山根二郎
山根二郎(やまね じろう、1936年9月27日生まれ)は、日本の弁護士(登録番号9881、長野県弁護士会所属)、思想家。現在は山根二郎法律事務所の代表を務めている。日本の法曹界において数々の大事件に関与し、環境問題や社会問題にも積極的に取り組んでいる。特に、法廷闘争の在り方に革新をもたらし、その名は『朝日人物事典』にも記載されている。
人物・経歴
編集出生と幼少期
編集1936年、東京都千代田区隼町で生まれる。名付け親は父親と親交があった川島浪速で、当初「興亞」(おきつぐ)と名付けられるも、高校3年時に「二郎」に改名[1]。幼少期には隼町から平河町に転居。1943年4月、永田町国民学校(現・永田小学校)に入学し、翌年には東條英機首相の挨拶を最前列で聴いた経験を持つ。1944年11月、川島浪速の伝手で家族ともども信州松本の浅間温泉へ疎開。この地域は名付け親である川島浪速の出身地でもあった。
教育と思想的形成
編集戦後、日本国憲法の読本に感銘を受け、中学時代にドストエフスキーの『罪と罰』に没頭。これが後の弁護活動や人間理解に多大な影響を与える。1953年に松本深志高校へ進学し、そこでフランス語の恩師との出会い[2]が自身の思想形成に影響を与えた。
大学時代と社会運動への関与
編集1956年、中央大学法律学部法律学科に入学[3]。在学中には、安保闘争が激化する中、1960年の国会突入時にデモに参加。これが彼の社会問題への関与の始まりとなった。
弁護士活動
編集1966年、弁護士登録後、東京で法律事務所を開業。1968年、金嬉老事件の主任弁護人として、在日朝鮮人問題を初めて裁判で提起[4]。翌1969年には、東大安田講堂事件の主任弁護人として460名の被告人を擁護し、東京地裁と対峙[5]。この裁判での山根の闘う姿は、後に多くの若者が弁護士を志すきっかけとなった。また、昭和天皇狙撃事件の奥崎謙三の弁護[6]も担当する。
松本市への移住と環境問題への取り組み
編集1982年、東京を離れ、長野県松本市に移住。1988年にはスパイクタイヤの製造・販売中止の調停を成立[7]させた。また、2000年には大仏ダム建設計画を中止に追い込む[8]など、数多くの公害問題にも取り組んだ。
著名な法廷闘争と社会的影響
編集1990年代には、資生堂や花王を相手取った独占禁止法違反訴訟で代理人を務め、業界の不正を明るみに出す。また、2002年にマックスファクター株式会社を相手取った裁判で、単独で日本最大規模の法律事務所に挑み、商品の出荷を命じる全面勝訴を神戸地裁で獲得。当時のアメリカ大統領ビル・クリントンから感謝と激励の手紙を受け取る。
その他のエピソード
編集1955年、高校卒業後に父親とともに世田谷にある真崎甚三郎の私邸を訪問[9]。この訪問は山根にとって重要な節目となった。
また、2017年には国宝松本城の樹齢400年の大ケヤキの伐採を阻止[10]し、翌2018年にはネオニコチノイド系殺虫剤の空中散布を中止させるなど、地域環境保護にも貢献している[11]。
主要な裁判・成果
編集1968年金嬉老事件の主任弁護人となり、裁判の場に初めて在日朝鮮人問題を提起する。
1969年日本における若者最後の反乱というべき東京大学安田講堂事件の主任弁護人となり、三百数十名の被告人(学生)の統一公判を要求、分割公判を強行する東京地裁と全面対決した裁判闘争を展開。裁判所より発言禁止等の制裁を受けA級戦犯らも収監されていた巣鴨プリズン(現池袋サンシャイン60のあった場所)に5日間拘留されたほか、 他の弁護士から審判妨害罪で告発されることもあった[12]が、弁護を継続し学生の大半の執行猶予付き判決を勝ち取る。この事件はそれまで閉鎖的であった日本の裁判そのものを社会的に開放した先駆けとなる。
1969年昭和天皇パチンコ狙撃事件の犯人奥崎謙三(ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公)の弁護人を担当。事件の社会的タブーの度合いから弁護人のなり手がなく当時金嬉老事件や東大安田講堂事件で連日新聞の一面を飾りテレビにも出演していた山根(テレビのワイドショー等に弁護士が出演するようになったのは山根が初めてでそれまで閉鎖的だった裁判や弁護士という職業にスポットライトが当たる先駆けとなった)に白羽の矢が立った。なお、この事件がきっかけで皇居内のバルコニーに防弾ガラスが設置されることとなった。
1988年積雪・寒冷地の住民を長年苦しめてきたスパイクタイヤによる道路粉塵公害を解決するため、長野県弁護士会公害対策委員長時に、タイヤメーカー七社を相手取って公害調停を申立て、スパイクタイヤの全面製造・販売中止の調停を成立させる。
1991年資生堂・花王を相手取った民事訴訟の代理人となり、裁判等を通じて化粧品メーカーの独禁法違反問題を提起。
