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本来の表記は「慕容廆」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

慕容 廆[1](ぼよう かい、拼音:Mùróng Guī、269年 - 333年)は、鮮卑慕容部の大人(部族長)(在位:285年 - 333年)。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の出身。[2]弈洛瓌[3]。父は慕容渉帰、兄に慕容吐谷渾、弟に慕容運がいる。遼西・遼東地方においてその勢力を拡大させて国家体制を整備し、後に前燕が覇権国家となるための基盤を築き上げた。その為、実質的な前燕の初代君主に数えられる事もある。子の慕容皝が燕王に即位すると武宣王と追諡され、さらに孫の慕容儁が帝位に即くと武宣皇帝と追諡され、廟号を高祖とされた。

生涯編集

大人位を継ぐ編集

269年、大人の慕容渉帰の子として生まれた。棘城で生まれたが、やがて父に従って遼東の北へ移った。

283年、慕容渉帰がこの世を去った。本来は嫡男である慕容廆が後を継ぐはずであったが、叔父の慕容耐は位を簒奪して大人となった。彼はさらに慕容廆の謀殺を目論んだが、慕容廆はこれを事前に察知して逃亡を図り、慕容耐の派遣した追っ手より追撃を受けながらも遼東に住む徐郁という人物の下まで逃走した。徐郁は彼を匿って家屋の中に入れて席の裏側に隠れ潜ませ、追っ手もまた家屋に浸入してその姿を捜索したが、遂に見つけることは出来ずに引き返した。これにより慕容廆は難を逃れる事が出来た。

285年、部下の裏切りにより慕容耐が殺害されると、慕容廆は部族の民より迎え入れられ、大人の地位を継承する事が出来た[4]

西晋との争い編集

昌黎を侵犯編集

元々、慕容部は魏晋朝廷に従属していたが、慕容渉帰の時代になると西晋に離反して昌黎郡へ攻め入るようになり、その関係は悪化していた。

また当時、同じ鮮卑族である宇文部は遼西地方において強盛であり、慕容部とは父の代より対立しあっていた。285年、慕容廆は父の恨みを晴らそうと考え、西晋朝廷へ宇文部討伐の許可を求めたが、認められなかった。慕容廆はこれに怒って遼西へ侵攻すると、多数の人民を殺戮して物資を略奪した。これを受け、武帝幽州の諸軍に慕容廆を討伐させ、慕容廆は肥如においてこれを迎え撃つも大敗を喫してしまい、その軍を撤退させた。しかし、これ以後も慕容廆は連年に渡り昌黎へ襲来しては略奪を繰り返したという。

夫余を攻撃編集

同年、東へ進んで夫余を攻撃し、その首都の城を攻め落とした。夫余王依慮は自害し、その子弟は逃走して沃沮の土地へ逃れ、慕容廆は1万人余りを鹵獲して帰還した。

286年夏、遼東へ侵攻した。同時期、夫余王依慮の子である依羅は祖国復興の為、西晋の東夷校尉何龕に救援を要請した。何龕はこれに応じて督護賈沈を差し向け、沃沮に拠っていた依羅を保護して故地へ送った。これを察知した慕容廆は配下の将軍孫丁に騎兵を与え、行軍路を阻ませて賈沈を攻撃させたが、孫丁は返り討ちに遭って斬り殺された。こうして夫余は復興されたものの、慕容廆はその後もたびたび夫余に侵入してはその民衆を捕らえ、中国に売りさばいたという。その為、武帝は国の資産で夫余の奴隷を買い戻し、さらに司州冀州では夫余人の売買を禁止させた。

帰順を決断編集

289年4月、慕容廆は側近と協議した末に「我が先公は代々、中華(ここでは魏王朝・晋王朝を指す)を奉じてきた。その上、華夷の理(漢民族と異民族の風俗や礼儀)は同一では無く、その強弱は比べるまでもなく明らかだ。どうして晋国と競い合う事など出来るであろうか。どうして不和となって我が百姓に害を及ぼすことが出来ようか!」と宣言し、西晋への帰順を決断した。そして朝廷へ帰順の使者を派遣すると、武帝はその到来を喜んだ。5月、慕容廆は鮮卑都督[5]に任じられた。

これ以降、晋朝の庇護を得た慕容廆の威徳は日を追う毎に広がっていったので、同じ鮮卑族であり遼西地方に勢力基盤を築いていた宇文部や段部は併呑されるのを次第に恐れるようになり、絶えず慕容部の領土を侵攻略奪するようになった。それでも慕容廆は彼らと交流する際には礼儀正しく謙虚に振る舞い、手厚い贈り物をして慰撫に努めた。また、段部の単于段階の娘を娶って正室とし、段部とは姻戚関係を結ぶ事で関係を強化した。妻の段夫人との間には、慕容皝慕容仁慕容昭の三子をもうけた。

勢力を拡大編集

遼西へ移る編集

同年、遼東が僻地であった事から、遼西に移住して徒河の青山(現在の遼寧省錦州市義県付近)を本拠地とした[6]

294年五帝の一人である顓頊の墳墓があるという棘城[7](現在の遼寧省錦州市義県の南)に拠点を移した。農業と養蚕に力を注ぐと共に、中国と同じ法律や制度を整えていった。

301年から302年[8]、燕の地方(幽州一帯)で大洪水が発生した。これを受け、慕容廆は倉を開放し、幽州の人民へ食糧を支給して救済に努めた。これにより恵帝より大いに称賛され、命服(官僚がその等級に応じて着用する礼服)を下賜された。

