悟り

迷いの世界を超え、真理を体得すること
成道から転送)

悟り(さとり、: bodhi pnse (継続的非記号体験)は、迷いの世界を超え、真理を体得すること[1]覚悟証得証悟菩提などともいう[1][注釈 1]仏教において悟りは、涅槃解脱とも同義とされる[1]

日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する[2]

原語・語義・類語編集

インドの仏教では、彼岸行とされる波羅蜜の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の「さとり」に相当する語が駆使された[3][要検証]

正覚
語頭に"無上"や"等"など何らかの形容語がついたものを含めれば、日本で編纂された三蔵経である大正新脩大藏經に1万5700余みられるが[4]、意味の異なる数種類以上のサンスクリットの単語・複合語の訳として用いられている[5][要ページ番号][要検証]。元となるサンスクリットの原意はその種類によって幅広く、初転法輪にかかわる意味から成仏に近似した意味、智波羅蜜に類した意味にまでに及ぶ[5]
開悟
日本語で悟りを開く意の「開悟」と漢訳されたサンスクリットは数種類ある[6][注釈 2]。いずれのサンスクリットも「仏地を熱望する」など、彼岸行の始まりを示唆する婉曲な表現の複合語で、prativibudda の場合、開悟のほかにも「夢覚已」「従睡寤」と漢訳されることがあった[7]
単独の訳語として用いられる数種類のサンスクリットのうち、日本の仏教で多用される「悟る」もしくはその連用形「悟り」に最も近いサンスクリットの原意は、「目覚めたるもの(avabodha)」という名詞と、「覚された/学ばれた(avabuddha)」という形容詞である[8][要ページ番号][要検証]。これらとは逆に、一つのサンスクリットが複数種類以上の漢訳語を持つケースは珍しくなく、「知」「解」「一致」など数種類の漢訳語を持つ anubodha, saṃvid, saṃjñā などの名詞は「悟」と訳されることもあった[8]
菩提
bodhi の漢訳で、「覚」「道」「得道」などと漢訳される場合もある[9]。大乗経典では「bodhi」を「菩提」と音訳せず「覚」と意訳した新訳があるが、「覚」の訳が当てられたサンスクリットは十種類以上に及ぶ[10][要検証]
阿耨多羅三藐三菩提
大乗経典で多用され[11]、「最も優れた-正しい-知識」「最も勝った-完全な-理解」といった意味あいで[12]、すでに部派仏典に見られる述語である[13]
モークシャ
モークシャには自由の意味があり、最終的な自由を得ることをさす。また、天国地獄を超越した場所として、モークシャを指す場合もある。

各論編集

現代化学的見解編集

PNSE(継続的非記号体験)編集

PNSEとは、”persistent non-symbolic experience”といい、日本語では「継続的非記号体験」と訳されています。 PNSEというのは、アメリカの、ジェフリー・マーティン博士という方が、提唱しているようです。 その研究を始めたキッカケとして、こんなことが書かれています。 Martin博士は、宗教家など、「悟っている」「覚醒している」と言われる人たちの中に、そうした幸福感を持っている人が多いことに気づき、これらの人々に連絡を取って回った。インターネットや図書館で調べたり、人から紹介されたりして、12年間でこれまでに2500人以上にコンタクトを取ってきたという、 継続的非記号体験と言われてもピンと来ないと思いますが、これは簡単に言うと「言語化できないような、雑念のない状態」で落ち着いていることを指しています。 なぜこんなに理解しにくい名前になったのかというと、宗教上の「悟り」の概念がそれぞれの宗教で異なるため、一概に「自我を超越した意識状態」を指すこととされています(参考文献及び抜粋、ブレインクリニック、空白jp)

科学的見解編集

悟った人を「仏」と呼ぶ場合がある。「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている[14]。また、宇宙には、物質の宇宙と意識の宇宙があるとする説がある[注釈 3]

各宗教における悟り編集

仏教編集

釈迦における悟り編集

釈迦(しゃか)は、二十九歳で出家する前にすでに阿羅漢果を得ていたとされ[16][要ページ番号]ピッパラ樹(菩提樹)の下で降魔成道を果たして悟りを開き[17][注釈 4]梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らしたとする[19]

