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徳仁なるひと1960年昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位:2019年令和元年〉5月1日 - [1])。称号浩宮ひろのみやお印あずさ。在位中は今上天皇と称される[2][注 2]敬称陛下[3][注 3]勲等大勲位菊花章頸飾

徳仁
2019年(令和元年)8月30日撮影
第3回野口英世アフリカ賞授賞式にて
明治記念館

在位期間
2019年5月1日 - 在位中
令和元年5月1日午前0時0分 - 在位中
即位礼 即位礼正殿の儀
2019年(令和元年)10月22日
皇居 宮殿
大嘗祭 大嘗宮の儀
2019年(令和元年)11月14日15日
於 皇居 東御苑大嘗宮
元号 令和: 2019年5月1日 -
内閣総理大臣
先代 明仁

誕生 1960年(昭和35年)
2月23日 16時15分
(59歳)
日本の旗 日本 東京都千代田区千代田
皇居宮内庁病院
徳仁なるひと
1960年(昭和35年)2月29日命名
称号 浩宮ひろのみや
あずさ
元服 1980年(昭和55年)2月23日
父親 明仁(第125代天皇、上皇
母親 美智子上皇后
皇后 雅子
(旧姓名:小和田 雅子)
1993年平成5年)6月9日 結婚
子女 敬宮愛子内親王
皇嗣 秋篠宮文仁親王[注 1]
皇居
栄典 大勲位
JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg JPN Kyokujitsu-sho Paulownia BAR.svg JPN Order of Culture BAR.svg Red Cross Order of Merit (Japan).png Red Cross Order of Merit (Japan).png
AUT Honour for Services to the Republic of Austria - 1st Class BAR.png Grand Crest Ordre de Leopold.png Orderelefant ribbon.png GRE Order Redeemer 1Class.png HUN Order of Merit of the Hungarian Rep (civil) 1class BAR.svg Cordone di gran Croce di Gran Cordone OMRI BAR.svg MY Darjah Utama Seri Mahkota Negara (Crown of the Realm) - DMN.svg Order of the Crown (Netherlands).svg St Olavs Orden storkors stripe.svg PHL Order of Sikatuna - Grand Cross BAR.png ESP Charles III Order GC.svg Order of the Seraphim - Ribbon bar.svg Order of the Crown of Tonga - ribbon bar.gif Order Zayed rib.png
学歴 学習院大学大学院人文科学研究科
博士前期課程修了
役職
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称号: 天皇
Flag of the Japanese Emperor.svg
敬称 陛下
His Majesty the Emperor
または
His Imperial Majesty (H.I.M.)
皇室
Imperial Seal of Japan.svg

天皇 徳仁
皇后 雅子






明仁(第125代天皇、上皇)と美智子上皇后)の第1皇男子(2男1女のうちの第1子)。皇后雅子(旧姓:小和田)。昭和天皇の皇孫、大正天皇の皇曾孫、明治天皇の皇玄孫。

戦後第二次世界大戦後)かつ日本国憲法及び現皇室典範下の生まれで即位し、また学位を持ち海外留学の経験がある初めての天皇でもある。皇位継承をして即位に伴い元号法に基づいて、「平成」(へいせい)から「令和」(れいわ)に改元された。

住居は、東京都港区元赤坂にある赤坂御用地内の赤坂御所(旧:東宮御所[4][注 4]

略歴編集

1960年(昭和35年)2月23日16時15分[5]、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女・3人の子女の内、第1子)として、東京都千代田区千代田皇居宮内庁病院にて誕生する。同日は2020年(令和2年)以降、天皇誕生日となる。

御称号は「浩宮」(ひろのみや)、は「徳仁」(なるひと) と、命名された。

1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父・昭和天皇の崩御により、父、皇太子明仁親王(当時)の皇位継承(第125代天皇即位)に伴い皇太子皇位継承順位第1位である皇嗣たる第1皇男子、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、政府の用いる正式表記では「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」とされた。

天皇即位以前、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで、22回、父である上皇の譲位前の天皇在位中において自身は皇太子として海外行幸の期間または病気療養の期間、父帝から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[6]

2019年(平成31年)4月30日の第125代天皇明仁の退位[7]に伴い、翌令和元年(2019年)5月1日に、上皇となった父帝・明仁より皇位を継承し日本国憲法および天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、第126代天皇に即位する[1]

皇室男子として珍しく歴史学(主に交通史、流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏、登山ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している[8][9]

生い立ち編集

   
父:上皇明仁

皇孫時代編集

1960年(昭和35年)2月23日16時15分[5]、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、東京都千代田区千代田皇居宮内庁病院にて誕生する。身長47センチメートル、体重2540グラム。

旧皇族や旧華族階級でない、いわゆる平民家庭出身の母親であった皇太子妃美智子の意向に沿い、懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿での出産をせず一般家庭と同様に病院で行うなど、1947年(昭和22年)の現皇室典範施行後、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の親王(皇孫、皇太子の長男としてほぼ確実に将来において天皇に即位することが確定している男性皇族)誕生は、広く国民に注目された。同年2月29日に命名の儀において祖父帝の昭和天皇が「浩宮 徳仁(ひろのみや なるひと)」と命名した[注 5]。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天に達する者」を典拠とする。