宇文部を逆撃編集

302年、宇文部の単于宇文莫珪は弟の宇文屈雲や同族の宇文素延[9]を派遣し、宇文屈雲には慕容部の領土周辺へ侵攻させ、宇文素延には慕容部に従っていた諸部族を攻撃・略奪させた。慕容廆は自ら軍を率いて出撃すると、宇文素延を迎撃してこれを撃ち破った。宇文素延はこの敗戦を大いに恥じ、雪辱を期して10万の兵を率いて棘城を包囲した。これに城内の民はみな震え上がったが、慕容廆は「素延軍は蟻の様に群がっているが、その軍は統制が取れておらず、既に我の計中にある。諸君らはただ力戦すればよい。憂えることなど何も無い!」と鼓舞した。そして自ら甲冑を身に纏って馬を馳せて出撃し、宇文素延軍を再び大破した。さらに敗走する敵軍を百里に渡って追撃し、捕縛とするか討ち取った者は1万人を超えた。

遼東人の孟暉は元々宇文部の傘下にあったが、今回の敗戦により離反し、自らが従えていた数千家を引き連れて慕容廆に帰順した。慕容廆は孟暉を建威将軍に任じると共に、配下の慕輿句と慕輿河はいずれも才能を有していたので、慕輿句には府庫の管理を任せ、慕輿河には訴訟の裁決を任せた。

拓跋部との修好編集

307年、慕容廆は鮮卑大単于を自称した。単于とは主に匈奴族で用いられている君主号であり、数ある鮮卑族の中でも自らが頂点であると標榜した事になる。

またこの年、代の地において勢力を拡大していた拓跋部の大人拓跋禄官がこの世を去った。彼らもまた慕容部と同じ鮮卑族であるが、拓跋禄官の時代(295年から307年頃)に慕容廆は東部拓跋部(この当時拓跋部は西・中・東の3部に分かれていた)へ侵攻して各地を荒らし回った事があり、拓跋普根より攻撃を受けて撤退していた。これもあって両者の関係はあまり良好とは言えなかったが、後を継いだ大人の拓跋猗盧の時代になると、次第に修好を深めるようになったという。

素喜連・木丸津を討伐編集

309年、西晋の東夷校尉李臻は側近の王誕や遼東郡太守龐本と共に謀議し、幽州で自立色を鮮明にしていた司空・都督幽州諸軍事王浚の討伐を目論んでだが、龐本の裏切りにより李臻が殺害されて王誕は慕容廆の下へ亡命した。これにより遼東の辺境に割拠していた鮮卑族素喜連木丸津が李臻の報復を掲げて挙兵する騒ぎとなり、彼らは連年に渡り遼東の諸県を侵略して殺害と略奪の限りを尽くし、州郡の兵は度々敗北した。後任の東夷校尉封釈(封奕の祖父)は龐本を誅殺するも素喜連らの暴走は止まらず、後任の遼東郡太守袁謙もまたこれを撃退出来なかった。封釈は遂に討伐を諦めて講和を求めたが、これも拒否された。民百姓はまともに生活する事が出来ず、慕容廆の領内には日を追う毎に多くの流民がやって来た。慕容廆は流民達へ備品や食料を支給し、郷里に帰る事を望む者は送り届けてやるなど、彼らの慰撫に努めた。

311年12月、庶長子慕容翰は慕容廆の下へ進み出て「主君となった人間は、まず国家への忠誠を大義名分として掲げて民衆の心を掴み、遂には大業を成就したものです。素喜連と木丸津は龐本討伐を口先で叫んでいましたが、その実、動乱をこれ幸いと乗じているだけです。その証拠に封釈が龐本を誅殺して講和を求めたにもかかわらず、彼等は略奪を止めておりません。中原が乱れてから久しく、州の軍隊では兵力が足りておらず、遼東はこれだけ荒れきっているのに、救済する者がおりません。今こそ、単于(慕容廆)が彼らの悪行を数え上げてこれを討伐するべきです。そうすれば、晋へ対しては遼東復興を名目と説明できますし、実益としては素喜連・木丸津の兵力を吸収できます。 本朝(晋)には忠義を取り、私利は我らが元へ入る。これこそ王業の基礎となります」と献策を行った。これを聞いた慕容廆は笑って「まだ子供だと思っていたら、いつの間にかそんな知恵を身につけておったか」と感嘆し、その勧めに従った。そして素喜連・木丸津討伐の兵を挙げて東へ進撃すると、慕容翰を討伐軍の前鋒に据えて敵軍を大破し、素喜連・木丸津を討ち取った。こうして両部族の民を尽く降して3千家余りを傘下に引き入れると、彼らを棘城に移住させ、さらに遼東郡を設置してから軍を返した(当時既に洛陽は陥落して懐帝は捕虜となっており、西晋の支配体制は完全に崩壊していたので、改めて設置し直したのだと思われる)。かつて移住してきた民の大半は遼東郡から来ていた者だったので、その治安を回復させた慕容廆は遼東でも大いに慕われるようになった。

王浚・愍帝からの任官編集

洛陽が陥落して懐帝が捕らわれの身となって以降、幽州に割拠する王浚は自らの独断で承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)を行うようになっていた。慕容廆もまた散騎常侍・冠軍将軍・前鋒大都督・大単于に任じられたが、彼は皇帝の命令で無い事からこれを受けなかった。