釈迦は悟りを開いた当初、自身の境涯は他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとしたが、梵天勧請を受けて教えを説くようになったと伝えられることから、ブッダの説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、人々をその境地に導くことが、後代に至るまで仏教の根本目的であるとされることがある[1]。一方、藤本晃によれば、南伝仏教であるテーラワーダ仏教では、釈尊は悟りを四沙門果と呼ぶ四段階で語っていたが、釈迦以外の凡夫は悟りを開くことはできないとパーリ語仏典や漢訳阿含経典に書いてあるとする[20]

釈迦は説法の中で自身の過去世を語り、様々な過去の輪廻の遍歴を披露している。

初期仏教編集

ブッダの悟りの内容は、初期仏教においては四諦として体系化された[1]。実践の面では八正道三学)が説かれた[1]。悟りは、言語化されて理解される知的側面だけではなく、八正道や三学に示されるような実践を通じて初めて体得できるとされる[1]

初期の悟りについて編集

初期に作成された経典において、ゴータマ・シッダッタの悟りの内容が異なった伝わり方をしていて、はっきりと定まっていないのは、ゴータマ自身が自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁や相手に応じ異なった説き方をしたためで[21]、 歴史的人物としてのゴータマは、臨終に際しても仏教というものを説かなかったとされている。また、彼が明示したのは、八正道の実践をする人を「道の人」と呼び、その道はいかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道であり、それはこれまでのインド社会に現れたブッダたちの歩んできた道であったということともされている[22]。 原始仏典の古い詩句では、古来言い伝えられた七人の仙人という観念を受け、ブッダのことを第七の仙人としていた[注釈 5]

初期の悟りにおける仏教の位置づけ編集

初期においては、ゴータマが説法することを「梵輪をまわす」と呼んでいた。これは古ウパニシャッドからきており、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があるとされる[注釈 6]

ウパニシャッドでは、「解脱」とは宇宙原理たるブラフマンと自己との合一を意味していた[25]。しかし、初期仏教では人間の理法を体得して、安心立命の境地に至ることが悟りであるとされている[21]。梵我一如を体得した古仙人たちの歩んできた道を歩んだとされるゴータマには、宇宙の真理を悟った人が説法をするという自覚があったが、その悟りの内容は、四諦という言葉によって体系化されているという状況にあることが示され[26]、大乗仏教に至ると、宇宙の真理(法)と一体になることを悟りとする宗派が生まれてきた[27]

ウパニシャドでは、ブラフマンとは宇宙の最高原理とみなされており、この最高原理が人格的に表象されたものがブラフマーであり、創造神とされていた。善い行いをした人が死後天上界に行くとした場合や、自島明におけるなんらかの主体性などの教説から、自然の中には還元しきれない何ものかを仮定している[28]。梵天勧請の経文には、最高原理の人格的な表象として、この世の主ブラフマー神というものが出てくるので、ゴータマの悟達の境地と宇宙の最高原理を悟るということには、何らかの関係があると見ることができる。また、人格的な表象としての梵天による勧請の一段は、後世の追加とする見解もある[29]。ここにあげられている古い詩句は、心の中での出来事を現わしたものとされ、散文の説明は明らかに後世のものであるとされている[30]

ウパニシャッドの哲学の梵我一如の悟達とゴータマの悟達が大きく異なる点は、梵我一如におけるアートマンの存在が存在しないということである。しかし、この点についても初期の仏教には不確かな部分があり、「アートマン」は存在しないとは説いていないとされている。これは、アートマンを実体視しているウパニシャッドの哲学に対して仏教の側が反対しただけの教説にすぎない、というのがその理由となっている。ゴータマの悟りの内容に関しては、アートマンが存在するかどうかについての返答をゴータマが与えなかったものであるとされている[注釈 7][注釈 8]

涅槃について編集

涅槃については、無我的な無余涅槃をしりぞけ、たましいの最上の境地としての有余の涅槃にとどまって、活動してゆくことが目的であるとしていたとされる。 小乗仏教の伝統説では無余涅槃に入ることが修行の目的であったが、ゴータマは無余涅槃に入るという見解は偏見であるとして排斥した。「たましい(霊)の最上の清浄の境地」のうちにあって、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、清浄な行いを存続してゆくことが目的であるとした[注釈 9]