肫肫たる其の仁、淵淵たる其の淵、浩たる其の天。苟くも固に聡明聖知にして天に達する者ならざれば、 其れ孰か能くこれを知らん。

—『中庸』第32章

それまでの傳育官制度を事実上廃止し、両親の皇太子夫妻による育児・子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて両親夫妻が14日間の公務訪米旅行の際に、皇太子妃美智子が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて勤労する一般家庭の母親たちの育児指針としても共感を呼んだ。

1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園する。同年11月1日には着袴の儀を行う。両親である皇太子同妃は、専任の養育係を置かず、子育てを行った。ただし、東宮侍従濱尾実が、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで、専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた[10]。両親の下で、弟・礼宮文仁親王、妹・紀宮清子内親王とともに育つ徳仁親王たちの様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近寄った戦後の幸福な家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。

1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学する。この頃から稲田悦子参与の指導でフィギュアスケートを始める(大学生の時にスピードスケートに転向)。学習院高等科時代は、正規の授業のほか、「『将来の天皇』としての素養を身につけさせる」という目的の下で、東宮御所におけるご進講の形で「歴代天皇の御事跡」や古事記日本書紀といった皇室史に関わる日本神話万葉集平家物語など日本の古典文学から比較神話学文化史文化人類学時事問題などを幅広く学習した。「帝王学」の一環と考えられる[11]学習院大学では音楽部に所属しヴィオラを担当した。在学中の1980年(昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行った。

1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの多くの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学中世の交通史・流通史という人文科学社会科学に近い分野を専攻した。

1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、オックスフォード大学マートン・カレッジ英語版に留学して、テムズ川の水運史について研究[12]。1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程修了した(人文科学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には昭和天皇の病気療養と父・皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。

昭和時代の末より、徳仁親王の伴侶たる皇太子妃候補について様々な憶測が報道されるようになり、1986年(昭和61年)10月18日、来日中のスペイン王女エレナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシアの歓迎パーティーに親臨した際、外務省に勤務する女性の国家公務員であった小和田雅子と知り合う(後述→#結婚までの経緯)。

皇太子時代編集

1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇崩御を受け、父・皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。これに伴い、皇位継承順位が1位となり、徳仁親王は皇太子皇嗣たる皇子/皇男子、法定推定相続人)となった。また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。

天皇の即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を明仁から親授された。

1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子(当時:外務省北米局北米二課職員)を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。

小和田雅子との成婚までの経緯編集

1986年(昭和61年)10月18日、東宮御所で催されたスペイン国王フアン・カルロス1世の娘エレナ王女歓迎の茶会に、外務省条約局長だった小和田恆とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格して間もない小和田雅子と初対面を果たす。1987年(昭和62年)4月25日には、高円宮憲仁親王同妃久子夫妻が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った[13]

こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・江頭豊は銀行員であったが、四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから水俣病患者の保証部門として新設されたチッソに派遣されその後、社長に就任したことやメディアスクラムの被害、雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元最高裁判所判事であり当時宮内庁参事であった団藤重光の「江頭氏は再建のため日本興業銀行からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になった。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。前宮内庁長官の富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている[14]

また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい」との意向を宮内庁に伝えたとされる[15]。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた[16]、元外務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も温かくお迎えするとおっしゃって下さっている[17]」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を天皇と皇后に紹介し歓談した。

翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年1月19日、皇室会議(議長:宮澤喜一内閣総理大臣/宮澤改造内閣)において「皇太子徳仁親王と小和田雅子の婚姻」が全員一致で可決され、同日二人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。その他の有力候補には天皇の学友で元華族男爵明石元紹の長女がおり、1988年(昭和63年)秋の秋篠宮文仁親王のダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。その後最も有力といわれた妃の候補には旧皇族久邇邦昭の長女(香淳皇后の大姪)がおり、数回見合いをして電話やファックスのやり取りを重ね前年には旧皇族の久邇家も当人も了承し内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が小和田雅子への思いを捨てきれず破談となった[18]

同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHK(日本放送協会)が中継放送した「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」の平均視聴率は30.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受けた[19]。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となった。また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。

皇太子妃雅子との成婚以降編集

成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で長女の敬宮愛子内親王が誕生した。

皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。

2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる「人格否定発言」)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に妃雅子が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。

2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断十二指腸ポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京都文京区東京大学医学部附属病院で受けた。同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である[20]

2009年(平成21年)11月8日から11月20日まで来日した彭麗媛が団長を務める中国人民解放軍総政治部の歌舞団が東京と札幌で中国歌劇『木蘭詩編』を学習院大学で公演した際に皇太子は私的に会場を訪れて2階VIP席で彭麗媛と隣り合わせの席で観劇して言葉を交わしており、彭麗媛の夫の習近平天皇特例会見と同様に「中華人民共和国による皇室の政治的利用」と批判されることになった[21][22]

2013年(平成25年)3月6日、米国ニューヨーク国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」で、英語で基調講演を行った。同会合は、東日本大震災東北地方太平洋沖地震)など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である[23]

2016年(平成28年)1月28日、第125代天皇明仁皇后美智子(当時)とともに第二次世界大戦戦没者慰霊を目的としたフィリピン訪問のために不在であったことから、第3次安倍第1次改造内閣経済財政担当大臣甘利明から石原伸晃へ交代したことに伴う閣僚の認証官認証式を国事行為臨時代行の形で執り行った[24]