313年4月、王浚は段部の大人段疾陸眷討伐を目論み、慕容廆と拓跋猗盧に協力を持ち掛けると、慕容廆は利害が一致していた事からこれに応じ、慕容翰を出撃させた。慕容翰は徒河・新城を攻略して陽楽まで至ったが、拓跋猗盧が派遣していた拓跋六脩が段疾陸眷に敗れて撤退したと聞き、進軍を中止した。そして徒河まで後退すると、青山を背にしてこの地に拠点を築いた。

建興年間(313年から317年)、長安で即位した愍帝もまた慕容部へ使者を派遣し、慕容廆は鎮軍将軍に任じられ、昌黎・遼東の二国公に封じられた。

統治体制を確立編集

人材を招聘編集

当時、中原は相次ぐ乱により荒廃しており、多くの民が幽州を治める王浚を頼った。だが王浚は彼らをうまく慰撫出来ず、政法も整っていなかったので、多くの者が離反した。段部にもまた多くの民が帰順したが、彼らは武勇を有していたものの、士大夫を礼遇しなかった。ただ、その中にあって慕容廆の政事は公正であり、人物を重んじたので、士民の多くが彼の下へ身を寄せた。慕容廆はその中から俊才な者を抜擢し、その才能に適した職務を与えた。この中には、後に国家の中枢を担う人材が多数集結している。

かつて慕容廆が素喜連らの乱を鎮圧して以降、東夷校尉封釈とは修好を深めるようになっていた。彼はその後間もなく亡くなってしまったが、死ぬ間際にまだ幼かった孫の封奕を慕容廆に託していた。慕容廆はその遺言に従って封奕を招き、共に語らい合ったところ「まさしく奇士(才智が突出している人の事)である!」と感嘆し、自らの傘下として迎えた。さらには封釈の子である封悛封抽もまた父の喪に服す為に慕容廆の下を訪れており、慕容廆は彼らと会うなり「この家の者が相次いで下ってきているのは、千斤の犍(去勢された雄牛)の価値がある」と喜び、彼らもまた仕官させた。

河東出身の裴嶷やその甥の裴開は、兄の玄菟郡太守裴武が亡くなった為に郷里へ戻ろうとしていたが、道が断絶されていた為に方針を転換して慕容廆に帰順した。これを知った慕容廆は大喜びで彼らを出迎えた。

広平出身の游邃魏郡出身の黄泓北海出身の逄羨西河出身の宋奭らは元々永嘉の乱を避けて王浚の本拠地であるに避難していたが、やがて王浚を見限って慕容廆に帰順した。平原出身の宋該劉翔らもまた元々王浚に帰順し、次いで段部にも身を寄せたが、いずれも君主の器ではないと考え、諸々の流民を引き連れて慕容廆へ帰順した。

右北平出身の陽耽は清廉で沈着機敏である事で評判であり、西晋遼西郡太守であった。313年に慕容翰陽楽を攻め落とした際に捕らえられたが、慕容廆はこれを礼節をもって迎え入れ、仕官させた。

安定出身の皇甫岌とその弟の皇甫真は慕容廆と西晋の東夷校尉崔毖の双方から招聘を受けていたが、慕容廆の方を選んで帰順した。

遼東出身の張統は楽浪と帯方の2郡において勢力を築いており、高句麗と連年に渡り争っていた。楽浪出身の王遵は張統を説得して慕容廆への帰順を持ち掛けると、張統はこれに同意して千家余りを率いてその傘下に入った。慕容廆は楽浪郡を設置すると、張統を太守に、王遵を参事に任じた。

慕容廆は裴嶷・陽耽・黄泓・魯昌を謀主(外交・内政・軍略に関わる役職)に、游邃・逄羨・宋奭・西方虔・封抽・裴開を股肱(謀主に次ぐ側近)に任じ、宋該・皇甫岌・皇甫真・繆愷劉斌・封奕・封裕には枢要(国家機密)を主管させた。こうして統治体制を強固なものにした。

314年4月、漢(後の前趙)の征東大将軍石勒が薊城を攻め落とし、王浚は処刑された。王浚配下の会稽出身の朱左車・魯国出身の孔纂・泰山出身の胡毋翼の3人は薊から昌黎に逃走すると、慕容廆に帰順した。

この時、中国流民で慕容廆に帰順する者は数万家を超えており、慕容廆は冀陽郡を設置して冀州からの流民を住まわせ、成周郡を設置して豫州からの流民を住まわせ、営丘郡を設置して青州からの流民を住まわせ、唐国郡を設置して并州からの流民を住まわせた。

東晋に従属編集

317年3月、江南に勢力を構えていた琅邪王司馬睿が晋王を名乗った。司馬睿は承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)を行い、遼西へも使者を派遣して慕容廆を仮節・散騎常侍・都督遼左雑夷流人諸軍事・龍驤将軍・大単于に任じ、昌黎公に封じる旨を伝えたが、慕容廆は当初司馬睿の事を軽んじていたので、固辞して受けなかった。だが、征虜将軍魯昌は「今、両京(洛陽、長安)が傾没し、天子が蒙塵(異常事態により皇帝が宮殿から離れる事)なさっております。琅邪王(司馬睿)は江東の地で承制を行い、四海を繋ぎ止めております。明公(慕容廆)は海朔(北方の辺境)に雄拠して一地方を統括しておりますが、諸部落にはなお兵を阻んで服従しようとしない者もおります。これは明公の官位が王命によるものではないからです。琅邪王へ使者を送り、大統を承る(皇帝に即位)する事を勧めるべきです。その後にその詔を奉じた上で討伐に当たれば、誰が逆らいましょうか!」と述べた。在野の士である高詡もまた、馬を走らせて慕容廆の下を訪れると、慕容廆へ「覇王の資格は義なくして成り立ちません。今、晋室は衰微したといえども、人心はなお慕っております。どうか江東へ使者を派遣し、尊皇の姿勢を示されますよう。その後に大義を堂々と討ち鳴らして諸部落を討伐すれば、誰がこれに逆らいましょうか。これこそが覇王の資格となるのです」と勧めた。慕容廆はこれらに従って長史王済を海路より建康へ派遣すると共に、高詡を取り立てて郎中令に任じた。