初期仏教における真人となった我とは編集

ゴータマの説法を「梵輪をまわす」と言うときは、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があり、「梵」という語と「ブラフマン」という語は深い関りがあるとされる[24]。ヒンドゥーにおいて世界創造神とされていたブラフマンというのは、当時最高の神と考えられていた。そして、梵天勧請の経文では、その神様がゴータマに説法を始めたとされる。ブラフマンとは、絶対原理であり、宇宙の根本原理のことであるけれども、一般の民衆にはなかなか理解しにくいから、それを人格神(世界の主である梵天)と考えたとする見解もある[34]。また、ブラフマンは大宇宙的概念であり、アートマンは小宇宙的概念とする見方もある[28]ので、後代になって、アートマンの小宇宙的概念が否定されるようになると、真理(ブラフマン)における大宇宙的概念も不明確なものとなったようである[注釈 10]

「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている[35][注釈 11]

ゴータマが実践していたのは、「つとめはげむ道」といって、自己を制することにつとめはげんだこととされている。ただ、それによってさとりを得たとかそういうことは書いてなく、自己を制することのうちにさとりがあるとしていたとされる[37]。人が佛となった転換点は、古来から言われている梵我一如の境地として、問われた時には意識にのぼる程度の通過点にすぎないとみなされていたようだ。自己を調御し、悪魔を寄せ付けず、清浄な行いを久しくし続けるということが、さとり「つとめはげむ道」(さとりの道)であるとされた。

初期の悟りの内容編集

あるバラモンに語ったとされる経文には、四種の禅定を完成して、明知が生まれたことが記されている。第四禅を成就したままにて生じた第一の明知においては、この宇宙が生成と消滅の幾多の宇宙期の過去を有しているものであることまでを知ることに至った[注釈 12]。その第一の明知によって、無明が滅び、暗黒は消滅して、光明が生じたとされている。 第四禅を成就したままにて生じた第二の明知においては、超人的な天眼を用いることが出来るようになり、この世界に生存するすべての衆生が死にまた生まれる様を見ることが出来るようになり、それぞれの生存者の業(内面的な部分)についても明らかに知ることが出来るようになったとされる。さらに、諸々の汚れを滅する智に心を向けたが、その内容については説かれていないとされる[注釈 13]。 そして、第四禅を成就したままにて生じた第三の明知においては、「解脱した(悟った)」という智が起こったが、単なる自覚ではなく、第三の明知とされている。 また、過去現在未来にわたる阿羅漢(等正覚者と同じ)については、心に関して、心でもって知ることが出来るとされている[38][注釈 14]

悟りと慈悲編集

苦行の7年間慈心を修したという詩句が残されているので、慈悲の体現は当初よりゴータマの修行の中心的位置を占めていたとする見解もある[39]

カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められているとされたという[40]。『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇には、カッサパはアーナンダに対して自らの悟りの内容について確認をしている。そこには、空間の無限性や意識の無限性を超越した境地や、宇宙期、他心通、心の解脱と智慧による解脱とを達成したことが記されている。カッサパはバラモン出身で、ゴータマと出会ってから八日目に開悟したとされる[41]。仏教教団が定住生活に移行した後も、林野に住み、厳しい修行生活(頭陀行)を送っていたとされる。[注釈 15]

自覚としての悟りのいろいろ編集

サーリプッタが解脱をしたときに、ゴータマが「再びこの存在に戻ることはないと開悟したことを明言したのか」と問うたとき、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる[43]

聖者ごとに解脱の内容がいろいろであり、聖者ごとに解脱の内容はいろいろで、複数あったとされる[44]。ゴーダマが到達したさとりの境地は深遠で、弟子には到達しがたいという反省から、滅後弟子たちの時代になると、さとりの深浅に応じて四向四果の段階が考えられた[45]

在家信者においても師の話を聞いただけで悟ったという経文は多数あり、その中のある女性は、ある遊園に行った帰りに、ゴータマと出会い、「大いなる仙人のことばを聞いて、真実に通達し、まさにその場で、汚れのない真理の教え、不死の境地を体得しました。」と語ったとされる[46]

