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徳重神社(とくしげじんじゃ)は鹿児島県日置市伊集院町徳重にある神社。現在は「とくしげじんじゃ」と読み慣わしているが、本来の読み方は「さきへじんじゃ」であった[1]

徳重神社
Tokushige Shrine.JPG
所在地 鹿児島県日置市伊集院町徳重1786
位置 北緯31度37分56.6秒
東経130度23分41.0秒
座標: 北緯31度37分56.6秒 東経130度23分41.0秒
主祭神 精矛厳健雄命(島津義弘)
社格 旧県社
創建 明治4年(1871年
本殿の様式 流造
別名 妙円寺様
例祭 7月23日
主な神事 妙円寺詣り(10月第4日曜日)
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妙円寺詣りで賑わう徳重神社本殿(2011年10月23日撮影)
1939年頃の本殿

祭神編集

精矛厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと)(島津義弘)を祀り[2]、義弘の木像を神体とする。

沿革編集

明治2年(1869年)の廃仏毀釈によって、義弘の菩提寺である妙円寺は廃寺とされ、その跡地へ明治4年に創祀された神社である。境内における拝殿の前には、島津氏の者たちが寄附した古い石灯籠が並んでおり、その中には天璋院篤姫の父親・島津忠剛の名が刻まれた石灯籠や、天保の年号が刻まれた石灯籠がある。境内の西側には、『島津義弘公殉死者13名地蔵塔』が並んでいる。この地蔵塔は元和5年(1619年)、福昌寺や加治木など様々な場所において、亡くなった義弘を慕う家臣たちが、当時は薩摩藩で禁止されていたにも関わらず殉死してしまったため、義弘の子・島津忠恒はそれを哀れみ、寛永9年(1632年)に建立したものであり、現在は伊集院町教育委員会による解説碑も建てられている。境内のさらに西側からは、妙円寺歴代住職の墓がある裏山と、古い石仏がある裏山へ通じる階段がそれぞれあり、石仏がある場所には、廃仏毀釈により徳重神社の裏山に捨てられていたと言われている、吽形うんぎょう仁王像馬頭観音像も置かれている。なお、妙円寺はこの徳重神社の西側に復興されている。

祭祀編集

妙円寺詣り編集

自分の菩提寺に妙円寺を指定した義弘は、生前に京都より仏師・康厳を招き、自らの姿を彫刻させ、その木像を生きている義弘と思い弔うよう指示[3]。島津義弘が奇跡的な生還を遂げた関ヶ原の戦い旧暦9月15日にあったことを記念して、その前夜にあたる旧暦9月14日、平和な時にも関ヶ原における先人の体験を見習って心身を鍛えようと、福昌寺の墓地にある義弘の墓ではなく、生きている義弘として取り扱われている木像を参拝すべく、甲冑に身を固めた鹿児島城下の武士たちが、鹿児島市から伊集院町の妙円寺までの往復40kmを夜を徹して歩き参拝したことに端を発する[3]。鹿児島で受け継がれてきた郷中教育には、「山坂の達者は心懸くべきこと[注釈 1]」という教えがあり、寺もしくは神社が建設されている地域の郷中にいる二才にせ[注釈 2]衆と親睦を深めるという背景もあり、かつて薩摩藩ではそれぞれの命日に参る習慣として妙円寺詣りと共に、島津忠良の菩提寺である日新寺の加世田詣りと、島津歳久の菩提寺である心岳寺の心岳寺詣りが、武士層の間で受け継がれてきた。現在、日新寺と心岳寺の方の習慣は廃れてしまったが、妙円寺詣りは現在も盛んに行われており、『曽我どんの傘焼き』『赤穂義臣伝輪読会』と並び鹿児島三大行事と称されている[4]

