志貴御縣坐神社
志貴御縣坐神社(しきみあがたにますじんじゃ/しきのみあがたにますじんじゃ、志貴御県坐神社)は、奈良県桜井市金屋にある神社。式内社(式内大社)で、旧社格は村社。
志貴御縣坐神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 奈良県桜井市金屋896 |
位置 | 北緯34度31分31.18秒 東経135度51分10.37秒 / 北緯34.5253278度 東経135.8528806度座標: 北緯34度31分31.18秒 東経135度51分10.37秒 / 北緯34.5253278度 東経135.8528806度 |
主祭神 | 大己貴神 |
社格等 |
式内社(大) 旧村社 |
創建 | 不詳 |
地図 |
祭神
編集県 | 『延喜式』神名帳 | 比定社 |
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高市県 | 高市御県神社 | 高市御県神社 |
葛木県 | 葛木御県神社 | 葛木御縣神社 |
十市県 | 十市御県坐神社 | 十市御縣坐神社 |
志貴県 | 志貴御県坐神社 | 志貴御縣坐神社 |
山辺県 | 山辺御県坐神社 | (論)山邊御縣神社 |
(論)山邊御縣神社 | ||
曽布県 | 添御県坐神社 | (論)添御県坐神社 |
(論)添御県坐神社 |
現在の祭神は次の通り(神社明細帳)[1]。
『大和志料』では祭神を御県の霊とし、その他に天津饒速日命とする説などがある[1]。
社名に見える「県(あがた)」は古代朝廷の直轄地(供御料地)を指す。大和国の高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布の6県は特に朝廷とのつながりが深く、「六御県(むつのみあがた)」と総称されて各御県には御県神社が鎮座し、当社はそのうちの1つとされる[2][1]。当社の鎮座する志貴御県の首長は磯城県主(志貴県主/師木県主:しきのあがたぬし、のち志貴連)で、『新撰姓氏録』大和国神別 志貴連条では日子湯支命(神饒速日命の孫)の後裔とし、『先代旧事本紀』「天孫本紀」では建新川命(饒速日命七世孫)または物部印岐美連公(饒速日命七世孫の十市根命の子)の後裔とする[3]。また『日本書紀』神武天皇2年条では神武東征で活躍した弟磯城を磯城県主にしたと見える[1][3]。他に磯城県主を事代主神の後裔とする説があり、過去には太田亮が「磯城彦は即ち三輪氏の他ならず」と指摘している[4]。この説を採れば、同神社が大己貴神を祭神としていることにも通じる。
この磯城県主はのちの大和国城上郡・城下郡付近に勢力をもった古代豪族とされ、『古事記』・『日本書紀』では磯城県主葉江らの娘が綏靖天皇(第2代)から孝霊天皇(第7代)までの各天皇の皇后になったとも見えることから、古くからヤマト王権と婚姻関係を結んだ様子が示唆される[5][1][3]。
歴史
編集概史
編集創建は不詳。
天平2年(730年)の『大和国正税帳』では、「志癸御県」の神戸として城上郡内から租穀1,351束8把が定められ、そのうち祭神料として4束が充てられている[6][1]。
『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒では、当時の「志貴御県神」に神戸として大和国から12戸が充てられている[6][1]。
国史では、天安3年(859年)に「志貴御県神」の神階が従五位下から従五位上に昇叙された旨が記される[1]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、大和国城上郡に「志貴御県坐神社 大 月次新嘗」として、式内大社に列するとともに、朝廷の月次祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている[6][1]。
文明6年(1474年)の「宿院会米帳」には「シキノミヤ」の記載が見える[1]。
神階
編集境内
編集志貴御縣坐神社の付近は、一説に『古事記』・『日本書紀』に第10代崇神天皇が営んだと見える磯城瑞籬宮(師木水垣宮)の跡地に比定され、現在は石碑が建てられている[7][8]。
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本殿
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崇神天皇磯城瑞籬宮趾碑
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鳥居
脚注
編集参考文献
編集- 『国史大辞典』吉川弘文館。
- 真弓常忠「磯城県主」、永島福太郎「志貴御県坐神社」。
- 「志貴御県坐神社」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。
- 「磯城県主」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588。