318年3月、司馬睿が皇帝に即位する(東晋の元帝)と、謁者陶遼を使者として再び慕容廆の下へ派遣して、以前授けた官爵を受けるよう述べた。慕容廆は官職については受けたが、昌黎公の爵位については固辞した。こうして東晋の後ろ盾を得た慕容廆は、游邃を龍驤長史に、劉翔を主薄に任じ、彼らに府朝の儀法(地方政府としての儀礼や法律)を制定させた。また、裴嶷は慕容廆へ「晋室は衰えて江東へ追いやられ、その威徳は遠方まで及びません。中原の動乱を救済するには、明公(慕容廆)といえども力不足です。今、諸部は各々軍備を擁しているとは言え、頑愚な連中の集まりですから、次第に蚕食していくべきです。これらを併合して領土を増やし、西方を平らげる足掛かりとしますように」と進言すると、慕容廆は「壮大な計画であり、我には考えもつかなかった。君は朝廷においては名の知られた名士なのに、我を僻遠の出身と侮らずに教授してくれる。我に国を興させるため、天が君を下賜してくれたのだろうな」と喜び、裴嶷を改めて長史に任じ、軍務と国政の謀略については彼に一任した。これを受け裴嶷は遼東・遼西に割拠する弱小の部族から順を追って勢力下に引き入れ、少しずつ慕容廆の勢力を拡大させていった。

遼東・遼西の覇権国家へ編集

三国連合の襲来編集

319年12月、平州刺史・東夷校尉崔毖は東方異民族の管轄と遼東の統治をその任務としていたが、多くの民が崔毖よりも慕容廆の下に集っていたので、その人望を妬んでいた。また、幾度も士民を招聘していたにも関わらず誰も来る事が無かったので、慕容廆が無理やり拘留しているのだと考えた。遼東・遼西に割拠する高句麗・宇文部・段部もまた慕容部の勢力拡大を危惧していたので、崔毖は密かに彼らと連携して慕容部討伐をなさんとし、三国もまた要請に応じて各々軍を動員し、慕容部へ侵攻させた。

これを受け、慕容部の諸将は迎撃を請うたが、慕容廆は「奴等は崔毖の誘いに乗り、一切の利益を持ちからんとしている。軍勢は初めて合わさったばかりだが、その勢いは甚だ鋭く、まともに争うべきではなく、固守して戦意を挫くべきだ。奴らは烏合の衆に過ぎず、統制がとれておらず、互いに信用しあっていない。時が経てば必ずや疑心を抱くであろう。一つは吾と崔毖が密約を交わして逆に襲われるのではと疑い、二つは三国が互いに猜忌し合うであろう。その人情が離間するのを待ち、然る後にこれを撃てば、必ず破れるであろう」と述べ、持久戦に持ち込んで内部崩壊を待つよう命じた。三国が棘城に攻撃を仕掛けると、慕容廆は門を閉じて籠城すると共に、宇文部の下に使者を送って牛肉や酒を手厚く贈り届けさせ、大きな声で「崔毖から昨日、使者が来ましたぞ」と使者に話させた。これを伝え聞いた二国は、宇文部と慕容廆が裏で通じているのではないかと疑い、兵を退却させた。

だが、宇文部の大人宇文遜昵延だけは攻略の意志を崩さず、兵力は数十万を数え、陣営は四十里も連なっていた。内外の人々は動揺し、慕容廆が裴嶷へ対応策を問うと、裴嶷は「遜昵延(宇文遜昵延)は大軍を擁してはおりますがその軍に号令はなく、もし精兵を率いて隙に乗ずれば必ず捕らえる事が出来るでしょう」と語った。また、慕容廆は徒河にいる慕容翰に救援を乞うたが、慕容翰は使者を派遣して「遜昵延(宇文遜昵延)は国を挙げて来寇しました。敵軍と我等は多勢に無勢であり、計略を使えば易々と打ち破れましょうが、力攻めで勝つのは難しいでしょう。城内の兵だけでも防ぐだけなら十分でしょうから、この翰(慕容翰)は外で遊撃隊となって敵を撹乱し、隙を見つけてこれを撃ちます。内外共に奮戦すれば、敵は震え上がって為す術もなく、敗れるのは必定といえます。今、我が城内に入って軍を一つにしてしまえば、敵は城攻めだけに専念できます。それは上策ではありません。それに、防戦一方の逃げの姿勢を部下へ示すことにも繋がり、戦う前に味方の士気が萎えてしまうことも危惧されます」と答え、救援に向かわずに外で遊撃隊となり、敵を擾乱すると伝えた。これを読んだ慕容廆は、息子が臆病風に吹かれて参戦を拒絶したかと疑ったが、韓寿が「遜昵延(宇文遜昵延)は勢いこそ盛んでありますが、将は大軍である事に驕っており、兵卒は怠けており、軍律は厳しさを欠いております。もし奇襲を掛けて敵の不意を衝けば、必ず撃破できることでしょう」と進言して慕容翰の作戦に同意したので、慕容翰が徒河に留まることを許した。

