小笠原長胤 (石見小笠原氏)

小笠原 長胤(おがさわら ながたね)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士石見国邑智郡河本郷(現在の島根県邑智郡川本町)の温湯城を本拠とする国人石見小笠原氏の第3代当主。

 
小笠原長胤
時代 鎌倉時代 - 南北朝時代
生誕 不詳
死没 興国7年/貞和2年8月1日1346年8月18日[1]
別名 次郎太郎 または 又太郎(通称
戒名 円通院殿
墓所 島根県邑智郡川本町湯谷
幕府 室町幕府
主君 足利尊氏
氏族 清和源氏義光流石見小笠原氏
父母 父:小笠原家長[2]
長氏[2]長義[2]、娘(益田玄蕃頭室)[2]
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生涯編集

石見小笠原氏第2代当主の小笠原家長の子として生まれる。

正和2年(1313年)、祖父・長親が死去[1]。長親が死去した時期は、諸国の御家人たちが諸子に所領を分与して独立させる動きを見せており、長親もその死に際して所領分与を行ったと考えられ、長胤の父の家長には石見国邑智郡河本郷村之郷が譲られた[3]

石見国の所領を譲られた家長は長胤と共に阿波国から石見国の村之郷に移り住み、以後約20年に渡って河本郷と村之郷の経営に当たったが[3]元弘3年/正慶2年(1333年3月20日に家長が戦死したことから、長胤がその後を継いだ[1][4]

建武2年(1335年)、足利尊氏後醍醐天皇の対立が激化し、足利尊氏討伐の勅命が下ると、長胤は初め宮方(南朝)に味方した。しかし、延元元年/建武3年(1336年)に上野頼兼が石見国で募兵を行うと、長胤は募兵に応じて武家方(北朝)へと転じた。武家方に転じた長胤は、嫡男の長氏と共に石見国邇摩郡三久須での戦いで宮方の楠木氏を破る等の活躍をし、石見小笠原氏の所領を次第に拡大していった[5]

長胤と長氏は、宮方の佐波氏福屋氏に対抗するための支城として赤城山城を築いていたが、領地の拡大に伴い、河本郷の会下谷に温湯城を築いて居城とした。温湯城は、石見小笠原氏の元々の所領である村之郷と、新たに所領となった三原という二大穀倉地帯の中間地点に位置しており、領地支配の中心的拠点となる恒久的居城とするために、長胤の晩年にあたる興国年間(1340年-1345年)に築城されたと考えられている[6]

興国7年/貞和2年(1346年8月1日に死去[1]。嫡男の長氏が後を継いだ。

脚注編集

  1. ^ a b c d 長江寺過去帳』
  2. ^ a b c d 『萩藩諸家系譜』114頁。
  3. ^ a b 『川本町誌 歴史編』130頁。
  4. ^ 『川本町誌 歴史編』129-130頁。
  5. ^ 『川本町文化財シリーズⅤ 石見小笠原氏史と伝承』2頁。
  6. ^ 『川本町誌 歴史編』138-139頁

参考文献編集

先代:
小笠原家長
石見小笠原氏当主
1333年 - 1346年
次代:
小笠原長氏