吉村 道明(よしむら みちあき、1926年大正15年〉9月19日 - 2003年平成15年〉2月15日)は、日本プロレスラー火の玉小僧と呼ばれた。

吉村 道明
プロフィール
リングネーム 吉村 道明
本名 吉村 道明
ニックネーム 火の玉小僧
突貫小僧
闘将
身長 183cm
体重 108kg
誕生日 1926年9月19日
死亡日 (2003-02-15) 2003年2月15日(76歳没)
出身地 日本の旗 日本岐阜県岐阜市
スポーツ歴 相撲
デビュー 1954年4月
引退 1973年3月3日
テンプレートを表示

現役引退後は、近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたった。岐阜県岐阜市出身。

来歴 編集

プロレス界での活躍 編集

14歳で大日本帝国海軍の志願兵となり、海軍通信学校普通科練習生を36番の成績で卒業して太平洋戦争に出征。シンガポール駐留中に海軍相撲で活躍し、海軍通信学校高等科練習生として5番の成績で卒業。終戦後は機雷除去の仕事を一年間務めた後、トヨタ自動車に勤務[1]。1949年にトヨタ自動車を退社して近畿大学へ入学して相撲部に入部。学生横綱[2]国民体育大会個人優勝など輝かしい実績を残す。

大学卒業後は再度トヨタ自動車に勤務したが[1]1954年4月大阪を本拠地として活動していた全日本プロレス協会[3]へ入団。1956年に全日本プロレス協会は崩壊するが、力道山にスカウトされて1957年5月に日本プロレスへ移籍する。移籍前の同年4月8日、初代選手権者の駿河海を下して日本ジュニアヘビー級王座を獲得した。日本プロレス移籍の経過については、門茂男著「力道山の真実」角川文庫が詳しい。

日本プロレスへ移籍後は力道山の脇役であったが、軽快な身のこなしからの回転エビ固めなどの得意技で人気者となる。また若手レスラーの壁としても立ちはだかり、デビュー間もないアントニオ猪木(当時は猪木寛至)との対戦成績は19連勝を記録している。1961年にヘビー級へ転向し、力道山のパートナーとしてタッグチームを組む機会も多くなり、大柄の外国人レスラーに血だるまで立ち向かう姿から「火の玉小僧」と呼ばれて活躍した。一人で相手の攻撃を受けまくる姿は、結果的に力道山をはじめとするタッグ・パートナーを引き立たせる効果もあげていた。また日本プロレス屈指の技巧派としても有名でありカール・ゴッチキラー・カール・コックスの初来日に際して第一戦の相手として起用されたのも吉村である。必然的にそれぞれの必殺技であるジャーマン・スープレックスブレーンバスターを日本で最初に食ったのも吉村となった。なおゴッチは吉村を力道山より上だと評価しており、初来日の1961年に13回・2度目の1966年に1回対戦した。戦績は吉村の1勝3敗9引分1ノーゲームで、ゴッチから2フォール勝ちを奪った唯一の日本人レスラーである。

しかし、1963年12月15日に力道山が不慮の事故で急逝。窮地に立たされた日本プロレスは吉村・豊登芳の里遠藤幸吉を4幹部として再起を図るが、社長に就任した豊登の横領・放漫経営などで経営が悪化する。1965年末に豊登を事実上追放し、ジャイアント馬場・アントニオ猪木をエースとする体制に移行する。新社長となった芳の里・遠藤両名は現役を引退して経営に専念したが、吉村は重役を兼務しながら現役を続行。アジアタッグ王座を長く保持し、馬場・猪木・大木金太郎とともに日プロ四天王とも呼ばれ、中心レスラーとして活躍した。しかし日本プロレスは1971年末に猪木・翌年7月に馬場が相次いで離脱してしまい、それぞれ新団体を設立。1973年2月、残ったエースの坂口征二も猪木に合流する形で離脱を表明する。さらにNETが3月いっぱいで日本プロレスの中継打ち切りを決定したことで、吉村も引退を決意した。1973年3月3日に母校の近畿大学記念館大会で引退試合を行って「ラバウル小唄」が流れる中、小沢正志に肩車されてプロレスラーを引退した[4]。この大会は日本プロレス史上初めての引退記念興業および引退試合とされ、その模様は3月9日に放送された。結局日本プロレスは、同年4月をもって解散している。

団体内のトラブル発生にもかかわらず、力道山の死後も吉村は選手として持ち前のテクニックを生かし、馬場・猪木・大木・坂口ら後輩レスラーたちのパートナーとしてタッグタイトルを保持し、46歳の引退まで奮闘した。選手としての晩年には「火の玉小僧」に代わり「闘将」と呼ばれていた。

プロレス引退後 編集

プロレス引退後の吉村は、母校の近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたりながら事業にも取り組み、プロレス界からは完全に身を引き長く絶縁状態を貫いた。ただし、1974年10月の猪木vs大木戦で「遺恨をマットに持ち込むなら試合を止めろ」とメッセージを両名に送ったことがある。1990年代にレスラーOB会の会長に就任して以降は、試合会場に姿を見せる機会が僅かながら見られるようになった。

近畿大学相撲部では、のちに大関となる長岡末弘(朝潮、後の7代高砂親方→18代錦島親方)を指導し、2年連続してアマチュア横綱に導くなど手腕を発揮した[4]。長岡の証言によると、当時1年生でひよっこ部員であった長岡に負けてショックを受け、すぐにコーチを辞めてしまったとのこと[5]

晩年は入退院を繰り返すようになり、2003年2月15日神戸市内の病院において呼吸不全により76歳で死去。葬儀・告別式は身内だけで営まれ、関係者に訃報が届いたのは2日後の17日だった。

人物 編集

太平洋戦争出征中は、乗船していた艦艇が、幾度も連合国軍の潜水艦による魚雷攻撃を受けたものの、生還している[1]

意外と知られていないのが彼の人柄である。日本プロレス時代には「縁の下の力持ち」的存在で現場監督のほか、興行の業務処理などを担当していた。人格者だったために多くの後輩からも慕われていたという。

付き人を務めていたグレート小鹿は、1973年1月に林牛之助と共に吉村を日本プロレスに残るよう慰留すべく、吉村の自宅へと向かった。その際吉村は2人に対して「腰痛が酷くて自分はプロレスをやれる体じゃない。すでに神戸に引っ越すことを決めていたんだよ」と反対し、小鹿と林はその場で泣きじゃくっていた[6]。その直後に林は海外遠征に出発し、小鹿も坂口の退団騒動において大木に付くことになり、そのまま日本プロレス崩壊を迎えることになる。なお吉村は中立の立場を貫いていた。さらに小鹿は吉村がプロモーターからの信頼が厚かったことも明かし「吉村さんが地方のタニマチに私を紹介してくれたおかげで、大日本プロレスの地方興行はトラブルにならない。吉村さんは恩人ですよね」と語っている[4]

獲得タイトル 編集

得意技 編集

  • 回転エビ固め…血だるまからの大逆転勝利を数多くもたらした、吉村の代名詞。
  • ドロップキック…高い打点を保っていて、黎明期の使い手ではトップクラスに挙げる声が多い。

出演 編集

映画 編集

脚注 編集

参考文献 編集

  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.8』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622699 

外部リンク 編集