宇文遜昵延は慕容翰が徒河から動かない事を知り、別動隊として数千騎を派遣して慕容翰を襲撃させたが、慕容翰は段部の使者を偽って敵軍を誘い出すと、伏兵をもって一斉に奇襲し、奮戦して敵兵を尽く捕らえる事に成功した。さらに慕容翰は勝ちに乗じると棘城へ使者を派遣して慕容廆へ出撃を請うた。慕容廆は裴嶷と慕容皝に精鋭を与えて先鋒とし、自身は大軍を率いて後続となり、方陣を組んで進軍した。宇文遜昵延は慕容廆が籠城するとばかり思い込んでおり、全く備えをしていなかったため、その襲来に驚いて慌てて全軍を出陣させた。慕容翰はこの隙に宇文遜昵延の陣営へ突入して焼き払っていった。宇文部軍は大混乱に陥って大敗し、宇文遜昵延は体一つで逃げ出した。慕容廆は敵の兵卒のほとんどを捕虜とし、更に皇帝の玉璽三紐を手に入れた。

崔毖は三国連合の敗戦を知り、慕容廆に誅殺されるのを恐れ、敢えて知らない振りをして甥の崔燾を棘城へ派遣して戦勝を祝賀させた。だが、それより早く三国の使者が棘城へ到来しており、今回の戦役が崔毖のたくらみである事を告げ、和平を請うていた。慕容廆はそれらの書状を崔燾へ突きつけて武装兵で脅し「汝の叔父は三国に我を滅ぼすよう言っておきながら、今また汝を偽りの賀に赴かせたのか」と言うと、崔燾は恐れて全てを漏らした。慕容廆は崔燾へ「降伏は上策。逃げるは下策である」という伝言を遺し、兵を伴わせながら崔毖の下へ返した。崔毖は大いに恐れて数十騎と共に城を棄てて高句麗へ逃げ、その兵は尽く慕容廆に帰順した。また、子の慕容仁を征虜将軍に任じて崔毖に代わって遼東を鎮守させたが、官府や村落には手出しをせず、民衆の生活をこれまで通り保証した。

高句麗を攻撃編集

同月、高句麗の将軍如奴子は一連の戦役に乗じて遼東の河城(現在の遼寧省遼陽市の北東)を占拠していたが、慕容廆は将軍張統を派遣してこれを攻撃させた。張統は城を急襲して如奴子を生け捕りにし、千家余りを捕虜にした。この中には崔毖の旧臣である崔燾・高瞻韓恒石琮らがいたが、慕容廆は彼らを棘城に移すと、賓客として礼遇した。

これ以降、高句麗美川王は度々兵を派遣して遼東を襲撃したが、慕容廆は慕容翰と慕容仁にこれを阻ませた。美川王が和睦を請うと、慕容翰らを撤退させた。

この年、西晋の東莱郡太守であった鞠彭が北海出身の鄭林と共に慕容廆に帰順した。慕容廆は鞠彭を龍驤参軍事に任じると共に、鄭林には車牛や粟帛を送ったが、彼はいずれも受けずに農民の生活を営んだ。

遼東公に冊封編集

同年、宋該は建議して、三国連合撃退の戦果を江東(東晋朝廷)へ報告するよう提案すると、慕容廆はこれに同意して宋該を正使、裴嶷を副使とし、宇文部から奪った玉璽を携えて江東へ派遣した。

320年3月、裴嶷らは建康に到着すると、当初、東晋朝廷は慕容廆の勢力が遠方にあり、また彼の事を東夷の末裔に過ぎないと考えていた事から、軽い処遇だけで済ませようと考えていた。だが、裴嶷は慕容廆の威徳を盛んに称え、彼が賢人・俊才を重用していると述べたので、これ以降考えを改めるようになった。元帝は裴嶷らの帰還に併せて使者を随行させ、慕容廆を監平州諸軍事・安北将軍・平州刺史に任じ、1千戸を加増させた[10]

321年12月、東晋より使者が到来し、持節・都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州に任じられ、遼東郡公に冊封された。食邑は1万戸とされ、侍中[11]・単于の位についてはこれまで通りとされた。また、東晋より謁者が派遣され、丹書鉄券の印綬を下賜され、遼東地方におけるの承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)の権限を与えられ、官司を備えて平州守宰を置くよう命じられた。こうして正式に官僚を置くことを許された慕容廆は、裴嶷・游邃を長史に、裴開を司馬に、韓寿を別駕に、陽耽を軍諮祭酒に、崔燾を立簿に、黄泓と鄭林を参軍事に任じた。朱左車・孔纂・胡毋翼は徳に優れて清廉な老臣であった事から、賓客とした。また、嫡男の慕容皝を世子に立て東楼(世継ぎの住む建物)を作り、慕容翰には遼東を、慕容仁には平郭を統治させた。慕容翰・慕容仁はいずれも任地を良く慰撫し、大いに治績を上げた。

平原出身の劉賛は儒学に精通していたので、慕容廆は彼を東庠祭酒(東庠とは東の学校、祭酒とは学政の長官を意味する)に抜擢し、世子の慕容皝のみならず、重臣の子弟にも束脩して講義を受けさせた。自身も政務の暇を見つけては講義に臨んだ。これによって、道端でも頌声(慕容廆の功徳を称える声)が起こるようになり、礼譲(礼儀正しい謙遜した態度や振る舞い)が盛んに行われるようになった。

