山田家(やまだけ)は、清原氏の末裔と伝わる武家士族華族だった日本室町時代には大内氏に仕え、戦国時代に大内氏が滅亡した後には毛利氏に仕えた[1]。近世にも長州藩毛利家の家臣であったが、近代に山田顕義を出し、その勲功により華族伯爵家に列せられた[2]

山田家
本姓 清原氏
種別 武家
士族
華族伯爵
主な根拠地 周防国
長門国
東京市麻布区
東京都東村山市
著名な人物 山田顕義
凡例 / Category:日本の氏族

歴史 編集

封建時代 編集

山田伯爵家所蔵の記録によれば、天武天皇の皇子舎人親王の玄孫清原有雄の子孫とされるが、他に照合できる資料がなく不明[1]。同記録によれば、天武天皇から数えて24代の山田対馬守通村の代に周防国守護大内義弘に仕えるようになり、30代の山田対馬守言直の代の天正初め頃に毛利輝元の麾下となったことが記されている[1]

言直以降の系譜は毛利家藩譜にも記載されている[3]。その最初の人物は山田與四郎である。それによれば、彼は天正8年(1580年)閏3月6日に毛利輝元から市允に任じられ、慶長15年(1610年)12月29日に宗瑞(輝元の隠居後の名前)より対馬守(士格称号)を与えられている。この人物は山田伯爵家の記録にある30代山田対馬守言直と同一人と思われる[3]

彼以降、山田家は長州藩士家として続いた。長州藩内における山田家の家格は大組士(馬廻り[4]。家禄は成直の代に52石[5]之包の代の元禄14年(1701年)12月28日に50石加増があって都合102石となっている[5]

また成直の弟直之の系譜が山田分家として出き、本家と同じく大組士の藩士となった。この分家は当初42石だったが、恒治の代に萩城修理と毛利元就法会の功で72石に加増され、さらに龔之が藩政への功労で142石に加増され、家禄の上では本家をしのぐようになった[6]。龔之は村田光賢村田清風の弟)の三男だった。本家にも彼の次男が養子に入ったため、幕末の山田家は村田家の係累として藩内で知られていた[4]

龔之の長男亦介(公章)は、幕末に勤王志士であったが、長州藩内で俗論派(幕府恭順派)が一時権力を握った際に処刑されて一時期士籍を剥奪されて家禄を没収されているが、慶応元年(1865年)の俗論派の失脚で、同年5月に藩主の命により遺児鶴太郎にお家再興が許され、旧扶持127石が与え直されている[7]

一方、龔之の次男顕行は、山田本家の顕政の養子に入り、山田本家を相続しており、この顕行が山田顕義の父である[8]

明治以降 編集

 
山田顕義

山田顕義は、幕末維新期に国事に奔走し、戊辰戦争における東征大総督参謀としての功、および函館鎮定の際の陸海軍総参謀としての功により、明治2年(1869年)に賞典禄600石を下賜された。同年から兵部省に出仕し、兵部大丞に任官し、陸軍軍人としては陸軍中将まで累進する。また参議工部卿内務卿司法卿などを歴任[9][10]。明治17年(1884年)7月7日に功により華族伯爵位を授けられた[11]。明治18年(1885年)に第1次伊藤内閣司法大臣として入閣して以後、第1次松方内閣まで4代の内閣で司法大臣として留任し続けた[10]。「法典伯」との異名をとるほどの熱意をもって民法をはじめとした法典整備に尽力した[10]神道の擁護や教育にも熱心で、皇典講究所の所長に就任し、また日本法律学校(のちの日本大学)や国学院の創設者となった[10]

弟に河上治養の養子に入った繁栄があり[2]、男子がなかった顕義は繁栄の長男である久雄を養子にもらった。明治25年(1892年)11月11日に顕義が死去した後、同年12月8日に久雄が家督と爵位を相続した[9]