2017年(平成29年)6月16日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法公布、同年12月1日開催の皇室会議(議長:安倍晋三内閣総理大臣)及び12月8日開催の第4次安倍内閣の定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、自身が2019年5月1日に、第126代天皇に即位する日程が確定された。

天皇即位編集

 
天皇徳仁と皇后雅子(即位前、皇太子同妃時代の2018年撮影)
 
2019年(令和元年)5月1日の即位日に、御料車で赤坂御所と皇居間を移動する天皇と皇后
 
新天皇の即位を祝う一般参賀、皇居・宮殿長和殿(2019年5月4日)
 
訪日中の米国大統領ドナルド・トランプと同夫人メラニアを招いての宮中晩餐会(2019年5月27日)
 
2019年(令和元年)10月22日撮影
黄櫨染御袍立纓御冠を着用した「御束帯」姿で即位礼正殿の儀に臨む。
 
即位礼正殿の儀にて高御座に立つ徳仁(2019年10月22日 撮影)

2019年(平成31年)4月30日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に従って第125代天皇明仁が退位し、翌(令和元年)5月1日、皇太子徳仁親王が直ちに第126代天皇に即位した。先帝・明仁は同日、上皇となった[25]

第120代仁孝天皇以来およそ202年ぶり、かつ、明治以降の憲政史上初めて、先帝からの譲位に伴い即位した天皇となった。また、59歳(数え60歳)での即位は、第49代光仁天皇の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目に高齢での即位である。

天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律により、2019年5月1日は「天皇の即位の日」、同年10月22日は「即位礼正殿の儀が行われる日」とされ、共に同年限りで祝日扱いの休日となる[26]

なお皇太子徳仁親王の天皇即位に伴い、「皇太子」は、1926年(大正15年/昭和元年)12月25日の大正天皇の崩御による昭和天皇の即位から1933年(昭和8年)12月23日の父・継宮明仁親王の誕生するまで以来86年ぶりで、現行の皇室典範の下では初めて「空位」となった[注 6]。一方で、皇位継承順位第1位の皇嗣となった、弟・秋篠宮文仁親王には、2020年(令和2年)4月19日に(立太子の礼に代わって)立皇嗣の礼が行われる予定。

即位の日、天皇は赤坂御所から皇居宮殿に向かい、即位の礼最初の儀式である「剣璽等承継の儀」に臨んだのち、皇后雅子をはじめ、皇嗣妃となった文仁親王妃紀子ら、成年の女性皇族も加わって行われた「即位後朝見の儀」において、天皇として初めて「おことば」を述べた。5月4日には新天皇の即位を祝う一般参賀が、皇居で行われた。

5月9日、国会衆議院は、即位に祝意を示す「賀詞」を全会一致で議決した[27]。同日、離任する駐日中華人民共和国大使の程永華と即位後初の外国賓客の引見を行い[28]、国際親善の公務を開始した[29]

5月10日、財務省は、天皇陛下御即位記念貨幣(一万円金貨幣および五百円バイカラー・クラッド貨幣)を発行することを発表した[30]

2019年(令和元年)10月22日、皇居宮殿正殿・松の間にて即位の礼の中心儀式である即位礼正殿の儀が執り行われた[31]

同年11月9日皇居前広場にて開催された「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」に、皇后雅子とともに二重橋に立ち出席した。

同年11月10日、皇居から赤坂御用地までオープンカーによるパレードを行う「祝賀御列の儀」(しゅくがおんれつのぎ)が執り行われた[注 7]

同年11月14日及び15日に、天皇一代が在位中に一度のみ執り行う宮中祭祀である大嘗祭(だいじょうさい)の中心儀式である「大嘗宮の儀」(だいじょうきゅうのぎ)を実施。

年譜編集

子女編集

 
今上天皇第1皇女子
愛子内親王

皇后雅子との間に1子(1女)がいる。上皇明仁(第125代天皇)の皇孫にあたる。

生年 / 年齢 御称号 続柄
愛子あいこ内親王 平成13年(2001年)12月1日(18歳) 敬宮としのみや 第1皇女子

系譜編集

今上天皇
(第126代天皇)
父:
第125代:上皇明仁
祖父:
第124代:昭和天皇
曾祖父:
第123代:大正天皇
曾祖母:
貞明皇后
祖母:
香淳皇后
曾祖父:
邦彦王久邇宮
曾祖母:
俔子
母:
美智子 (上皇后)
祖父:
正田英三郎
曾祖父:
正田貞一郎
曾祖母:
正田きぬ
祖母:
正田富美子
曾祖父:
副島綱雄
曾祖母:
副島アヤ

系図編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
122 明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
123 大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和天皇
 
秩父宮雍仁親王
 
高松宮宣仁親王
 
三笠宮崇仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 上皇
 
常陸宮正仁親王
 
寛仁親王
 
桂宮宜仁親王
 
高円宮憲仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
126 今上天皇
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第126代天皇の父系直系祖先編集