平成5年(1993年)からは、多くの人が参加できるよう毎年10月の第4土・日曜日に開催しており、2014年時点では約8万人が妙円寺詣りのため伊集院町の地に足を運んでいる[5]。現在は、鎧武者姿で歩く参拝者のほか、軽装の一般的な服で歩く参拝者も多く、鹿児島市内をはじめ、近郊からの数々の幼稚園、保育園、学校も、隊を組み参加して参拝しており、陣羽織姿や武道用の袴姿で歩く学生、ダンボールでつくられた紙鎧を着て歩く小学生の参拝者もいる。鹿児島市の照国神社から歩く片道約20kmコースのほか日置市の『チェスト館』から歩く10kmコースも行われており、途中には日中に休憩所のテントが張られ、お茶、甘酒、漬物、梅干し、飴玉、黒砂糖などが参拝者に振る舞われる。申し込みをして決まった時間に出発する企画もあるが、時間に関係なくおのおの自由に歩く参拝者も多い。

他にも当日は、一部交通規制も行われ、鎧冑に身を固めた武者行列、火縄銃の一斉射撃、示現流の演武、『太田太鼓踊り』『徳重大バラ太鼓踊り』など郷土伝統芸能や民俗芸能の奉納、音楽隊のパレードなど、ステージイベントも含め夜遅くまで次々と行われ、境内で行われる弓道競技をはじめ相撲、剣道、柔道、銃剣道、空手など武道を中心とした体育行事大会の競技や、生花、茶道等も行われる。また、堺鉄砲研究会を主宰する澤田平からの提案により、鹿児島県では種子島にある3つの鉄砲隊に続く設立で、鹿児島県本土としては初となる鉄砲隊の『薩摩日置鉄砲隊』が平成27年(2015年)8月27日に結成され、同年の妙円寺詣りで初めて実演を行っており、馬上筒抱え大筒捨て奸を含めた火縄銃の砲術が、毎年実演されている[6]

現在は、南日本新聞社の前身『鹿児島新聞社』が懸賞付きで募集して、1等になった池上真澄[注釈 3]の22番まである作詞に、佐藤茂助[注釈 4]が作曲して大正4年(1915年)3月に発表された『妙円寺詣りの歌』[7][8]を歌いながら歩く者も多く、境内のステージイベントでもこの歌が披露される。境内には歌詞を刻した高さ1.4m、幅10.5mある石碑の歌碑が建てられており、昭和57年(1982年10月30日に除幕式が行われた[9][10]。妙円寺詣りと称しながら徳重神社にて行われているこの行事について、徳重神社が建つ西側にある前述の妙円寺は、主催者の日置市などに対し名称を「徳重神社詣り」に変更するよう要望している[11]。そのためこの妙円寺からは、妙円寺詣りの際には妙円寺にも参拝するよう希望する案内掲示も行われており、徳重神社と妙円寺それぞれの方向を指す矢印が書かれたうえ、日置市のご当地キャラクター『ひお吉』の顔と腕が描かれた看板が、日置市により各所に年中設置されていること等もあり、当日は寺社双方へ参拝する者も少なくない。

大正2年(1913年)からは、鹿児島市と日置市東市来町間の鉄道開通に伴い、妙円寺詣りにちなんで、餅米とうるち米で作った米の粉に砂糖と熱湯を合わせたシロップを混ぜて作った餅生地の皮で白餡を包み、島津家の家紋である丸に十の字型に成形した直径3cmほどの柔らかい饅頭に粉がまぶしてある『伊集院饅頭』の販売が開始される[12][13]。当初は『徳重饅頭』の名で売られており、戦時中に途絶えたが、妙円寺詣りの復活と共に伊集院饅頭と名を変え再開し、現在では店舗により定番の白以外にも、きな粉、よもぎ、抹茶、梅、紫芋、黒胡麻、チョコ餡なども販売され、日置市伊集院町の名物菓子となっている。