1993年アメリカ合衆国のメジャー化粧品メーカーのマックスファクターを独占禁止法違反で提訴した事件の主任弁護人となり勝訴。同事件は独禁法事件の代表的な判例として法学の教科書に掲載されるなどその後の独禁法訴訟の指針となった。
1996年カルト教団の宗教施設建設計画阻止のため地域住民を指導し、代理人として建設差止の調停を申立てるなどして撃退に成功[13]。
1995年オウム事件を契機に執筆を開始、膨大な資料を徹底的に探索・検証し、根元的な思索と精神の激闘が著書「仏教解体」となる。
2001年元長野県知事田中康夫の脱ダム宣言に先立ち長野県松本市の薄川上流に建設予定であった大仏ダムの建設反対を訴え、同田中康夫知事が建設中止を決断した。実際に建設予定のダム建設が中止された全国的にもまれな先例となった。
2018年ネオニコチノイド系殺虫剤のヘリコプター空中散布の中止を求め長野県松本市を提訴。[14]
2019年4月元号制定は違憲であるとジャーナリストの矢崎泰久らと国を提訴。
著作等
編集仏教解体(仏教カルト研究所 、2000/4/1)
山根二郎作成の文書が公式ホームページである山根二郎.com https://yamanejiro.com にて公開されている。
メディア等
編集- 2000年4月、オウム真理教事件を契機に、5年間にわたって数千冊にのぼる膨大な書物や資料を徹底的に探索・検証し、執筆を続けていた『仏教解体』を発行する。
- 矢崎泰久発行『話の特集』-創刊40周年記念号-の「山根二郎かく語りき」、月刊誌『Hanada』H28・11月特大号、(作家時代の)石原慎太郎氏との対談、新宿紀伊國屋ホール出演、新宿LOFTにて田原総一朗と対談等で、山根独自の思想を展開。『疎外の構造・対論=羽仁五郎』(昭和44年朝日新聞社発行)ではソノシートで山根の討論を聴くことができる。ジャーナリストばばこういち氏のテレビ番組に出演するなど、今では当たり前であるが、弁護士として初めてテレビに出演したのも山根である。
外部リンク
編集脚注
編集- ^ 1954年10月22日、高校3年のとき、父の反対を押し切り、名前が時代にそぐわないとして、自ら長野家庭裁判所松本支部に申立をして戸籍名を二郎に変更した。
- ^ 高等学校3年生のとき、選択科目のフランス語を担当した並木康彦教諭からフランス文化と自由の精神を学ぶ。特に、アルチュール・ランボーやボードレールの詩に深く感銘を受け、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』は今でも心に強く響いている。同級生には、後に国際教養大学を創立した中嶋嶺雄がいて、二人はこの年、共に北アルプスを縦走した。
- ^ 当初は<フランス文学を志していたが、現実的に生計を立てるのは難しいと考え、大学受験直前に進路を変更し、弁護士を目指して中央大学法律学部法律学科に入学。しかし、法律にはどうしても興味を持てず、神保町の『モーツァルト』や『ラドリオ』、新宿の『風月堂』といった喫茶店に通う日々を送った。
- ^ その後、韓国に帰国した金嬉老から、オモニ(母親)と山根の写真を並べて飾っているとの葉書が届いた。
- ^ この裁判において、山根は裁判長の訴訟指揮に従わず発言を続けたため、法廷の秩序を乱したとして2度にわたり監置処分を受けた。池袋の東京拘置所の独居房で、1回目は5日間、2回目は3日間の拘禁を経験するが、怯まず東京地裁の法廷で発言を続けた。昭和44年12月、東京地裁所長の新関勝芳は、山根の東大裁判での法廷活動に対して、第2東京弁護士会会長に懲戒請求を行い、山根の処分を求めた。しかし、昭和47年5月12日、第2東京弁護士会綱紀委員会は『懲戒しないことが相当である』と議決。しかし新関は異議を申し立て、日本弁護士連合会に懲戒を求めた。結果、7年後の昭和54年11月1日、日本弁護士連合会懲戒委員会は山根に『業務停止4か月』の処分を下した。これに対し、『山根懲戒処分に抗議する・千人委員会』が発足し、弁護士や各界の著名人が賛同署名(計757名)を行った。昭和45年に発刊された『現在の弁護士 4巻』(日本評論社)は、「弁護士山根二郎 - これほどはっきりと、裁判の儀式性に粉飾されたいやったらしい虚構の権威に嫌悪をたたきつけた者はない。」として、『金嬉老事件』『東大安田講堂事件』などの法廷闘争を展開した彼を、八海事件などの冤罪事件と闘い続けた正木ひろし弁護士と並べて、「彼らのきりひらいた告発は、情況に対する計算を断ち切って自らをかけたことにおいて、比類のない強烈な弾劾を刑事司法に浴びせえたのである。」と評価している。