  • 代数は皇統譜による。
  • 北朝は歴代に算入していない。
1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝靈天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇
11 垂仁天皇 12 景行天皇 日本武尊 14 仲哀天皇 15 応神天皇 稚野毛二派皇子 意富富杼王 乎非王 彦主人王 26 継体天皇
29 欽明天皇 30 敏達天皇 押坂彦人
大兄皇子
34 舒明天皇 38 天智天皇 志貴皇子 49 光仁天皇 50 桓武天皇 52 嵯峨天皇 54 仁明天皇
58 光孝天皇 59 宇多天皇 60 醍醐天皇 62 村上天皇 64 円融天皇 66 一条天皇 69 後朱雀天皇 71 後三条天皇 72 白河天皇 73 堀河天皇
74 鳥羽天皇 77 後白河天皇 80 高倉天皇 82 後鳥羽天皇 83 土御門天皇 88 後嵯峨天皇 89 後深草天皇 92 伏見天皇 93 後伏見天皇 北1 光厳天皇
北3 崇光天皇 栄仁親王(伏見宮) 貞成親王(伏見宮) 102 後花園天皇 103 後土御門天皇 104 後柏原天皇 105 後奈良天皇 106 正親町天皇 誠仁親王 107 後陽成天皇
108 後水尾天皇 112 霊元天皇 113 東山天皇 直仁親王(閑院宮) 典仁親王(慶光院) 119 光格天皇 120 仁孝天皇 121 孝明天皇 122 明治天皇 123 大正天皇
124 昭和天皇 125 上皇明仁 126 今上天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
歴代天皇
 
歴代皇后
 
親王
 
内親王女王
 
臣籍降下
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正天皇(明治天皇の子)
 
貞明皇后(大正天皇の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和天皇(大正天皇の子)
 
香淳皇后(昭和天皇の妻)
 
秩父宮雍仁親王(大正天皇の子)
 
雍仁親王妃
勢津子
(秩父宮雍仁親王の妻)
 
高松宮宣仁親王(大正天皇の子)
 
宣仁親王妃
喜久子
(高松宮宣仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三笠宮崇仁親王(大正天皇の子)
 
崇仁親王妃
百合子
(三笠宮崇仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東久邇成子
(照宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
久宮祐子内親王(昭和天皇の子)
 
鷹司和子
(孝宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
池田厚子
(順宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
上皇
明仁
(昭和天皇の子)
 
上皇后
美智子
(上皇明仁の妻)
 
常陸宮正仁親王(昭和天皇の子)
 
正仁親王妃
華子
(常陸宮正仁親王の妻)
 
島津貴子
(清宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
近衞甯子(三笠宮崇仁親王の子、臣籍降下)
 
寬仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
寛仁親王妃
信子
(寬仁親王の妻)
 
桂宮
宜仁親王
(三笠宮崇仁親王の子)
 
千容子(三笠宮崇仁親王の子、臣籍降下)
 
高円宮憲仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
憲仁親王妃
久子
(高円宮憲仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天皇
徳仁
(明仁の子)
 
皇后
雅子
 
皇嗣秋篠宮文仁親王(明仁の子)
 
皇嗣妃文仁親王妃紀子(秋篠宮文仁親王の妻)
 
黒田清子
(紀宮)
(明仁の子、臣籍降下)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彬子女王(寬仁親王の子)
 
瑶子女王(寬仁親王の子)
 
 
 
 
 
承子女王(高円宮憲仁親王の子)
 
千家典子(高円宮憲仁親王の子、臣籍降下)
 
守谷絢子(高円宮憲仁親王の子、臣籍降下)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
愛子内親王(徳仁の子)
 
 
 
眞子内親王(秋篠宮文仁親王の子)
 
佳子内親王(秋篠宮文仁親王の子)
 
悠仁親王(秋篠宮文仁親王の子)
 
 
 
 
 


家系図形式編集

国事行為の臨時代行歴編集

2016年(平成28年)1月現在、昭和天皇在位中に皇孫として1回、天皇明仁(当時)の即位後に皇太子として21回、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めている。

委任を行った天皇 委任年月日 委任の理由 委任の期間 委任された事項 解除(終了)年月日 解除(終了)の理由
昭和天皇 1987年(昭和62年)10月03日 病気療養中
皇太子明仁親王外国旅行
当分の間 全般 1987年(昭和62年)10月10日 皇太子明仁親王帰国
明仁 1991年(平成03年)09月26日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1991年(平成03年)10月06日 帰国
1992年(平成04年)10月23日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1992年(平成04年)10月28日 帰国
1993年(平成05年)08月06日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1993年(平成05年)08月09日 帰国
1993年(平成05年)09月03日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1993年(平成05年)09月19日 帰国
1994年(平成06年)06月10日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1994年(平成06年)06月26日 帰国
1994年(平成06年)10月02日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1994年(平成06年)10月14日 帰国
1997年(平成09年)05月30日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1997年(平成09年)06月13日 帰国
1998年(平成10年)05月23日 外国旅行 外国旅行の間 全般 1998年(平成10年)06月05日 帰国
2000年(平成12年)05月20日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2000年(平成12年)06月01日 帰国
2002年(平成14年)07月06日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2002年(平成14年)07月20日 帰国
2003年(平成15年)01月16日 病気療養 当分の間 全般 2003年(平成15年)02月18日 病気快復の状況に鑑み
2005年(平成17年)05月07日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2005年(平成17年)05月14日 帰国
2005年(平成17年)06月27日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2005年(平成17年)06月28日 帰国
2006年(平成18年)06月08日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2006年(平成18年)06月15日 帰国
2007年(平成19年)05月21日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2007年(平成19年)05月30日 帰国
2009年(平成21年)07月03日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2009年(平成21年)07月17日 帰国
2011年(平成23年)11月07日 病気療養 当分の間 全般 2011年(平成23年)12月06日 病気快復の状況に鑑み
2012年(平成24年)02月17日 病気療養 当分の間 全般 2012年(平成24年)04月10日 病気快復の状況に鑑み
2012年(平成24年)05月16日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2012年(平成24年)05月20日 帰国
2013年(平成25年)11月30日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2013年(平成25年)12月06日 帰国
2016年(平成28年)01月26日 外国旅行 外国旅行の間 全般 2016年(平成28年)01月30日 帰国
  • 「委任年月日」は官報に掲載された代行開始期日。
  • 明仁の訪問国は上皇明仁#外遊歴を参照

