多胡碑

群馬県高崎市にある古碑

多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)であり、国の特別史跡に指定されている。山ノ上碑金井沢碑とともに「上野三碑[注釈 1]と総称される。また、書道史の上から、日本三古碑の一つとされる。建碑は和銅4年(711年)頃とされる。

多胡碑

概要編集

碑身、笠石、台石からなり、材質は花崗岩質砂岩で、牛伏砂岩と呼ばれ、近隣で産出される。地元では多胡石、天引石などとも呼ばれている。碑身は高さ125cm、幅60cmの四角柱で前面に6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれている。笠石は高さ25cm、軒幅88cmの方形造りである[1]。台石にのせられた碑身は下部が四角錐状になっており「國」の字が刻まれていると言われるが、現在はコンクリートにより固定されているため確認できない。

碑文編集

 
多胡碑 拓本

多胡碑の碑文は以下の通り[2]

弁官符上野国片野郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
石上尊右太臣正二位藤原尊

読み下し編集

弁官符(おお)す。上野国の片岡郡、緑野(みどの)郡、甘良(かんら)郡并せて三郡(みつのこおり)の内、三百戸を郡となし、羊に給いて多胡郡(たごのこおり)と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣(の)る。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊[2]

現代語訳編集

朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅4年3月9日甲寅に命令が伝えられた。左中弁正五位下多治比真人(多治比三宅麻呂)。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上尊(石上麻呂)、右太臣正二位藤原尊(藤原不比等[2]

解釈編集

この碑文は、和銅4年3月9日711年)に多胡郡が設置された[3]際の、諸国を管轄した事務局である弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡郡設置の記念碑とされるが、その一部解釈については、未だに意見が分かれている。

考証編集

多胡碑文の後半には、時の政府首脳と実務官僚の名を列記し、それぞれに「尊」の尊称を付して崇めていることから、本碑は初代郡領である「羊」が企画し、自らの正当性を誇示した顕彰碑の性格が強いと考えられる[4]

国造屯倉が廃止されていく乙巳の変以降の政治体制において、新たに中央との結びつきを形成するのは「評造(郡領)」への登用であった。このため、豪族たちの間で「屯倉を与ってきた」という事績の強調が行われたことが、大化元年(645年)8月の「東国国司発遣詔」に見える[5]。こうした観点から見ると、金井沢碑や山ノ上碑の建立契機として碑面に明示された「祖先供養」の側面が強調されてきたが、その背後には評造への任官をめぐる地域内での相克が強く存在したことを推定することができる。佐野屯倉・緑野屯倉一帯においては、孝徳朝以降に車評片岡評碓氷評甘楽評緑野評が成立したとみられる。このとき、緑野屯倉は緑野評に移行したが,佐野屯倉は佐野評となることなく、車評(後の群馬郡)と片岡評に分割されたことになる。白石太一郎は、国造の領域の中には複数の優勢な古墳群があり、それぞれが分置された評のエリアと整合するとしており、7世紀中?後半には上毛野国においても立評が行われ、有力者が評造に着任した。しかし佐野屯倉が評になることはなく、烏川を挟んだ東西2評(郡)に分割された。これは、健守命の後裔が車評・片岡評の評造となった勢力に政治的に敗北したことを示している。その評造への任官の政治的アピールの過程において企画されたのが「佐野屯倉」の管理者の末裔であることを刻んだ山ノ上碑であり、「この屯倉を与ってきた」という家柄の強調であったと考えられる。そして、佐野屯倉の管理者の末裔は、和銅4年(711年)の新郡(多胡郡)建郡においても、多胡郡の有力者であった「羊」に政治的に敗北した。ここでも佐野郡の建郡はならなかったのであり、羊による多胡碑の立碑は、建碑者の文化的背景(新羅系渡来人[注釈 2])をもって、山ノ上碑とは異なる蓋首碑(笠石を持つ型式で、新羅王碑の型式に倣ったとされる)+楷書体の型式を整えて、山ノ上碑に対抗し、多胡郡の正当性を誇示したものといえる。前方後円墳が不鮮明であった甘楽東部地域を核とした多胡郡の成立は、前方後円墳を築造してきた伝統勢力ではなく、国家形成に有用な新しい経済力や技術力をもった地域集団を必要とした社会情勢をよく示している[4]

なお、旧吉井町辛科神社は、境内の由緒書によると、新羅系氏族によって祀られた神社であり、多胡郡を設置した際に多胡郡総鎮守として崇敬されたという。

歴史編集

 
覆堂

多胡碑は現在「御門」という地名に所在するが、この地名は政令を意味する事から郡衙(ぐんが、郡の役所)が置かれた場所と推定される。実際、平成28年(2016年)に多胡碑周辺において郡衙主要施設の正倉の遺構が発見されている[6]

