岡本健治 (神職)

日本の神職。熱田神宮宮司。神社本庁総長。

岡本 健治(おかもと けんじ、1924年大正13年〉3月4日[1] - 1999年平成11年〉1月26日)は、日本神職熱田神宮名誉宮司愛知県神社庁名誉庁長。熱田神宮禰宜、権宮司、宮司を歴任し、愛知県神社庁副庁長、同庁長、神社本庁副総長、同総長、日本会議副会長[2]などを務めた。

 
岡本 健治
時代 昭和時代 - 平成時代
生誕 (1924-03-04) 1924年3月4日
京都府の旗 京都府舞鶴市
死没 (1999-01-26) 1999年1月26日(74歳没)
墓所 伊勢市大世古墓地
勲章 神社本庁長老
階位 浄階
身分 特級
主君 昭和天皇上皇
氏族 岡本家
父母 父:岡本斎次郎、母:岡本初枝
奉職神社 熱田神宮愛知県名古屋市熱田区
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生涯 編集

熱田神宮への奉職 編集

大正13年(1924年3月4日京都府舞鶴市にて、元外宮御師の家系であった岡本家の斎次郎・初枝夫妻の次男として生まれた[3][4]

昭和18年(1943年)9月、神宮皇學館附属専門部を卒業した[1][4]。同年10月1日、熱田神宮雇となる[4]。のち、宮掌を拝命するも解任、嘱託・宮掌を拝命するも昭和21年(1946年)の官国幣社職制廃止により解任、同年明階となり禰宜に任じられるが、翌昭和22年(1947年)に行われた神宮職制改革に伴い権禰宜に降任となるなど、戦時下・戦後の激動の時代にその職階も波瀾万丈であった[4]

昭和38年(1963年)、神職身分二級となった[4]。昭和39年(1964年)、禰宜に再任された[1][4]。昭和45年(1970年)に愛知県宗教教誨師会会長に選任、昭和47年(1972年)には神職身分二級上に昇格して愛知県神社庁参事を兼任した[4]

昭和50年(1975年)、権宮司に昇任[3][4]。翌年には皇學館大学評議員[5]、昭和56年(1981年)には財団法人式内社顕彰会理事に就任した[5]。またこの間には県神社庁の支部長・理事・神社総代会常任理事などを歴任した[4]。昭和57年(1982年)には浄階と神職身分一級に昇格して、県神社庁副庁長となる[4][5]。さらに昭和58年(1983年)には神社本庁常務理事・参与を委嘱された[4][5]

宮司就任と本庁総長任命 編集

昭和61年(1986年)2月、熱田神宮に就任した[5][6]。同年には皇學館大学理事、日本宗教連盟参議に就任し、のちに神職身分特級に昇進した[6]。また昭和63年(1988年伊勢神宮式年遷宮奉賛会愛知県本部長を務め、世界連邦日本宗教委員会顧問も委嘱された[6]

平成元年(1989年)から、二期六年の間神社本庁副総長を務め、平成7年(1995年)に神社本庁総長に就任した[6]。この年に発生した地下鉄サリン事件に関連して12月4日に行われた参議院第134回国会の「宗教法人等に関する特別委員会」にて参考人招致に応じた[6]。総長在任中には、その諮問機関として「神社基本問題研究会」を設置している[7]。またこの間、熱田宮司として、平成6年(1994年)に多度大社宮司であった小串和夫を呼んで権宮司としている[8]

平成10年(1998年)、体調を考慮して一期で総長を退任、同年神社本庁顧問・愛知県神社庁顧問となる[7]。同年11月30日、熱田神宮宮司を退任した[7]

その後は熱田神宮名誉宮司、愛知県神社庁名誉庁長に就任し、また神社本庁長老となるも、退任直後に入院し、翌年(1999年1月26日、帰幽した[7]。墓所は伊勢市大世古墓地にある[7]

帰幽後の平成12年(2000年)、熱田神宮宮庁より、遺稿集『朝霧』が刊行された[7]

著作 編集

  • 『朝霧:岡本健治遺稿集』熱田神宮宮庁編、熱田神宮宮庁、2000年。 

脚注 編集

出典 編集

参考文献 編集

  • 「岡本健治」『神道人名辞典』神社新報社、1986年、386-387頁。 
  • 「岡本健治」『戦後神道界の羣像』熱田神宮著、神社新報社編、神社新報社、2016年、189-191頁。 
  • 「小串和夫」『戦後神道界の羣像』山田二三郎著、神社新報社編、神社新報社、2016年、549頁。 
先代
白井永二
神社本庁総長
第16代:1995年 - 1998年
次代
工藤伊豆