発言編集

  • 「美しいものを見たときに、それを美しいと評価できる人」
  • 「これからはある程度の外国語が話せたほうが良い」
  • ニューヨークティファニーに行ってあれやこれや買うような方では困る」
    • 以上、1985年(昭和60年)、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「どのような方を妃として望むか」という質問に対して。
  • 「人の心情、悩み、苦しみを推し量って、思いやれる人が良い」
    • 以上、1986年(昭和61年)、誕生日記者会見でお妃の理想像を聞かれて。
  • 「すぐ手の届くところに中世が存在する」
    • 1983年(昭和58年)留学した、オックスフォード大マートンコレッジ 1264年創について。
  • 「自分の意見をはっきり述べ、服装も(日本の女性と比べて)気取らず地味なのに感心しました」
    • 留学して半年後、昭和58年12月の記者懇談で、英国の女子学生について。
  • 「寮の部屋ごと、記念に持って帰りたい心境です」
    • 1985年(昭和60年)10月オックスフォード大での留学を終えての感想[33]
  • 「心から祝福いたします。川嶋紀子さんは以前からよく遊びに来ており、妹のような気持ちで接しておりました(中略)弟と紀子さんとは非常によく合うと思います」
  • 「川嶋家に色々問い合わせが来て、二人の間が不安定になっているのはよくないということもありました。二人の結婚は私も強く勧めたところです。私についてはマイペースでやっていきたいと考えております」
    • 以上、1989年(平成元年)9月21日、記者会見にて、文仁親王の婚約についての質問に対して[34]
  • 「立太子宣明の儀が行われ、誠に身の引きしまる思いであります。皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くしてその務めを果たしてまいります」
    • 1991年(平成3年)2月23日、立太子の礼にて[35]
  • 「皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」
    • 1992年(平成4年)11月後半に交際中の小和田雅子(当時)にかけた言葉、婚約内定の記者会見にて雅子妃が披露した[36]
  • 外交官としての雅子のキャリア人格を否定するような動きがあったことも事実です」[37]
    • 2004年(平成16年)、訪欧前の記者会見で。いわゆる人格否定発言
  • 皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」[38]
    • 2006年(平成18年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、皇室典範改正問題についての質問に対して。
  • 「昨年9月の悠仁親王の誕生を心から喜ばしく思います。御所で、また、秋篠宮邸で、そしてまた、この赤坂御用地を弟夫妻が散歩で連れている折などに会うことがありますけれども、健やかに成長しているようで嬉しく思っております」[39]
    • 2007年(平成19年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、悠仁親王誕生についての質問に対して。
  • 「両陛下のこれまでの歩みについては、常に深くご尊敬申し上げており、両陛下のご活動の一つ一つから多くを学んでまいりました」
    • 2009年(平成21年)2月20日、誕生日に際する記者会見にて、第125代天皇明仁とその皇后美智子のこれまでの歩みについての質問に対して[40]
  • 花園天皇の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼儀も含めての意味で使われた言葉です。私も五十歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」
    • 2010年(平成22年)2月、誕生日に際する記者会見にて「誡太子書」に言及して[41]
  • 「若い世代が国の内外で自信を持って活躍し、女性・高齢者・障害者を含め全ての人々が、社会に積極的に参画できるような活力のある社会を構築するために、(中略)私自身、今年も、国の内外で若者やボランティアの方々など多くの方にお会いしたいと思っています」
    • 2013年(平成25年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、前年6月に20年ぶりに開催された「国連持続可能な開発会議」に言及して[42]
  • 「過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。同時に、これまで行われてきている公務を踏まえつつ、将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて、公務に対する社会の要請に応えていくことが、重要であると考えております。私としても、常に学ぶ姿勢を忘れずに、他人への思いやりの心を大切にしながら、世の中のためにできることを心掛けてやっていきたいと思っております」
    • 同記者会見にて、将来天皇となる立場から、公務をどのようなものと考えているのかという質問に対して。
  • 「私、それから秋篠宮が折に触れて、陛下の所で、陛下のご意見を伺ったり、あるいはいろいろな意見交換をするということは、非常に私自身も大切なことだと思いますし、私自身も大変有意義な一時を過ごさせていただいております。陛下と折に触れてご質問の象徴天皇の在り方について、具体的にどういうことを話しているかは申し上げられませんけれども、陛下ご自身がいろいろ思われていること、あるいは体験されてきたことなどをお話しくださるので、私としても本当にいろいろと参考にさせていただいておりますし、大変有り難いことだと思っております」
    • 同記者会見にて、御所での第125代天皇明仁と皇太子徳仁親王と秋篠宮文仁親王との懇談についての質問に対して
  • 平成28年8月8日の天皇陛下のおことば以来、これから私が担うこととなる重責について、改めて思いを巡らせる機会も増えてきましたが、その度に、両陛下のこれまでの御苦労と御努力に感謝と尊敬の念を覚えます。また、両陛下から、様々な機会に、多くのお話を伺わせていただいていることも、今後公務に取り組んでいく際の大きな道標となるものであり、大変有り難いことと思っております。
  • これからのことを思うと、とても厳粛な気持ちになりますが、引き続き自己研鑽に努めながら、過去の天皇のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います。また、以前も述べたとおり、私が長年携わってきました「水」問題についても、そのことを切り口に、豊かさや防災など、国民生活の安定と発展について考えを巡らせることもできると思います。日本の変化に富む豊かな国土は、同時に、自然災害、例えば台風豪雨津波などの影響を受けやすいことから、「」問題への取組で得られた知見も、これからの務めの中で、国民生活の安定と発展を願い、また、防災・減災の重要性を考えていく上で、大切にいかしていきたいと思います。
  • 皇室の将来像についての御質問については、男性皇族の割合が減り、高齢化が進んでいること、また、女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは、将来の皇室の在り方とも関係する問題です。ただ、制度に関わる事項については、私からこの場で言及することは控えたいと思います。
  • 皇室の在り方に関しては、国民と心を共にし、苦楽を共にする皇室、ということが基本であり、これは時代を超えて受け継がれてきているものだと思います。過去の天皇が歩んでこられた道と、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致し、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けることが大切であるとの考えは、今も変わっておりません。
  • 同時に、その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。私も、過去から様々なことを学び、古くからの伝統をしっかりと引き継いでいくとともに、それぞれの時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたいと思います。」
    • 2019年(平成31年)2月21日、皇太子として迎える最後の誕生日(59歳)に際する記者会見にて(場所:東宮御所)、「(自身が)新天皇として即位するまで残り2か月余りとなり、皇太子としての歩みを振り返るとともに、即位を控えた現在の心境や、新たな時代に臨む決意及び皇室全体で皇族の減少や高齢化が進んでいることを踏まえつつ、どのような皇室の将来像を描こうとしているのか」という質問に対して[43]
  • 日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。」
    • 2019年(令和元年)5月1日、「即位後朝見の儀の天皇陛下のおことば」[44]
  • 「さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに『即位礼正殿の儀』を行い、即位を内外に宣明いたします。上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。」
    • 2019年(令和元年)10月22日、「即位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば」[45]