新納久仰による文政11年(1828年)の記録には、この頃には既に大勢の甲冑を纏った武士が参拝する中、寺内でアワの粥が売られるほどの行事になっていたことが記されている[5]大正10年(1921年)に大久保利武が先祖の墓参りへ赴いた際、いちき串木野市川上にある大久保家の分家で発見した大久保利通の日記には、大久保利通が嘉永元年(1848年)、妙円寺詣りに参加して鎧を着て歩き、同じく妙円寺詣りに参加していた西郷隆盛らと偶然出会い、共に参拝したことが記されており、当時は城下の鹿児島市千石馬場に男女や身分を問わず多くの見物客が詰めかけるほど、大きな催しだったことも記されている[14]。また大久保は、着用した鎧が痛く繕ってもらったことも記しており、「薩人の幸せ安泰、天下よく治まっている訳は、義弘公の有り余る徳があるからこそで、有志の士がこの日に安閑徒然と耽って歓談していることは、すなわち罪人である」とも記している[14]。ちなみに、西郷どん (NHK大河ドラマ)の第1話では、それぞれの郷中における小稚児や長稚児で構成した各メンバーが、一番乗りの褒美をかけて競う藩の催しとして妙円寺詣りが描かれ[注釈 5]、主人公の西郷小吉[注釈 6]たちが一番乗りで寺に到着し、褒美の餅を勝ち取るが、その道中で揉めた他の郷中の一員、尾田栄作[注釈 7]から後日、腹いせに襲われ、鞘ごと振り下ろした刀の鞘が割れたことで、西郷が右腕の付け根を切られてしまうという内容が放送された。

廃仏毀釈により妙円寺が廃寺となった後は、その跡地に建てられ神体である義弘の木像を所持する徳重神社へ参拝するようになった。元々は妙円寺に安置されていたこの木像は、徳重神社の奥に神体として安置されている。まだ茂久と名乗っていた頃の島津忠義も、妙円寺詣りに参加したことがあり、明治以後は、一般庶民も参加するようになり、小・中学生の集団鍛錬行事としても行われたが、今は市民的行事となっている[15]。まだ夜に催される行事だった頃の大正2年(1913年)には、午前2時50分に日置市伊集院町を発車して午前4時に鹿児島市へ到着する汽車が見物客用に運行されていた[5]。戦時中においては、郷中教育を行っていた学舎にとっても特に重要な行事となっており、学舎に入っている子供は他の学舎には負けまいと募集を行って、学舎の舎生ではない友人も連れて行き、人を多く集め参加して、黒山の人だかりができる行事だったと、当時の参加者は証言している。また当時の参加者は、昭和19年(1944年)まで妙円寺詣りは行われ、戦争で焼け野原になった昭和20年(1945年)には中止になったが、ルース台風が来た昭和26年(1951年)10月には妙円寺詣りへ行ったことや、GHQは制度改革の後、神道指令を行うなど日本の精神を根絶やしにするため、日本の精神的な活動について軍国主義に関連すると見なした行事は全て停止させたが、鹿児島におけるローカルな文化の郷中教育や妙円寺詣りなどは引っかからなかったと証言している[16]。なお、少年期の稲盛和夫も参加したことがある[17][注釈 8]

文化財編集

鹿児島県指定編集

徳重大バラ太鼓踊りとくしげうばらたいこおどり
義弘が、泗川の戦いで敵軍に囲まれ苦戦した際、大太鼓を叩きつつ城内に高い幟を立てて威嚇し、仲間の士気を高め勝利したことが始まりとされている。妙円寺詣りで奉納され、直径1.5mの大太鼓を7人前後で叩き、『入鼓いでこ』と呼ばれる小さめの太鼓が2人と、10数人の鐘を加え行う。途中で行われる『まくり』という場面では、大太鼓が将棋倒しになる動作があり、大太鼓の1人が『カレコ』を背中に付け約20mの矢旗を背負って踊るときは、幟の頂上と中央に倒れない様ロープを結び、八方から引っ張る。無形民俗文化財