宇文部・段部との抗争と東晋との修好編集

322年12月、段部は長年の内部抗争を経て段末波により統一されたが、未だに防備が整っていなかった。慕容廆はこれを好機とみて、慕容皝を令支(段部の本拠地)に侵攻させると、慕容皝は千家余りの民と名馬や宝物を略奪してから帰還した。

323年4月[12]後趙の君主石勒が慕容部へ使者を派遣し、慕容廆と同盟を求めた。慕容廆は東晋を奉じていたのでこれを拒絶し、使者を捕らえると東晋朝廷に送った。石勒はこれを知ると激怒した。

324年7月、東晋より使者が到来し、5千戸を加増されると共に、その苦労を労われた。

325年1月、石勒は宇文部の大人宇文乞得亀に官職を与えると、慕容廆を攻撃させた。慕容廆は慕容皝を総大将として迎撃を命じると共に、遼東相裴嶷を右部都督に任じて、協力に応じてくれた拓跋部と段部の兵を指揮させて軍の右翼とし、慕容仁を平郭より呼び寄せて柏林に向かわせて軍の左翼とした。宇文乞得亀は澆水に布陣して砦を固く守り、兄の宇文悉跋堆に柏林の慕容仁を攻めさせた。慕容仁はこれを返り討ちにして宇文悉跋堆を斬り殺すと、その兵を尽く捕虜とした。さらに勝ちに乗じると、慕容皝と合流して宇文乞得亀の本隊に攻撃を仕掛けて大勝した。これにより宇文部軍は崩壊して宇文乞得亀は軍を捨てて逃亡を図ったので、慕容仁は慕容皝と共に宇文部の都城へ侵入した。同時に、軽騎兵を派遣して宇文乞得亀を追撃させ、三百里余り追い立てた所で引き返した。この戦勝により重宝を尽く獲得し、畜産は百万を数えた。また、帰順した人民は数万にも上った。

3月、段部の大人段末波が没すると、弟の段牙が後を継いだ。これ以降、慕容廆は段牙と修好を結ぶようになった。

11月、慕容廆は段牙へ建議して遷都を進めると、段牙はこれに同意して令支から都を移した。だが、これに部族の民は大いに不満を抱き、12月には段遼が部族の民を率いて段牙を殺害し位を簒奪した。

326年9月、東晋より使者が到来し、侍中を加えられ、位は特進となり、それ以外の官職はこれまで通りとされた。

327年2月、慕容廆は東晋へ使者を派遣し、爵位については固辞すると告げたが、朝廷は認めなかった。

330年春、東晋よりまたも使者が到来し、開府儀同三司を加えられたが、これを固辞して受けなかった。

王位要求と最期編集

331年、側近の宋該らが協議して「将軍(慕容廆)は中華の一角で功績を挙げられましたが、その任に対して官位は低いと考えます。周辺の者と同等の官位では、乱を鎮めることはできません。上表して官爵を進めるよう要請すべきです(既に現在は公の位にあるので、王の位を求めるべきと言っている)」と勧めると、これに参軍韓恒は「功業を建てる人物というのは、信義が褒めらずとも、名位が低くとも気にかけないものです。桓公文公は衰退した王室を復興した後に、覇者の称号を得たのです。まず軍備を整えて逆賊を掃討し、功績を築き上げれば、九錫といえども自ずと下賜されましょう。にもかかわらず、主君(東晋)を脅して寵を求めるという行いがどうして栄誉といえましょう!」と反対した。慕容廆はこれに気分を害し、韓恒を新昌県令へ左遷した。

こうして慕容廆は宋該らの建議に応じ、まずは東晋において強大な実権を持っている太尉陶侃へ使者を派遣し、共に北伐の兵を挙げて中原を鎮めることを提案する文書[13]を渡そうとした。だが使者は暴風により海で没してしまったので、改めて東夷校尉封抽・行遼東相韓矯ら30人余りに上奏文[14]を与えて、陶侃のいる太尉府へ派遣した。この文書もまた前回と内容の方向性は同じであったが、今度は直接的には慕容廆を燕王に封じ、大将軍に任じるよう要求するものであった。陶侃はこれに返書[15]を送り、この要請を朝廷の議題に上げる事を約束したが、朝廷においてこれが議決される事は無かった。

332年3月、後趙より使者が到来し、修好を深める事を請うてきたが、慕容廆は拒絶した。

333年5月、慕容廆は病により文徳殿で没し、青山に埋葬された。享年65。49年の治世であった。成帝は使者を派遣して、慕容廆に大将軍・開府儀同三司を追贈し、襄公した。

やがて子の慕容皝が燕王に即位すると武宣王と追諡され、さらに孫の慕容儁が帝位に即くと武宣皇帝と追諡され、廟号を高祖とされた。

人物編集

幼い頃から体躯が大きく美しい容貌をしており、成長すると身長は八尺にまでなった。性格は勇ましく、度量が広かったという。

その政事は公正であり、人材を重んじたので、中原で頻発していた騒乱を避けて多くの士民が身を寄せるようになった。慕容廆はその中から賢人を選んで才能に応じた役職を与えたので、国家は大いに発展したという。

