志賀 親次(しが ちかつぐ/ちかよし[注釈 11])は、安土桃山時代武将大友氏の家臣。南志賀家・志賀親守(その後養子などの関係により志賀親度が父になる)の子。豊後国岡城主。

 
志賀 親次
時代 安土桃山時代
生誕 永禄9年(1566年[注釈 1]
死没 万治3年(1660年[1]
改名 太郎(幼名)→親次
別名 親善、少左衛門尉・湖左衛門尉(通称)、志賀太郎親次、今楠木、天正の楠
霊名 ドン・パウロ
墓所 山口県宇部市[1]
主君 大友義鎮(宗麟)義統蜂須賀家政福島正則小早川秀秋福島正則毛利輝元
氏族 南志賀氏
父母 父:志賀親守[注釈 2]
養父:長兄・志賀親度
養母:大友宗麟娘(奈多夫人と先夫・服部右京亮の娘[2][1]
兄弟 志賀親度、清田鎮乗[注釈 3]志賀親成[注釈 4]親次戸次鎮連室、吉弘統幸室、左門[注釈 5]、佐伯権之助惟重の母[注釈 6]、朽網氏の室[注釈 7]、甚吉[注釈 8]

宗麟の姪(一条兼定とジュスタの娘)[注釈 9]

田北鎮周
某(早逝)、親勝[注釈 10]、女(早逝)
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生涯

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豊後の大友氏の家臣・志賀親守の子として誕生。

親次は武勇に優れ、養母が大友宗麟の娘ということもあって重用された。天正12年(1584年)7月、黒木家永の守る猫尾城攻めに参加。同年9月に父親度が主君義統と不和になって失脚すると、19歳の若さで家督を継ぐことを命じられた。翌13年(1585年)にはキリシタンとなり、ドン=パウロという洗礼名を得ている。

その後 阿蘇高森城の防衛戦に参戦し、島津軍を退けている この時の総大将は、下に記述する岡城戦で 島津義弘退却後も抑えとして残され、幾度も岡城に攻撃を仕掛け、その度に敗走している。

天正14年(1586年)、薩摩国島津氏が37000の大軍で豊後国に侵略して来ると(豊薩合戦)、父親度や他の南郡衆が島津氏に味方する中で、親次は1500程の兵で居城・岡城に立て籠もって徹底抗戦し、島津義弘新納忠元が指揮する島津方の大軍を寡兵で何度も撃退した。鬼ヶ城の決戦では、数千の島津義弘相手に500の兵でこれを散々に打ち負かして見事勝ったと言う。この時の志賀軍の損害は20に留まったと言われる。豊臣秀長の援軍が豊後に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし父を自刃させる。その後、一万田城に囚われた5人の島原の武将を救出し、その時にキリスト教を持ち帰ったことから島原の隠れキリシタンのルーツはここよりと思われる。これらーの戦いで見事な采配を振った親次に対し、豊臣秀吉に厚く絶賛された。

その後は祖父親守の後見を受け[注釈 12]、岡城を中川家に明け渡し豊臣秀吉から現在の大分県日田市に所領1000石をもらい、島津侵略で多くの家臣を失った大友氏家中において、抜群の武功で名を上げかつ名族でもある親次は発言力を強めていたようである[注釈 13]。ところが、こうしたことから主君・吉統(義統より改名)からはかえって疎まれることになった。なかでも、宗麟の死後にキリスト教は禁教とされるも、親次は棄教を拒否し豊後におけるキリシタンの事実上の保護者となっていたが[注釈 14]、親次が義乗の大阪訪問に随行中に吉統によって宣教師達は豊後から追放される仕打ちをうけている。

天正20年(1592年)の文禄の役に参陣したとき、誤報を信じたため小西隊が苦戦にもかかわらず戦況を見誤り撤退を吉統に進言してしまい[注釈 15]、これを敵前逃亡とみなした豊臣秀吉の怒りに触れて、大友氏は改易され親次も所領を失った。なお、「フロイス日本史」の大友氏に関する記述は、このときに親次が仕官先を求めて上京するところで終わっている。