人物編集

逸話編集

  • 幼少時(2歳頃)の徳仁親王は、身体は活発だが器用な方ではなかった。しかし、何事にも非常に粘り強く頑張る性格で服のボタン留めなども丁寧にやりとげていた。幼稚園時代、自転車をマスターする時にも、倒れて涙を見せても自分の力で立ち上がり自転車を起こしていた。しかし、4歳の時、なぜ自分には苗字がないのかと寂しそうに尋ねた。7歳の時には自分の立場を自覚し、一人で歓迎の人達に向かって挨拶をした。「男の子は泣くものではありません」としつけられていたため、弟の秋篠宮文仁親王が生まれベビーベッドで泣いていたとき「アーヤは赤ちゃんだから泣いてもいいんだよね」と言ってかばった[46]
  • 趣味は、スポーツ音楽を中心に幅広く、特に日本各地の登山ヴィオラ演奏はしばしば国民の目をひく。登山に関しては、登山専門誌『岳人』や『山と渓谷』などに、幾度かエッセイも寄稿している。このエッセイでは、父と山に登ったときの思い出なども書かれ、文中では一般の敬語の原則に従い、上皇を「父」、上皇后を「母」と呼んだ。登山のほかにはテニスジョギングを好む。普段は赤坂御用地内を走っているが、皇居を周回するジョギングコースで市民ランナーとともに走ったことが過去に3回ある。2007年(平成19年)は約10km(2周)を51分前後で走破し、その健脚ぶりを披露している。
  • ヴィオラは、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会のオーケストラなどで演奏することもある。元来ヴァイオリンを弾いていたが、学習院大学入学を機にヴィオラに転じた。
  • 皇太子になる前には、歌手の柏原芳恵のコンサートに赴いたこともある。1986年(昭和61年)10月19日、新宿東京厚生年金会館でのコンサートに行き話題となる。出迎えた柏原がレコードと写真集をプレゼントした。そのお礼に彼女にオレンジ色のバラを贈っている。(父皇太子明仁親王邸である)東宮御所に咲く(エリザベス女王が皇太子妃美智子に送ったバラ)「プリンセス・ミチコ」であった。カラオケで柏原の曲「ハロー・グッバイ」を歌うこともあった。
  • 小学生の頃は読売ジャイアンツのファンで、そのユニフォームを着て野球に興じる姿を映した映像も残っている。末次利光を贔屓にしており、観戦した1971年の日本シリーズ第4戦で末次が満塁本塁打を放った際には大いに喜んだ[47]。また、長嶋茂雄のファンでもあった[48]。1988年(昭和63年)の夏の甲子園第70回全国高等学校野球選手権大会では開会式後の始球式を務めた[注 8]この大会については良い思い出として記憶していると語っていたことが雑誌記事に掲載され、21年後の2009年(平成21年)夏の甲子園の第91回全国高等学校野球選手権大会では開会式に親覧し、お言葉を読み上げた。
  • 阪神・淡路大震災に際しては被災者を見舞い、「春になればいいことがありますよ」と言葉をかけたと伝わる。地震の発生メカニズムについても興味を示し、地震研究所を訪問したと伝わる。この直前にはクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンを訪問中であり、外国訪問を継続する予定であったが、訪問先のヨルダンフセイン国王の勧めで急遽予定を切り上げ、帰国した。ハーシミーヤ宮殿で会見し「訪問の約束は果たさなければと思っていましたが、はざまで難しかった」と語っている。その後、2010年(平成22年)までに、阪神・淡路大震災被災地訪問を12回行い[49]、15周年の追悼式典には療養中の妃雅子を伴って夫妻で臨席した[50]

