和泉村(いずみむら)は、かつて愛知県碧海郡にあった。現在の安城市和泉町などに相当する。

いずみむら
和泉村
廃止日 1906年5月1日
廃止理由 新設合併
和泉村城ヶ入村西端村根崎村東端村米津村榎前村(一部)→ 淵辺村
現在の自治体 安城市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 愛知県
碧海郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
和泉村役場
所在地 愛知県碧海郡和泉村
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地理 編集

高浜川水系の半場川流域に位置する[1]。江戸時代に油ヶ淵が湖沼化する前は、衣浦湾に面する入り江となっていた[2][1]

南は城ヶ入村、西は西端村に隣接していた[2]

歴史 編集

中世以前 編集

弥生時代中期の中本郷貝塚、弥生時代中期・後期の八斗蒔遺跡(はっとまきいせき)や惣山古墳などがあったが、いずれも後に壊滅した[2][1]

鎌倉時代の13世紀初頭には伊勢神宮の神領地に指定され、泉御園と呼ばれたことが名称の由来の一説である[1]石川丈山邸の藪の中に湧き出ていた泉が由来とされることもある[1]江戸時代には一文字で泉と表記されることも多かった[1]

近世 編集

 
文人の石川丈山
 
用水の開削を計画した都築弥厚

元和4年(1618年)には五ケ野原をめぐって桜井村と争いを起こし、和泉村の久津名七右衛門が殺されたとされる[1]。この頃には五ケ野原が桜井村、小川村、和泉村、城ケ入村、中根村の5か村による入会地となる慣例が確立したとされる[2][1]。寛永20年(1643年)から元禄13年(1700年)にかけても城ケ入村との間で土地の帰属を巡る争いが起こった[1]

江戸時代の初めは甘縄藩領であり、元禄16年(1703年)に旗本の松平万次郎領と天領に二分された(相給村)[2][1]松平氏の知行は明治維新期まで存続したが、天領分は宝永7年(1710年)に刈谷藩領となった[2][1]。寛政2年(1790年)に刈谷藩領で寛政一揆が発生したことで領地替えの処罰を受け、寛政4年(1792年)には刈谷藩領分が福島藩領となった。1869年(明治2年)にはこの福島藩飛び地が重原藩領として独立した。

村高は『寛永高附』によると573石余、『元禄郷帳』によると622石余、『天保郷帳』や『旧高旧領』によると774石余だったが、油ヶ淵に近かったことから水害による損害も大きかった[1]。17世紀後半には綿作が発展し、延宝8年(1680年)以後の年貢割付状には木綿畑が登場する[2]。18世紀初頭には畑高の半分以上が綿畑高だった[2]

和泉村の豪農としては都築弥厚がおり、文化9年(1812年)からは松平家の代官を務めた[1]。都築弥厚は天保3年(1833年)には石高2070石、酒造株4160石余を有していたが、天保年間の和泉村には9軒以上の酒造家があったうえ、特産品として和泉そうめんがあった[1]

近代 編集

 
合併後の1911年開局の旧明治郵便局

1888年(明治21年)の町村制施行に伴い、1889年(明治22年)には碧海郡和泉村が発足した[1]。1891年(明治24年)の戸数は312、人口は1601だった[1]

1906年(明治39年)5月1日米津村西端村東端村根崎村城ヶ入村および榎前村の一部と新設合併して淵辺村となり、和泉村は廃止された。淵辺村の大字として和泉が設置された[1]

教育 編集

名所・旧跡 編集

 
本龍寺

出身者 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年、pp.147-148
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』平凡社、1981年
  3. ^ 本龍寺とは 本龍寺

参考文献 編集

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年
  • 『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』平凡社、1981年

関連項目 編集