その後は、蜂須賀家政に仕え日田郡大井荘1,000石を領有し、関ヶ原の戦いの際には九州で大友吉統の石垣原の戦いを支援、のち福島正則小早川秀秋(九百五十石)、再び福島正則、毛利輝元にそれぞれ仕えた[1]95歳没と当時としてはかなりの高齢である(祖父の親守もかなりの期間記録が残っていることから、長寿の家系と思われる)。山口県の宇部市小野地域に墓が現存し、子孫は同地に残っている[1]。一部の子孫は九州に戻って細川氏に仕え熊本藩士として明治まで続いたという。

脚注

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注釈

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  1. ^ 一説では 永禄11年(1568年[1]
  2. ^ 『志賀文書』、『志賀家系図』、『志賀家事歴』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、志賀安房守親守(道輝)は、親次の「祖父」ではなく実父であった。親次の父は実に長兄・親孝(親度)。親次は長兄親孝の養子となり、本家の家督を継いだ。
  3. ^ 通称は主計。寿閑、浄閑とも。清田鎮忠の婿養子・凉泉院の夫。洗礼名はドン・ペドロ。熊本細川藩の切支丹類族帳に見る「清田石見母転切支丹凉泉院系」によると、凉泉院は清田鎮乗寿閑の妻。養母は大友宗麟の娘。志賀親度室。実は奈多夫人と先夫・服部右京亮の女。
  4. ^ 林宗頓、洗礼名はゴンサロ。『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の継室)と吉弘鎮信の娘・林コインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)と結婚した。
  5. ^ 志賀親度子・松野左門(長岡殿)
  6. ^ 志賀親度長女
  7. ^ 志賀親度次女
  8. ^ 志賀親度子、吉岡鑑興妙林尼夫婦の養子・吉岡統増
  9. ^ 生年は永禄9年(1566年)。洗礼名はマダレイナ。宗麟の長女ジュスタ(清田鎮忠夫人)と先夫・一条兼定の女・マダレイナ(ジュスタの連れ子として鎮忠の養女となる)とは別人)
  10. ^ 内蔵丞。のち志賀親成の養子。
  11. ^ 山口県宇部市にある志賀親次の墓にはそうルビされている。
  12. ^ 大友宗麟の葬儀には祖父を代理として出席させている。
  13. ^ 義統の嫡子・義乗が秀吉に謁見に行く際に随行した3名の重臣に選ばれている。また秀吉は親次を重臣筆頭の田原紹忍より上座に座らせて豊薩合戦における親次の功績を激賞し、さらに一行のうち義乗以外では親次のみを淀城での食事に招待した(紹忍らは外で待機させられた)
  14. ^ ルイス・フロイスは親次を徹底的に好意的に描いており、『日本史』の大友氏関連の記事は、大友氏改易後に志賀親次が仕官先を求めて上京したこと、そして“ドン・パウロ(親次)が元どおり領主に収まることは不可能と思われるものの、(中略)我らは彼が、他の地において老関白から俸禄が与えられるのではないかと期待している”という記述で締めくくられている。
  15. ^ 異説として、『大友興廃記』などでは他の人物が進言したとする。また、外山幹夫などは九州征伐で親次が活躍した事を妬んだ人物の中傷の可能性が高く、親次が主体となって撤退を進言したとする説に異論を唱えている。

出典

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  1. ^ a b c d e f 大友氏顕と志賀親度」(PDF)『大友氏顕彰会だより おおとも』第23号、2016年2月1日。 
  2. ^ 田北学の『増補訂正編年大友史料』や毛利家史料『右田毛利家文書』、『陰徳太平記』によると「宗麟はおじ服部右京亮の嫁(奈多夫人)を奪い、彼女に生まれた子は小早川秀包の嫁・毛利マセンシア」。『フロイス日本史』によると、奈多夫人は大友宗麟の親戚・先夫との1人娘が志賀家(志賀親度)に嫁ぐ、宗麟との娘は毛利マセンシア。

参考文献

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  • ルイス・フロイス 著、松田毅一;川崎桃太 訳『完訳フロイス日本史 8 大友宗麟篇III 宗麟の死と嫡子吉統の背教』中央公論社〈中公文庫〉、2000年。ISBN 4-12-203587-2 
  • 児玉幸多坪井清足監修『日本城郭大系 第16巻 大分・宮崎・愛媛』新人物往来社、1980年。
  • 外山幹夫『大友宗麟』吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年。ISBN 978-4642051392 
  • 国指定史跡 岡城跡

関連項目

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