- ^ 昭和44年1月2日の皇居一般参賀の際、元日本兵でニューギニアの生存者であった奥崎謙三が、バルコニー上の昭和天皇に向けて手製のゴムパチンコで数発のパチンコ玉を発射。そのうち一発が昭和天皇から数メートル離れたお立ち台の縁に当たり、奥崎は天皇に対する暴行罪で起訴された。山根は、起訴状に『被告人が天皇に向かってパチンコ玉を発射し暴行を加えた』としか記載されていない点を問題視し、この場合『天皇』ではなく個人としての氏名を記載すべきであると主張。また、もし天皇が暴行罪の被害者であるなら、その意思や証言を明らかにすべきだと公判のたびに検察官に問いただしたが、検察官はこれに応じることはなかった。
- ^ 積雪・寒冷地で長年問題となっていたスパイクタイヤによる道路粉塵公害を解決するため、長野県弁護士会公害対策委員長であった山根は、タイヤメーカー7社を相手取り、公害調停を申立てた結果、スパイクタイヤの全面製造・販売中止を実現した。この調停成立は読売新聞の一面トップで報じられ、朝日新聞は『天声人語』で「取り返しのつかない健康被害を未然に食い止めた・・・歴史的な四大公害訴訟の苦い例を見るように、これまでの公害病の対策はたいてい後追いだった。」と評価し、今回は歴史的な意義がある』と賞賛した。
- ^ 長野県松本市内を流れる薄川の上流において、長野県が建設を計画していた高さ88メートル、横幅400メートルの巨大ダム(大仏ダム)の着工を阻止するため、建設省(現・国土交通省)に乗り込み、建設工事差止訴訟を提起。これにより、長野県知事に就任したばかりの田中康夫が建設計画を中止する決定を下した。
- ^ ① このとき、父親は息子(山根)を指して真崎に『これはフランス文学をやりたいと言っているんですよ』と伝えた。それを聞いた真崎は、山根に向かってこう語った。 『君はフランスを自由な国だと思っているかもしれんが、あんなに差別が強い国はないんじゃよ。武官だったわしがパリに行ったとき、エレベーターも別じゃった。わしから見れば、東條なんか小僧っ子みたいなもんじゃったよ。よく駆け足させたもんじゃ。わしが失脚していなかったら、あんな戦争は絶対に起こさせなかった。』 父親はその翌年の昭和31年8月8日に、真崎はその3週間後の8月31日に亡くなった。山根の手元には、真珠湾攻撃の20日前、昭和16年11月17日に真崎甚三郎が父親に宛てた手紙が残っており、そこには毛筆でこう書かれている。 『小生は只々、逆上者、強欲者、厚顔者、低脳者、破廉恥漢等が一日も速やかに迷夢より覚めんことのみ祈りおり候 十一月十七日 真崎拝 山根 君』 ここに出てくる『逆上者、強欲者、厚顔者、低脳者、破廉恥漢等』とは、開戦に踏み切ろうとしていた統制派の首相東條英機らのことに他ならない。 ② 父親は、2・26事件の反乱軍を自宅の庭に招き入れ激励するほどの国粋主義者で、昭和8年の国際連盟脱退の立役者だった外務大臣松岡洋右や、2・26事件の青年将校らが担ごうとしていた皇道派の総帥、陸軍大将の真崎甚三郎とも親交が深かった。山根が小学校2年生のとき、2・26事件で失脚していた真崎が、父親を訪ねて信州浅間温泉の旅館『尾の上の湯』に投宿した際、父親は山根を密談の場に連れて行き自分の横に座らせた。そのとき真崎大将は、茶筒に入っていた『おこし』を半紙に乗せて差し出してくれた。
- ^ 平成29年1月、松本市が国宝松本城の内堀石垣上にそびえ立つ樹齢400年の大ケヤキを伐採しようとしていることを知った山根は、市役所に乗り込み、副市長と直接談判した。彼は『どうしてもこの大ケヤキを切るというのであれば、私はこの木に登って籠城し、全国民に松本市の暴挙を訴える。それで80歳の私が逮捕されれば、全国ニュースになるだろう』と宣言。この行動により、大ケヤキの伐採は回避された。しかし、松本市は今なお、この大ケヤキが立つ戦国時代の最古の石垣(500年の歴史を持つ)を解体する計画を進めており、文化庁を巻き込んだ利権構造の中でその計画は進行している。
- ^ 松本市は、同市を取り囲んでいる松林の松枯れ防止のために、発達障害等の重大な健康被害をもたらすと指摘されているネオニコチノイド系殺虫剤を過去5年間にわたってヘリを使って空中散布を続けていた。(医者でもあった)当時の市長は「明らかな健康被害が確認できたら、空中散布は中止する」と言って散布をやめようとはしなかったのであるが、それで取り返しがつかなくなったのがあの水俣病だった。
- ^ 東大裁判の山根弁護士を起訴猶予処分『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月19日朝刊 12版 22面
- ^ 長野県松本市横田に計画されていたカルト教団の宗教施設建設を阻止するため、山根は地域住民を指導し、代理人として建設差止の調停を申立てるなどして、この計画の撃退に成功した。この闘争の記録は『護られた街―実録 カルトは防げる』に詳述されている。
- ^ ぴーすかふぇまつもと (2018-06-25), 松本市は空中散布中止を!山根二郎弁護士による記者会見 2019年5月15日閲覧。