小川 國松(おがわ くにまつ、1908年7月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5]。新字体表記小川 国松(おがわ くにまつ)、旧芸名澤村 國丸(さわむら くにまる、新字体表記沢村 国丸)、菊池 一郎(きくち いちろう)ほか変遷がある[1][2]。映画・新派での子役出身で、松竹蒲田撮影所の少年スターから「純情型二枚目俳優」となる[1][2]

おがわ くにまつ
小川 國松
小川 國松
少年書記』(1923年)出演時、満15歳。
本名
別名義 澤村 國丸 (さわむら くにまる)
菊池 一郎 (きくち いちろう)
草香 伸 (くさか しん)
生年月日 (1908-07-01) 1908年7月1日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1916年 - 1956年
配偶者 五十鈴桂子 (離婚)
著名な家族 小川英麿 (実弟)
主な作品
少年書記
夜鴉
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人物・来歴 編集

東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる[1][2][5]。父は同地で絹糸商を営んでいた[1]

旧制小学校在籍時、満8歳であった1916年(大正5年)11月12日に公開された天然色活動写真(天活)製作・配給、吉野二郎監督による『水戸三郎丸』に、「澤村 國丸」の名で五代目澤村四郎五郎らとともに出演、主演した記録がある[6]河合武雄と並び「新派三頭目」と呼ばれた喜多村緑郎伊井蓉峰らの一派に子役として加わって、1918年(大正7年)、東京新富町新富座新派の初舞台を踏んでいる[1]。1920年(大正9年)、天活の後身である国際活映(国活)に子役として入社する[1]。1921年(大正10年)、活動写真資料研究会製作、井上麗三山根幹人共同監督による『力の勝利』に出演、同作は同年11月14日に公開された[3]。同作が公開されたころにはすでに松竹蒲田撮影所に入社しており、野村芳亭監督の『夕刊売』に出演、同作は同年5月8日にすでに公開されていた[3]。同社では、島津保次郎作品に多く出演し、「名子役」と評され、『クオーレ』に想を得た『少年書記』(1923年)では、久保田久雄と組んで主演、ともに少年スターとなった[1][2][3]。同年9月1日の関東大震災により、同撮影所の機能は京都の松竹下加茂撮影所に移転、小川も異動した[3]。1926年(大正15年)初頭には蒲田に戻り、1927年(昭和2年)1月14日に公開された小津安二郎の監督デビュー作『懺悔の刃』に出演している[3]

1928年(昭和3年)、松竹キネマを退社して東亜キネマに移籍、東亜キネマ京都撮影所(所長小笹正人)に所属した[1][3]。同社入社第1回主演作品は、同年9月9日に公開された竹内俊一監督の『夜鴉』で、当時、「特筆すべき優秀映画」と称賛された[1][3]。1930年(昭和5年)、松竹下加茂撮影所に復帰して「菊池 一郎」の名で数本に出演するが、同年、帝国キネマ演芸に移籍し、「小川 國松」に戻し、翌1931年(昭和6年)には、さらに東亜キネマ京都撮影所に復帰している[1][3]。東亜キネマは同年9月、製作を新会社東活映画社(東活)に移管したが、そのとき小川も新会社に移っている[1][3]。1932年(昭和7年)5月15日に公開された三星吐詩夫監督の『涙の曙』で共演した女優五十鈴桂子(1913年 - 没年不詳)と結婚し、話題となる(のち離婚)[2]。東活は同年10月に解散しており、小川は、1933年(昭和8年)には東京に移り、大都映画に入社している[1][3]。大都映画でも多く主演したが、1934年(昭和4年)には大都を退社、東洋映画に移籍した[1]

1935年(昭和10年)以降は、大都映画にいた根岸東一郎赤沢キネマで監督した『母の心』、かつて帝国キネマ演芸の巨匠であった中川紫朗合同映画で監督した『靖国神社の女神』に出演したり、同年12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博トーキーのための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに参加して「草香 伸」(「草香 伸太郎」とも[2])の名で出演したりしていた[2][7]

第二次世界大戦後も、1956年(昭和31年)6月8日に公開された五所平之助監督の『或る夜ふたたび』に出演していたが、以降の記録が見当たらない[1][3][4][5]。その10年後、1966年(昭和41年)12月31日に放映されたワイドショー番組『小川宏ショー』(フジテレビ系列)の人気コーナー「初恋談義」大晦日特集において、かつて松竹下加茂撮影所にて1924年(大正13年)12月31日公開の映画『村の牧場』(清水宏監督)等で共演した1歳下の女優・田中絹代(1909年 - 1977年)の初恋相手として小川の消息を尋ねられ、約40年ぶりに対面を果たしている[8][9]。『日本映画俳優全集・男優編』(同項の執筆田中純一郎奥田久司キネマ旬報社)には、小川の消息は判らなかったと記されている[1]が、誤りである。上記番組の出演者には、田中の他に植木等岩下志麻大川橋蔵金田正一内村直也幸田文岸田今日子らがいた[10][11]。元蒲田撮影所所員の親睦会『蒲田会』の関係者が小川と名刺交換した際、東京都新宿区の現住所が記載されており、これがヒントとなって無事に対面を果たしたという[8]。驚喜した田中は、対面時に「生きていることが信じられない」と番組中で語った[8]。晩年の小川の消息は不明である[1][2]没年不詳

芸名 編集

フィルモグラフィ 編集

すべてクレジットは「出演」である[3][4][5]。公開日の右側には役名[3][4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[12][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

初期 編集

松竹キネマ 編集

製作 松竹蒲田撮影所

特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[3][4]

製作 松竹下加茂撮影所

特筆以外すべて製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[3][4]

製作 松竹蒲田撮影所

特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[3][4]

東亜キネマ京都撮影所 編集

すべて製作は「東亜キネマ京都撮影所」、配給は「東亜キネマ」である[3][4]

松竹下加茂撮影所 編集

特筆以外すべて製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[3][4]。すべて「菊池一郎」名義である。

帝国キネマ演芸 編集

すべて製作・配給は帝国キネマ演芸である[3][4]

東亜キネマ京都撮影所 編集

すべて製作は「東亜キネマ京都撮影所」、配給は「東亜キネマ」である[3][4]

東活映画社 編集

すべて製作・配給は東活映画社である[3][4]

大都映画 編集

すべて製作・配給は大都映画である[3][4]

フリーランス 編集

特筆以外すべて「小川國松」名義である[3][4]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r キネマ旬報社[1979], p.121.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 盛内[1994]、p.86-87.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 小川国松日本映画データベース、2012年12月13日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 小川国松、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月13日閲覧。
  5. ^ a b c d e 小川国松KINENOTE、2012年12月13日閲覧。
  6. ^ 沢村国丸、日本映画データベース、2012年12月13日閲覧。
  7. ^ 草香伸、日本映画データベース、2012年12月13日閲覧。
  8. ^ a b c 読売新聞』1968年1月27日付。
  9. ^ 週刊平凡』1967年1月号、平凡出版、96頁。
  10. ^ 『読売新聞』1966年12月31日付。
  11. ^ 朝日新聞』1966年12月31日付。
  12. ^ a b 小川國松、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月13日閲覧。
  13. ^ a b 小川国松、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月13日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集