悟りと大悟について編集

ゴータマは、自然の中にて行っていた禅定中に、ブッダとなったとされている。そのときの悟りの自覚としては、「わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、頼って暮らすことにした」とされている。この場合の悟りとは、諸仏よりも上位に位置する最高原理(ダルマ)について悟ったということになる[47]。「悟り」に最も近いサンスクリットの原意は、「目覚めたるもの」という名詞であるとされるが、その反対語としては、「目覚めていない状態のもの」という語が考えられる。一般に、目覚めていない状態とは、肉体の目は開いていても、眠っているために、心の働きが外界の動きに反応しない状況であると考えられる。何ものかに覚醒することとなったゴータマの悟りは、それまでは見えていなかった諸仏よりも上位に位置する最高原理の働きを、眼前の風景の中や己自身のうちに感得することができるようになった、ということができる。

人格的な面を持つダルマについて悟ったことを大悟であるとするならば、理法を尊び、敬い、頼って暮らすことは、日常的なさとりの道を歩むことであるとみることができる[48][49][50][51]

修行過程における大悟の時期については、空無辺(物質宇宙空間の無限性や宇宙期の把握)や、意識無辺(過去現在未来の全体における無限の意識主体の総和の認識)の解脱を達成したあたりであると思われる。悟りに対する解釈がさまざまに異なるのは、無余涅槃を求めるグループと有余涅槃のうちにとどまるグループとに「大悟」と呼ばれる悟りが共通している感覚であるためであると思われる。

悟りと解脱について編集

暫時の解脱とは、世間的な禅定という意味を持つとされる。それを得た時に、一時的に諸々の煩悩から解放されているので、このように言う [52]。 解脱には、一時的な煩悩からの解放という面がある。

『スッタニパータ』の例としては、1084~1087において、ある者には解脱を求めよと説いている。この部分の解釈によれば、解脱には修行の目的となる場合がある、ということができる。

また、ある者には1088~1091において、解脱というものはないと説いている。この部分の解釈によれば、解脱には修行の目的とはならないという面がある、ということができる[53]

ゴータマが無余涅槃(肉体の死)に入るときに、第一禅から第四禅を2回繰り返したところを見ると、悟った後の毎日の心の状態を浄化するために、第一禅から第四禅の解脱の段階が用いられたとみることができる。そのため、第一禅から第四禅までの解脱は、個別的な修行者のさとりの段階を表すと同時に、より高度な解脱に心を変化させるための調心の作用を持つ禅定ということができる。このように、初期の経典においては、解脱というものに関しては、さまざまな用いられ方がなされている。

解脱を求める心の段階について編集

撒餌経(中部経典第25経)では、第一禅から第四禅にいたり、そののち、まだいくつかの解脱の実現があり、九段階目で想受滅の境地にいたるとされている。他の経文において悟りについて述べた部分では、おおよそ、第四段階の禅定ののちに第三の明知に目覚め、悟りに至るとされている。しかし、この経では、第三の明知についてまでは言及されておらず、第四段階の禅定ののちに、さらに四つの解脱の段階を経たのちに想受滅に至る、というところで終わっている[54]

解脱の各段階においてゴータマは、いずれの段階も、マーラを盲目にし、マーラの眼を根絶し、悪魔が見えないところに行った修行僧の住するところであるとしている[55]

第一禅(初禅)

双考経においてゴータマは、在家の当時、苦行の修行をする以前に、菩薩としての修行を始めていたことが語られている。 出家してから、苦行しかしていないと思われがちであるが、ゴータマの意識の中では、菩薩として修行をしていたとされている。ゴータマは、菩薩としての修行中に、人間の中に常に湧き上がってくる思念について、善なる思いと悪なる思いのあるという観点から、対策を講じたとされている[56]。ゴータマは出家する前にすでに初禅の境地を体得していたとされている[57]。これは、初禅の段階にて、止観によって、善なる思いと悪なる思いを弁別し、正見のありかたを育んだということのようである。禅定によって心を統一した状態で、全体的で粗大な考察方法と、内面的で微細な考察方法を用いた止観を成就したことが記されている。初禅の心境としては、欲望から遠離しており、善悪を見極め、不善のことがらを離れた、喜ばしい心境に到達したとされる[58]

第二禅

禅定によって心を統一した状態で、全体的で粗大な考察方法と、内面的で微細な考察方法を用いた止観という心の働きをとどめる。善悪についての考察を離れるので、内心が静安となっってゆく[59]