8世紀に建碑されたと考えられる多胡碑だが、9世紀後半頃からの郡衙の衰退、その後の律令制の崩壊と共に、多胡碑も時代の闇の彼方に消え去った。再び所在が明らかになるのはおよそ700年後の永正6年(1509年)に連歌師宗長によって執筆された「東路の津登」まで下る。この約700年間、多胡碑がどのような状態で存在したのかを知りえる資料は存在しない。しかしながら碑文の保存状態が良好な事から、碑文側を下にして倒れていた、土中に埋もれていた、覆堂の中で大切に保護されていた、などある程度良好な環境に存在したと推定される。その後約200年の間を空けた後、伊藤東涯により執筆された『盍簪録』『輶軒小録』の二書を皮切りに数多くの文化人を通し、多胡碑は全国に知れ渡っていく。

近代になると明治9年(1876年)に熊谷県改変に伴って群馬県が新設された。楫取素彦が初代県令として就任し、その足で多胡碑を訪れ保護の重要さをうったえ、結果多胡碑周辺の土地が政府買い上げとなった。その後の関東大震災、戦時中の空襲などの被害を受けることも無かったが、第二次世界大戦後の昭和20年(1945年)、文部省通達により多胡碑は付近の桑畑に一時埋められることになった。これは進駐軍による接収を免れるための隠匿であったとされる。

近年には福田赳夫福田康夫元総理、日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹など、多方面に渡る著名人の訪問を受け、昭和50年(1975年)には当時学習院高等科に在籍していた徳仁親王も訪問している。昭和29年(1954年)、国の特別史跡に指定され、平成8年(1996年)には市立の記念館が併設された。現在多胡碑はガラス張りの覆堂の中に保存されているが、覆堂のガラス越しからでも肉眼ではっきりと碑文が読め、非常に良い状態で保存されている。また毎年3月9日近辺の休日に「多胡碑まつり」が開催され、この日は覆堂の扉が開かれ一般公開される。また多胡碑記念館に事前に開扉申込みし、許可されれば扉を開けてくれる。

書道史上の価値編集

書道史の面から見ると、江戸時代に国学者高橋道斎によってその価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体である。北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された碑の総称である北碑、特にその名手であった鄭道昭の書風に通ずると言われる。代の中国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である『楷法溯源』に多胡碑から39字が手本として採用された。

周辺施設編集

 
多胡碑記念館
 
吉井いしぶみの里公園
  • 併設の多胡碑記念館は、多胡碑の研究資料の他、考古資料や古代中国の拓本などを展示している。開館時間は午前9時30分 - 午後5時(入館は午後4時30分まで)。毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日 - 1月4日)休館。
  • 多胡碑と記念館を含めた一帯は「吉井いしぶみの里公園」として整備されている。公園内には、移築復元された古墳2基(南高原1号墳、片山1号墳)や古代ハスの池、歌碑などがある。また、多胡碑の碑文が公園内の石垣にあしらわれている。
  • 多胡碑の敷地内に群馬県初代県令の楫取素彦の歌碑「深草のうちに埋れし石文の 世にめつらるゝ時は来にけり」がある。
  • 吉井運動公園が隣接している。

交通編集

  • 上信電鉄上信線吉井駅馬庭駅から徒歩25分(わかりやすい一本道ではないので吉井駅常駐のタクシー利用が望ましい)
  • よしいバス(自家用有償バス)南陽台・馬庭線多胡碑記念館前停留所から0分(便数極小)。

仁叟寺多胡碑編集

高崎市吉井町神保の仁叟寺(じんそうじ)境内にも六角形の覆屋に多胡碑が安置されている。これは時代が下ってから模刻されたものと推測される。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 「上毛三碑」とも。
  2. ^ 『続日本紀』天平神護2年(766年)条には「上野国在住の新羅人子午足ら193人に吉井連を賜う」と見える

出典編集

  1. ^ 前橋市教育委員会 高崎市教育委員会『平成26年度 前橋・高崎連携事業文化財展 東国千年の都 石を使って3万年-削る・飾る・祈る-』前橋市教育委員会、2015年。
  2. ^ a b c 多胡碑 - 高崎市、2020年8月10日閲覧。
  3. ^ 続日本紀』巻5では和銅4年3月6日「三月辛亥割上野國(中略)片岡郡(中略)別置多胡郡」とする
  4. ^ a b 若狭徹「立評をめぐる地方氏族の政治行動 : 群馬県における後期古墳の動態と上野三碑の建碑から」(PDF)『駿台史學』第165号、駿台史学会、2019年2月、75-99頁、CRID 1520009408042689536ISSN 05625955 
  5. ^ 『日本書紀』大化元年8月条「東国国司発遣の詔」「京に上らむ時には多に百姓を己に従ふること得じ。唯国造・郡領のみを従はしむること得む。(中略)若し名を求むる人有りて、元より国造・伴造・県稲置に非ずして、輙く詐り訴へて言さまく、『我が祖の時より、此の官家を領り、是の郡県を治む』とまうさむは、汝等国司、詐の随に便く朝に牒すことを得じ。審に実の状を得て後に申すべし。」
  6. ^ "多胡碑周辺に正倉院…遺構発見"(読売新聞、2016年1月29日記事)。
    "奈良期の巨大な倉庫跡 高崎・多胡碑周辺調査で発見"(東京新聞、2016年1月29日記事)。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集

座標: 北緯36度15分54.0秒 東経138度59分46.8秒 / 北緯36.265000度 東経138.996333度 / 36.265000; 138.996333