坂部 十寸穂(さかべ としお[1] / とすお[2] / ますお[3]1877年明治10年)12月1日[1][4] - 1930年昭和5年)11月4日[1][2][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・寺沢。

坂部十寸穂

経歴 編集

高知県[注 2]板野郡、後の北灘村(現徳島県鳴門市北灘町)で[3]徳島藩士・寺沢男也の三男として生まれた[1][3]。6歳で父を失い[3]、母方の実家、元徳島市長・坂部広織の養子となる[1][3]。徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)を経て、1895年(明治28年)12月、士官候補生となり、翌年9月、陸軍士官学校に入学[1]1897年(明治30年)11月、陸士(9期)を卒業[1][4][5]。翌1898年(明治31年)6月、砲兵少尉に任官し[5]野砲兵第15連隊付となる[1]

1901年(明治34年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業[1]1902年(明治35年)6月、陸軍野戦砲兵射撃学校教官となり、野砲兵第15連隊中隊長を経て、1903年(明治36年)8月、陸軍大学校に入学[1]日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退[1]1905年(明治38年)8月、第4軍副官となり出征[1]1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校(20期)を優等で卒業した[1][4][5]

1908年12月、砲兵少佐に昇進し参謀本部員に就任[1]1909年(明治42年)6月、ロシア差遣(ハバロフスク駐在)となり、1910年(明治43年)6月に帰国[1]。同年11月、陸大教官兼参謀本部員に就任[1]1914年(大正3年)9月から1916年(大正5年)5月までロシア軍に従軍した[1]

1915年(大正4年)4月、砲兵中佐に進級し参謀本部付となり、参謀本部員、シベリア出張などを経て、1918年(大正7年)8月、浦塩派遣軍参謀に発令されシベリア出兵に出征[1][2][4]。同年11月、砲兵大佐に昇進[1][2]1919年(大正8年)11月、近衛野砲兵連隊長となり、第14師団参謀長、参謀本部課長などを経て、1923年(大正12年)8月、陸軍少将に進級し陸大幹事となった[1][2][4]

1927年(昭和2年)7月、野戦重砲兵第4旅団長に就任し、1928年(昭和3年)3月、陸軍中将に進み砲兵監に就任[1][2][4]1930年(昭和5年)8月、第3師団長に親補されたが、同年11月に現職で死去した[1][2][4]

親族 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『徳島県歴史人物鑑』143頁、『日本陸軍将官辞典』333頁では11月3日。
  2. ^ 当時、現在の徳島県区域は高知県の管轄であった。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『日本陸海軍総合事典』第2版、73頁。
  2. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』141頁。
  3. ^ a b c d e f 『徳島県歴史人物鑑』143頁。
  4. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』333-334頁。
  5. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』139、141頁。

参考文献 編集

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 『徳島県歴史人物鑑』徳島新聞社、1994年。