研究者編集

  • 歴史学(交通史、流通史)を専門としたきっかけは、「幼少時、母親の皇太子妃美智子(当時)と共に御用地を散策中に石碑を見つけたことだ」という。のちに「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる「道」について大変興味があった。ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえ赤坂御用地の中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう。」と回想している[51]
  • 第5回世界水フォーラムトルコでの開会式では、トルコ語で最後の呼びかけを行い会場は割れるような拍手に沸いた。一方、基調講演では、弥生時代の「唐子・鍵遺跡」の環濠集落や、徳川家康が治水上の安全を根本的に向上させるために実施した「利根川の東遷」の事例を引いて水問題を歴史の視点から語った。「殿下は水と人との関係を、開催国の歴史と日本の伝統を踏まえて具体的な事例を示して講演されるので、開催国と日本の間に「伝統の継承」という美しい橋を架ける」と尾田栄章は評している[52]

外遊編集

国内公務編集

  • 1986年(昭和61年)石川県金沢市における全国高校相撲選手権大会で、原稿なしで堂々たるスピーチをしたことで大きな拍手が沸き起こった。「お言葉」を読み上げる以上の熱意を観衆が感じたためと思われる[56]
  • 沖縄県からの子ども達による記者「豆記者」の受け入れを、平成時代になってからは皇太子徳仁親王と同妃雅子(いずれも当時)が引き継いでおり、毎年8月に東宮御所で会見し、一人一人に声をかけ会話を重ねたという[57]

皇族編集

  • 高円宮家とは家族ぐるみで親しく交際していた。高円宮憲仁親王は年齢が近く兄のような存在で、結婚後も二人の心の支えとなった。夫妻は結婚当日、赤坂御用地で家族揃ってパレードを終えた二人を迎えた。憲仁親王は皇太子夫妻の待望の第1子であった愛子内親王の誕生をことのほか喜び、出産時の見舞いに先に妃たちだけが行くことになったのを非常に悔しがったという。皇太子夫妻が憲仁親王と最後に会えたのは、1週間前に愛子内親王を連れて高円宮邸を訪れたときだった[58]
  • 2006年(平成18年)9月6日、秋篠宮妃紀子愛育病院悠仁親王を出産した際は、秋篠宮からの電話連絡を受け、「ご無事のご出産おめでとう。妃殿下の手術が無事に終わることを祈っています。両殿下も親王殿下もお身体をお大切に」と祝意を述べた。北海道で公務中だった天皇・皇后の還幸(9日)と見舞い(10日)の後、自らは11日に雅子妃・愛子内親王を伴って見舞いに訪れた。
  • 徳仁親王は2007年(平成19年)の誕生日会見で、「(愛子内親王が、自身の祖父母にあたる)両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と表明したが[59]、翌2008年(平成20年)2月13日の定例会見で羽毛田信吾宮内庁長官に「天皇皇后両陛下への参内(訪問)の回数が増えていないこと」を指摘された[60]。その直後の誕生日会見では羽毛田長官の発言に対し、「参内を心がけたい」として、「それ以上の内容は“プライベートな事柄”」として発言を控えた[61]

姻族編集

2000年(平成12年)11月19日、皇太子妃雅子の実妹・小和田礼子の結婚披露宴(東京都文京区)に親覧した。2004年(平成16年)11月19日、祖母に当たる江頭寿々子が病床にあったときは、愛子内親王を伴って目黒区円融寺に見舞いに訪れており、2006年(平成18年)に雅子の祖父・江頭豊が死去した際には雅子に同行、東京都新宿区千日谷会堂の葬儀に親覧している。