逸話編集

  • 慕容廆がまだ幼かった頃、西晋の安北将軍張華と会う機会があった。張華は人物鑑定眼を持っており、慕容廆の姿を見ると大いに驚嘆し「君は成長すれば、必ずや命世の器となるであろう。難を正し、時を救う者である」と言った。また、身に付けていた頭巾を外すと、丁寧に慕容廆に結び付けてから別れを告げたという(張華と出会った具体的な時期は不明だが、張華が安北将軍・都督幽州諸軍事として幽州に赴任し、異民族の慰撫に力を注いでいた282年頃の話だと思われる)。
  • 兄の慕容吐谷渾は庶子(側室の子)であった事から後継には立てられなかったが、父の慕容渉帰は生前に慕容吐谷渾の為に1700戸を分け与えていたので、慕容廆が大人位を継いで以降は慕容吐谷渾と共にその部族を分割統治する形となった。そ以降、両者は共に馬を牧して生活していたが、ある時お互いの馬が喧嘩して怪我をしてしまった。慕容廆はこれに怒って直ちに使者を派遣すると「先父の命により部族を分けたというのに、どうして遠くに離れなかったのか。それ故に馬が争うことになったではないか!」と叱責したが、これに慕容吐谷渾もまた怒って「馬とは所詮家畜であり、草を食んで水を飲み、春になれば争うのが習性である。どうして馬の争いで人が怒ろうか!もし遠く別れたいというのであればそれは容易な事である。このまま留まって後で難が起こる方が恐ろしい事だ。我は汝から万里の彼方へ去るとしよう」と述べ、自らの部衆と馬を率いて郷里を離れると、西へ移動を開始した。その後、慕容廆は自らの発言を後悔し、長史の乙那楼馮を派遣してその後を追わせ、謝罪して彼を留まらせようとしたが、遂に帰って来る事はなかった。慕容廆は兄を追慕して阿干の歌(遼西では兄の事を阿干と呼んだ)を作り、孫の慕容儁が帝を称すると国家の歌として用いられるようになったという。後に慕容吐谷渾の子孫は青海地方に移り住んで吐谷渾と名乗り、7世紀頃まで青海一帯を支配して大いに栄えた。
  • 慕容廆が西晋に帰順した後の事、彼は東夷府(東夷校尉の役所)を表敬訪問し、当時の東夷校尉である何龕に謁見した(東夷校尉とは東方の異民族を管轄する軍政務官である)。この時、彼は漢人の風習に合わせて巾衣を身に着け、士大夫が貴人と接する際の礼儀を踏襲した。しかし、何龕は武装した兵を伴って引見したので、慕容廆は服を戎衣に改めてから入室した。ある人がその理由を問うと「主人が礼を以って客に接していないというのに、どうして客がそれをなそうか!」と答えた。何龕はこれを聞くと自らの行いを大いに恥じ入り、次第に慕容廆へ畏敬の念を覚えるようになったという。
  • 慕容廆が高瞻を捕らえた時、将軍に取り立てようと考えたが、高瞻は病と称して仕官を断った。しかし、慕容廆は幾度も彼の下へ赴いて「君の病の原因はこちら側にあるのだろう。今、晋室は騒乱の最中にあり、我は諸君と共に世難を清め、帝室(晋の皇帝)を翊戴しようと思っているのだ。君は中州(中原)の名族であるが、同じ願いを持つ者同士がどうして華夷(漢民族と異民族)の違いで疎遠にならなければならないのか!そもそも、功業を建てる為にはただ志や計略を問うべきであり、そこでどうして華夷を問うに足りようか!」と述べ、彼の心を慰撫した。だが、それでもなお高瞻は仕官せずに、次第に慕容廆も不満を抱くようになった。龍驤主簿宋該はかねてより高瞻と仲が悪かったので、この状況をみて高瞻を処刑するよう慕容廆に勧めた。慕容廆はこれに従わなかったものの、これを聞いた高瞻は心労の余り亡くなったという。
  • ある時、慕容廆は落ち着いた様子で「獄者は人命を脅かすので、決して赦してはならない。賢人君子は国家の基礎となるので、礼を尽くさなければならない。農業は国の根幹を為すので、急いではならない。酒色や便佞は大いに徳を乱すので、戒めなければならない」と言うと、これらの発言を纏めて家令(家訓)として書を著した。その記述量は数千字に及んだという。

