産量の長期推移><図解 戦後70年 鉄鋼産業の戦後の歩み>

1997年二酸化炭素削減の京都議定書採択により、反射炉は高周波誘導炉に移行せざるを得なくなり、2008年淀川製鋼所4号機の廃炉をもって、一世紀に亘り活躍した反射炉は鉄鋼産業から姿を消した。

21世紀に入っても福島県いわき市小名浜製錬製錬所や回収された金属の精錬等で使用されている[3]。バーナーの炎が壁面に沿って回るので湯(溶融した液体状の金属)に熱が均一に伝わり、攪拌作業でも湯全体を隅々までしっかりと混ぜることができるため酸化物や不純物を取り除く精錬作業に向いている。反面、構造上、上部の開口部の空気と接する表面積が広いため、アルミニウム、ケイ素など酸化しやすい元素や亜鉛のように消耗しやすい元素を含む材質の熔解に適していない。一方アルミ合金産業では反射炉が多用されるようになった。

年表編集

  • 1849年(嘉永2年) 江川英龍が江戸の自宅に小型の反射炉の実験炉を試作した。後に伊豆韮山で作る反射炉の原型。
  • 1850年(嘉永3年) 佐賀藩鍋島直正が日本初の実証炉(築地反射炉)を建設、洋式砲の鋳造を始める[2]
  • 1853年(嘉永6年) 江川英敏が佐賀藩からの技術支援を受けて伊豆韮山に反射炉を設置[2][4]
  • 1857年(安政4年)
    • 水戸藩徳川斉昭が現在のひたちなか市に反射炉を2基完成。(水戸藩営大砲鋳造所)
    • 薩摩藩が反射炉を完成させ運用。日本で初めて近代的な手法による大量製鉄を行う。
  • 1864年(元治元年) 大砲鋳造のために現在の東京都北区滝野川に反射炉の設置と錐台の動力源として千川上水を引いたが、幕府瓦解のため使用されず[5]
  • 1909年(明治42年) 官営八幡製鉄所が本格操業開始し圧延ロールを自作するため尾倉鋳造工場にロール工場が設立され反射炉が稼働。以降戸畑鋳物(後の日立製作所)大谷重工業 日本ロールも追従、戦中の反射炉は10数基稼働。
  • 1948年(昭和23年) 吉田内閣は戦後の復興に傾斜生産方式の緊急経済政策を施行した。石炭と鉄鋼の増産のため資金 資材 人材 労働力を超重点的に投入した。その結果反射炉は倍増し30基が稼働。
  • 1954年(昭和29年)日本鉄鋼協会 連盟 通産省重工業局の報告書によると鋳鉄ロールの設備状況は次の通り。 電気炉9基(51トン) キュウポラ炉18基(52トン) 反射炉30基(660トン)
  • 1997年(平成9年) 二酸化炭素削減の京都議定書採択により反射炉は高周波誘導炉に移行した。
  • 2008年(平成20年) 淀川製鋼所4号機の廃炉を最後に鉄鋼産業界から姿を消した。
  • 2019年(令和元年)アイドルグループTOKIOがテレビ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系列)の企画で無人島にて150年ぶりに反射炉を専門家のアドバイスを受けつつ完成させる。

遺構など編集

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g 菅野利猛. “世界文化遺産、韮山反射炉の10大ミステリーを解く”. 2020年5月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e 中野俊雄「江戸幕末における反射炉」『鋳造工学』第80巻第8号、日本鋳造工学会、2008年、 494-504頁、 doi:10.11279/jfes.80.4942016年7月24日閲覧。
  3. ^ イクチ風インゴットの作り方 - 株式会社イクチ
  4. ^ 江川英龍(江川坦庵)は反射炉の完成前に死亡
  5. ^ 飛鳥山3つの博物館HP 醸造試験所(鹿島紡績所他)跡地

関連項目編集

外部リンク編集