孫ワン
中国三国時代の呉の皇族
孫 𩅦(そん わん、? - 甘露元年(265年))は、中国三国時代の人物。呉の第3代皇帝孫休の皇太子だが、孫休没後の帝位にはいとこの孫皓が即き、後に殺害された[1]。本貫は揚州呉郡富春県[2]。
命名について
編集父の孫休は息子たちの避諱を徹底し、またそれを容易にするため、独自の漢字を作成して名や字とした。その命名は以下の通り。
- 長男 - 名の𩅦は「わん」と読み、「雨」の下に「單」と書く。字の𦯶は「きつ」と読み、「艹」の下に「囧」と書く。
- 次男 - 名の𩃙は「こう」と読み、「雷」の下に「大」と書く。字の𧟨は「けん」と読み、「襾」の下に「升」と書く。
- 三男 - 名の壾は「もう」と読み、「壴」の右に「巨」と書く。字の昷は「きょ」と読み、「日」の下に「皿」と書く。
- 四男 - 名の𠅨は「ほう」と読み、「亠」の左下に「先」、右下に「夊」と書く。字の㷏は「よう」と読み、「禾午」の下に「火」と書く。
生涯
編集永安5年8月19日(262年9月19日)、皇太子に立てられる。
永安7年(264年)7月、孫休は病が重くなり、口が利けなくなると丞相の濮陽興を呼び寄せ、孫ワンを濮陽興に拝礼させた。そして濮陽興の肘を取り、孫ワンを指さして後事を託した。しかし孫休の没後、濮陽興・張布・万彧らは孫晧を帝位に即けた[1]。
改元後の元興元年(264年)10月、孫ワンは豫章王に、また弟の孫コウは汝南王、孫モウは梁王、孫ホウは陳王に立てられる[1]。
甘露元年(265年)7月、孫ワンら兄弟4人は呉の小城に幽閉される。その後まもなく、年長の孫ワンと孫コウは殺害された[1]。
家系図
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出典
編集- 陳寿撰、裴松之注『三国志』巻48 呉書 孫休伝(中国語版ウィキソース)