栄典編集

勲章編集

日本編集

外国編集

名誉博士編集

名誉職編集

著作・論文・講演集など編集

特記のないものは「徳仁親王」名義。

  • 兵庫北関入船納帳の一考察-問丸を中心にして」、『交通史研究』第8号、交通史学会、1982年
  • H.I.H PRINCE NARUHITO THE THAMES AS HIGHWAY (交通路としてのテムズ川)、Oxford University Press、1989年
  • 「室町前中期の兵庫関の二、三の問題」、安田元久先生退任記念論集刊行委員会編『中世日本の諸相・下巻』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4642026290
  • 18世紀テムズ川における輸送船舶及び輸送業者について」、『地学雜誌』 第100巻 第1号 p.3-18 、公益社団法人東京地学学会、1991年, doi:10.5026/jgeography.100.1_3
  • テムズとともに -英国の二年間-』学習院総務部広報課〈学習院教養新書〉1993年
  • 「皇太子さまが綴られた野の花,山の花への思い 山の花随想」、『岳人』1997年6月号(通号600)
  • 「西園寺家所蔵「河瀬清貞山城国美豆牧代官職請文」について」、『学習院大学史料館紀要』第10号、学習院大学史料館、1999年
  • (木村真美子共著)「史料紹介 西園寺家所蔵『公衡公記』」「『西園寺家車図』諸本の研究--附、宮内庁書陵部所蔵九条本『西園寺家車図』翻刻」、『学習院大学史料館紀要』第11号、学習院大学史料館、2001年3月
  • 「関銭-兵庫関 兵庫北関代官職請文」、『東大寺文書を読む』堀池春峰監修・綾村宏:編、思文閣出版、2001年5月、ISBN 4-7842-1074-1
  • (木村真美子共著)「忘れられた車図--陽明文庫所蔵『納言大将車絵様』および『車絵』について」、『学習院大学史料館紀要』第12号、学習院大学史料館、2003年, hdl:10959/4092
  • (木村真美子共著)「『九条家車図』の成立をめぐって : 附、学習院大学史料館所蔵飛鳥井本『九条家車図』解題および翻刻」、『学習院大学史料館紀要』第14号、学習院大学史料館、2007年, hdl:10959/4093
  • (木村真美子共著)「東山御文庫所蔵「立倚子政記」」、『学習院大学史料館紀要』第15号、学習院大学史料館、2009年, hdl:10959/4094
  • 「史料館講座講演録 目白キャンパスの思い出」、『学習院大学史料館紀要』第16号、学習院大学史料館、2010年
  • 「水災害とその歴史」、『東日本大震災復興を期して-知の交響(ハーモニー)』、学習院女子大学編、東京書籍、2012年、ISBN 978-4-487-80729-1
  • 江戸と水」『地学雑誌』 2014年 123巻 4号 p.389-400、- 2009年日本アジア協会総会で行なった講演の日本語訳。
  • 『水運史から世界の水へ』NHK出版、2019年、ISBN 978-4-14-081772-8

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 皇嗣(こうし)とは、皇位継承順位第1位に該当する男性皇族。皇位継承権を有する他の男性皇族は、第2位:悠仁親王、第3位:常陸宮正仁親王の計3名(2019年5月1日現在)。
  2. ^ 「今上天皇(きんじょうてんのう)」は、過去歴代の天皇と区別するための、在位中の天皇に対する呼称。
  3. ^ マスメディアの皇室関連報道や政府系機関などでは主に、地位・称号である「天皇」に敬称「陛下」を付し、「天皇陛下」(てんのうへいか)の呼称が用いられる。松本敦 (2014年). “朝日新聞における皇族の呼称および待遇表現の変遷”. 学習院大学大学院日本語日本文学 第10号. 学習院大学大学院人文科学研究科日本語日本文学専攻. 2017年11月10日閲覧。[リンク切れ]。大手新聞三紙においても「天皇陛下」を使用している。
  4. ^ 妻の皇后雅子と第1皇女子である愛子内親王の一家3人で同居している。
  5. ^ 「浩宮」は称号であり、名は「徳仁」のみ。
  6. ^ 皇室典範第1条:「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」及び同第8条:「皇嗣たる皇子を皇太子という。(後略)」と規定されており、第126代天皇・今上天皇の第1皇女子である敬宮愛子内親王は男系女子の皇族であり、皇位継承権を有さないため。
  7. ^ なお当初は、同年10月22日の即位礼正殿の儀を終えた同日に実施する日程であったが、令和元年台風第19号の発生とその被災からの復旧支援に政府が注力して取組をするために延期された。
  8. ^ 打者は第一試合に出場した茨城県代表・常総学院高等学校(対戦相手は長崎県代表・長崎県立小浜高等学校)の1番打者であった仁志敏久(元横浜ベイスターズ)である。

出典編集

  1. ^ a b 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第2号「皇位継承に関する件」第4次安倍第1次改造内閣
  2. ^ 『大辞林』第三版 「今上天皇」
  3. ^ 皇室典範第二十三条第一項「天皇、皇后太皇太后及び皇太后の敬称は、陛下とする。」
  4. ^ 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第3号「天皇皇后両陛下の御在所が定められた件」第4次安倍第1次改造内閣
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  7. ^ 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第1号「天皇陛下御退位等に関する件」第4次安倍第1次改造内閣
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  9. ^ MSN産経 2009年5月10日皇太子さま、ビオラで「第九」をご演奏
  10. ^ 浜尾実『殿下とともに』角川出版 1993年
  11. ^ 河原敏明『美智子妃』 1991年 講談社文庫、P.160。
  12. ^ 1993年(平成5年)に、留学記『テムズとともに 英国の二年間』(学習院教養新書)を出版している。
  13. ^ サンデー毎日 1993年1月24日号
  14. ^ 毎日新聞 1993年6月10日
  15. ^ 毎日新聞 1993年1月18日
  16. ^ 読売新聞 1993年1月7日夕刊
  17. ^ 朝日新聞 1993年1月20日
  18. ^ FLASH』1993年1月26日
  19. ^ MSN産経【皇室ウイークリー特別編】お写真で振り返る皇太子ご夫妻の15年
  20. ^ 皇太子さま、国連諮問委の名誉総裁に=「水と衛生」、皇族で初、時事通信、2007年11月1日[リンク切れ]
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関連項目編集

外部リンク編集