宗室編集

編集

  • 段夫人 - 子の慕容皝が王位に即くと武宣王后と追諡され、さらに孫の慕容儁が帝位に即くと武宣皇后と追諡された。

男子編集

女子編集

脚注編集

  1. ^ 『十六国春秋』によるならば、父の慕容渉帰が遼東の北に移って以降、初めて漢人の風習に倣って姓という概念を持つようになり、慕容という姓を名乗ったという。これが正しいならば、慕容廆が出生時から慕容という姓を持っていたかは不明であり、元々は弈洛瓌と呼ばれていたのを、父に倣って姓を慕容とし、名をに改めたという可能性もある。
  2. ^ 『魏書』吐谷渾伝・『宋書』鮮卑吐谷渾伝では、弈洛瓌を字ではなく別名とする。
  3. ^ 弈洛瓌としているのは『晋書』と『魏書』徒何慕容廆伝である。『十六国春秋』では弈落瓌、『太平御覧』では弈洛環、『魏書』吐谷渾伝・『宋書』鮮卑吐谷渾伝では若洛廆とする。
  4. ^ 『資治通鑑』では285年だが、『十六国春秋』では284年の出来事とする。
  5. ^ 『資治通鑑』には鮮卑大都督ともある
  6. ^ 『資治通鑑』では289年だが、『十六国春秋』では294年の出来事とする。
  7. ^ 大棘城とも
  8. ^ 『晋書』・『十六国春秋』には永寧年間の出来事とある
  9. ^ 『資治通鑑』・『十六国春秋』には素怒延とも
  10. ^ 『十六国春秋』には1千戸、『晋書』には2千戸とある
  11. ^ 『十六国春秋』によるが、これ以前にいつ侍中に任じられたのかは不明
  12. ^ 『資治通鑑』では323年4月頃とする。『十六国春秋』では325年3月とする
  13. ^ 「明公使君轂下:振徳曜威,撫寧方夏,勞心文武,士馬無恙,欽高仰止,注情彌久。王途險遠,隔以燕越,毎瞻江湄,延首遐外。天降艱難,禍害屡臻,舊都不守,奄為虜庭,使皇輿遷幸,假勢呉、楚。大晋啓基、祚流萬節,天命未改,玄象著明,是以義烈之士深懐憤踴。猥以功薄,受國殊寵,上不能掃除群羯,下不能身赴國難,仍縱賊臣,屡逼京輦。王敦唱禍於前,蘇峻肆毒於後,凶暴過於董卓,悪逆甚於傕、汜,普天率土,誰不同忿!深怪文武之士,過荷朝榮,不能滅中原之寇,刷天下之恥。君侯植根江陽,發曜荊、衡,杖葉公之權,有包胥之志,而令白公、伍員殆得極其暴,竊為丘明恥之。區區楚國子重之徒,猶恥君弱、群臣不及先大夫,厲己戒衆,以服陳、鄭,越之種、蠡尚能弼佐勾踐,取威黄池,況今呉土英賢比肩,而不輔翼聖主,陵江北伐。以義聲之直,討逆暴之羯,檄命舊邦之士,招懐存本之人,豈不若因風振落,頓阪走輪哉!且孫氏之初,以長沙之衆摧破董卓,志匡漢室。雖中遇寇害,雅志不遂,原其心誠,乃忽身命。及權據揚、越,外杖周、張,内馮顧、陸,距魏赤壁,克取襄陽。自茲以降,世主相襲,咸能侵逼徐、豫,令魏朝旰食。不知今之江表為賢俊匿智,藏其勇略邪?將呂蒙、凌統高蹤曠世哉?況今凶羯虐暴,中州人士逼迫勢促,其顛沛之危,甚於累卵。假號之強,衆心所去,敵有釁矣,易可震盪。王郎、袁術雖自詐偽,皆基淺根微,禍不旋踵,此皆君侯之所聞見者矣。王司徒清虚寡欲,善於全己,昔曹参亦綜此道,著畫一之稱也。庾公居元舅之尊,處申伯之任,超然高蹈,明智之權。廆於寇難之際,受大晋累世之恩,自恨絶域,無益聖朝,徒系心萬里,望風懐憤。今海内之望,足為楚、漢輕重者,惟在君侯。若戮力盡心,悉五州之衆,據兗、豫之郊,使向義之士倒戈釋甲,則羯寇必滅,國恥必除。廆在一方,敢不竭命。孤軍輕進,不足使勒畏首畏尾,則懐舊之士欲為内應,無由自發故也。故遠陳寫,言不宣盡。」
  14. ^ 「自古有國有家,鮮不極盛而衰。自大晋龍興,克平岷、會,神武之略,邁蹤前史。惠皇之末,後黨構難,禍結京畿,釁成公族,遂使羯寇乘虚,傾覆諸夏,舊都淪滅,山陵毀掘,人神悲悼,幽明發憤。昔獫狁之強,匈奴之盛,未有如今日羯寇之暴,跨躡華裔,盜稱尊號者也。天祚有晋,挺授英傑。車騎將軍慕容廆自弱冠蒞國,忠於王室,明允恭粛,志在立勲。屬海内分崩,皇輿遷幸,元皇中興,初唱大業,粛祖継統,蕩平江外。廆雖限以山海,隔以羯寇,翹首引領,系心京師,常假寤寐,欲憂國忘身。貢篚相尋,連舟載路,戎不税駕,動成義舉。今羯寇滔天,怙其丑類,樹基趙、魏,跨略燕、斉。廆雖率義衆,誅討大逆,然管仲相斉,猶曰寵不足以御下,況廆輔翼王室,有匡霸之功,而位卑爵輕,九命未加,非所以寵異藩翰,敦獎殊勲者也。方今詔命隔絶,王路險遠,貢使往來,動彌年載。今燕之舊壤,北周沙漠,東盡樂浪,西曁代山,南極冀方,而悉為虜庭,非復國家之域。將佐等以為宜遠遵周室,近淮漢初,進封廆為燕王,行大將軍事,上以総統諸部,下以割損賊境。使冀州之人望風向化。廆得祗承詔命,率合諸國,奉辭夷逆,以成桓文之功,苟利社稷,專之可也。而廆固執謙光,守節彌高,毎詔所加,讓動積年,非將佐等所能敦逼。今區區所陳,不欲苟相崇重,而愚情至心,實為國計。」
  15. ^ 「車騎將軍憂國忘身,貢篚載路,羯賊求和,執使送之,西討段國,北伐塞外,遠綏索頭,荒服以献。惟北部未賓,屡遣征伐。又知東方官號,高下斉班,進無統攝之權,退無等差之降,欲進車騎為燕王,一二具之。夫功成進爵,古之成制也。車騎雖未能為官摧勒,然忠義竭誠。今騰箋上聽,可不遲速,當任天臺也。」

参考資料編集

  • 資治通鑑』巻81 - 巻95
  • 十六国春秋』巻23
  • 魏書』(帝紀第一、列伝第八十三、列伝第八十九)
  • 晋書』(武帝紀、元帝明帝紀、成帝康帝紀、四夷伝、慕容廆載記)
先代:
慕容耐
慕容部の大人
第5代:285年 - 333年
次代:
慕容皝