しかし久雄は明治30年(1897年)4月12日に若くして死去[2]。そのため久雄の父である繁栄が山田家の戸籍に戻り[2]、家督と爵位を継いだ[12]。繁栄は大佐まで昇進した陸軍軍人であった[12]。その繁栄も明治39年(1906年)に死去したことで男系は絶えた。会津松平子爵家の松平容保三男英夫が顕義の三女梅子と結婚していたため、彼が繁栄の養子として山田家の家督と爵位を相続した。英夫は陸軍軍人として中佐まで昇進し、予備役入り後には貴族院の伯爵議員に当選して務めている[13]。彼の代の昭和前期に山田伯爵家の住居は東京市麻布区笄町にあった[12]

これ以降の山田家は男系の血統では会津松平家の分家筋となり、山田家の血統は女系で継いでいる[2]

英夫・梅子夫妻の長男である顕定(明治42年(1909年)3月18日生、昭和59年(1984年)3月25日没)は、日本大学法学部の教授を務めた[2]。その息子に顕喜(昭和16年(1941年)8月10日生)があり、彼はNHKに勤務していた。彼の代の平成前期に山田家の住居は東京都東村山市富士見町にあった[2]。さらにその息子に顕隆(昭和51年(1976年)2月8日生)がある[2]

系図 編集

山田伯爵家所蔵の記録によれば 天武天皇-舎人親王-三原王-小倉王-貞代王-有雄-海雄-房則-深養父-春光-元輔-致信-正高-正道-通次-是次-通良-家通-広通-通里-通増-通豊-通秀-通村-通末-方通-方貞-方明-言輔-言直と続き、言直の代の天正初めの頃に毛利氏に仕えたという。ただしここまでの系図には照合できる資料がない[1]

毛利家の家臣となって以降の系図は毛利家藩譜にも記載されているので明らかである。以下の通りである[3]

実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『山田顕義伝』[3]および『平成新修旧華族家系大成 下巻』[2]に準拠。
山田與四郎
 
 
万蔵
 
 
彦右衛門尉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山田本家山田分家
成直直之
 
 
 
 
直通興之
 
 
 
 
之包興直
 
 
 
 
信政直恒
 
 
 
 
重之直政[† 1]
 
 
 
 
直政恒治
 
 
 
 
五郎助
 
 
 
 
與四郎[† 2]龔之[† 3]
 
 
 
 
彦右衛門[† 4]公章(亦介)
 
 
 
 
七兵衛[† 5]鶴太郎[† 6]
 
 
吉左衛門[† 7]
 
 
顕政[† 8]
 
 
顕正[† 9]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山田伯爵家
 
 
山田顕義繁栄[† 10]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久雄[† 11]梅子
 
 
繁栄[† 12]
 
 
英夫[† 13]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕定千代子貞夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕喜南千子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕隆留美子
系譜注
  1. ^ 山田本家の山田重之次男。山田分家に養子に入るも本家に嗣子がなくなったため本家に戻る
  2. ^ 山田分家の山田恒治次男。
  3. ^ 村田光賢村田清風の弟)の三男。
  4. ^ 山田分家の山田恒治三男。
  5. ^ 長新兵衛次男。
  6. ^ 父処刑後、一時士籍奪われるも慶応元年(1865年)に再興
  7. ^ 先代とのつながり不明。
  8. ^ 先代とのつながり不明。
  9. ^ 山田龔之次男。山田亦介異母弟
  10. ^ 河上治養の養子に入るも後に山田伯爵家に復籍
  11. ^ 顕義の弟繁栄の子
  12. ^ 顕義の弟、久雄の父だが、久雄が先だったので相続
  13. ^ 松平容保三男。顕義の三女梅子と結婚。

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ a b c d 日本大学 1963, p. 14.
  2. ^ a b c d e f g h i 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 796.
  3. ^ a b c d 日本大学 1963, p. 15.
  4. ^ a b 日本大学 1963, p. 18.
  5. ^ a b 日本大学 1963, p. 15/20.
  6. ^ 日本大学 1963, p. 16/20.
  7. ^ 日本大学 1963, p. 21.
  8. ^ 日本大学 1963, p. 16/18.
  9. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 797.
  10. ^ a b c d 日本大百科全書(ニッポニカ)『山田顕義』 - コトバンク
  11. ^ 小田部雄次 2006, p. 326.
  12. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 91.
  13. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 92.

参考文献 編集

  • 日本大学『山田顕義伝』日本大学、1963年(昭和38年)。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342