日置市指定編集

島津義弘公御神体
義弘が、仏師・康厳に命じて彫刻させ、妙円寺に納めた自身の木像。徳重神社の神体。この神体は、出家して惟新斎と名乗っていた義弘が袈裟を纏い椅子に座った姿で彫られ、彩色も施されており、2005年には伊集院町が閉町した記念パンフレットに写真が掲載されたこともある。有形文化財(彫刻)。
伏波(ふなみ)の額
薩摩藩9代藩主・島津斉宣が藩政改革を祈念して文化3年(1806年)に奉納したもの。有形文化財(書跡)。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 険しい山や坂の道も達者に越えることができるように、日頃より足腰を鍛え備えるよう、いつも思っておくべきだ。
  2. ^ 15、16歳から24、25歳まで。
  3. ^ 1881 - 1922年。南九州市知覧町出身。当時、鹿児島女子師範付属小学校の教諭だった。
  4. ^ 1868 - 1938年。霧島市牧園町高千穂に顕彰碑がある。生前、恵まれない孤児のために施設も創設している。
  5. ^ 実際に、そのようなことが妙円寺詣りで行われたという記録は無い。また、ドラマでは夜ではなく昼に行われていた。
  6. ^ 西郷隆盛の少年期。
  7. ^ 通説では、横堀三助よこぼりさんすけだと言われている。
  8. ^ 稲盛は、鹿児島三大行事の中でも、家の近くで行われ毎年のように参加した『曽我どんの傘焼き』や、学校の行事として行われた『赤穂義臣伝輪読会』と比べ、妙円寺詣りには、あまり参加しなかったと語っている。

出典編集

  1. ^ 「資料紹介 諸神社明細」『尚古集成館紀要』3号。
  2. ^ 徳重神社」 鹿児島県神社庁、2011年10月20日閲覧。
  3. ^ a b 松元町 1986, pp. 222-223, 「第十三章 島津藩 第二節 妙円寺詣り」。
  4. ^ かごしま市民のひろば2015年7月号 (PDF)”. 鹿児島市広報デジタルアーカイブ. 鹿児島市広報課. p. 3. 2018年7月8日閲覧。
  5. ^ a b c 岩川拓夫「妙円寺詣り 今も生きる「武者」の志」かごしま文化を語る 『南日本新聞』2015年9月4日、12面。
  6. ^ 「日置市に火縄鉄砲隊――有志37人県本土初」『南日本新聞』2015年9月3日、16面。
  7. ^ 妙円寺参りの歌をCD化 22番まで熱唱/日置市観光協」 『南日本新聞』2007年7月12日。
  8. ^ “「妙円寺詣りの歌」作曲者を追悼 日置の4人、霧島の顕彰碑訪問”. 南日本新聞. (2018年7月15日). https://373news.com/_news/?storyid=93992 2018年8月4日閲覧。 
  9. ^ 西田実 『チェスト関が原 歌碑建設記念』 春苑堂書店、1982年。
  10. ^ 西田実 『大西郷の逸話』 南方新社、2005年、325 - 326頁。
  11. ^ 妙円寺詣り”. 妙円寺. 2011年10月20日閲覧。
  12. ^ 伊集院まんじゅう」 日置市観光協会。
  13. ^ 日置市の特産品(商工業部門)」 日置市。
  14. ^ a b 『大久保利通文書』第九巻 マツノ書店
  15. ^ 中村明蔵 『薩摩民衆支配の構造 現代民衆意識の基層を探る』 南方新社、2000年、196 - 197頁。
  16. ^ 吉田健一 (2010年12月1日). “鹿児島大学稲盛アカデミー研究紀要 第2号 (PDF)”. 鹿児島大学リポジトリ. 鹿児島大学. pp. 155, 177. 2018年7月8日閲覧。
  17. ^ 北康利「思い邪なし 第一章 勝ちに見放されたガキ大将 郷中教育(二)」『毎日新聞』2017年11月11日付朝刊、12版、24面。

参照文献編集

  • 「第3編 松元町の歴史」『松元町郷土誌』(PDF)松元町、1986年3月。2018年9月1日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集