第三禅

禅定によって心を統一した状態で、喜びと憂いの心の作用を捨てる。バラモン教の聖者が、「平静であり、念あり、安楽にとどまっている」とする心境に到達する。

第四禅 禅定によって心を統一した状態で、苦楽の心の作用を捨てる。平静と念によって清められている、という心境に達する。

第五段階 空無辺処の境地 あまねく外界の想念を超え、内界の想念をなくし、さまざまな想念を思うことがないゆえに、空間は無限であるという境地を実現して住む。外界から内界に向かってゆく想念と、内界から外界に向かってゆく想念とがあり、その想念の動きを超えたり、止めたりするところに、空間(物質的な宇宙)の無限を体感し、そこに住する境地に至ることができるとされている[60]。 ウパニシャッドの哲人の場合は、教えを受けるのにふさわしいと思える相手にのみ、こうした教えを説いたとされる[61][62]


第六段階 識無辺処の境地 あまねく空無辺処を超えて、意識は無限である識無辺処の境地を実現して住む。物質的な宇宙の無限を体感する境地を越えて、意識の無限(過去現在未来にわたるすべての衆生の総和としての無限と思われる)を体感できる境地に到達するとされている[63]

第七段階 無所有処の境地 あまねく識無辺処を超えて、無所有処を実現して住む[64]

第八段階 非想非非想の境地 あまねく無所有処を超えて、非想非非想処の境地を実現して住む[65]。 

最後の段階 最後に想受滅という境地に至るとされているが、これは無余の涅槃に近い境地のようである。 想受滅の境地というのは、執着を渡り超えた境地であるとされる。修行者は、あまねく非想非非想処を超えて、想受滅の境地を実現して住む。智慧によって見、かれの煩悩は滅尽している、とされている [66]。そこには、衆生も如来も慈悲も無いようであるから、マーラの眼を根絶し、悪魔が見ないところの究極であると思われる[67]

死を願う心の段階

想受滅の境地に到達したゴータマは、しばらくして死を願う心の段階に進んだとされる[68]

ゴータマ自身の回想として、七回の宇宙期の間、わたしはこの世に戻ってこなかった、世界が成立しつつあるとき、極光浄天に生まれ、世界が破壊しつつあるときは、空虚なる梵天の世界に生まれた。それから、7度大梵天として生まれ、三十六度神々の王であった、とされている[69]。無余涅槃で考えられるニルバーナの世界は、世界が破壊しつつあるときの涅槃と考えられるので、想受滅の解脱の行きつく先は、空虚なる梵天の世界と同質の世界とみることができる[70]

無余涅槃を求める出家者に対して、「ニルバーナ」に入り、この世に戻ってくることはない、としている経文がある。[71]。 このことは、想受滅から無余涅槃を目指す今生のみの大悟の道と、声聞から諸仏の悟りを目指す何転生かのさとりの道とを区別していた、ということを示していると見ることができる。また、無余涅槃を目指す修行者の転生の仕方は特殊で、死んだ後にあの世に行くことなく、ひとりでにこの世に生まれ変わる、とされている[72][73]

ゴータマの求めた道のすべてであると位置づけられている「清らかな行い(清浄行)」には、安らぎ(消滅的心境)に帰する清らかな行いと、生存の根源を残しての安らぎ(他の存在を救い続ける平静的心境)に帰する清らかな行いとがあるとされている[74]

悟りと悟りの道について編集

ゴータマ・ブッダ(宗教者)の場合は、悟った後に世界の主とされる霊的存在が、教えを説くことと遊行とを勧めたとされている。それは、過去七仏とされる大仙人のように、悪魔の手のとどかない消滅の次元に悟りを進めるのではなく、衆生済度という有余の次元に身を置くことを選択した、ということを意味している。また、この世の衆生済度につとめることは、同時に、悪魔の手のとどく世界に留まりつづける、ということでもあった。仏典によれば、修行完成者とされる悟った人でも、誘惑は止まない、とされている[75][76]ので、人間の生き方に関して言うと、悟ることは、正しい生き方にとってあまり重要ではない、ということにつながっているといえる[77] 。二十年以上、ブッダの遊行の秘書をしていたとされるアーナンダが、霊的能力を伴う悟りを開いていなかったことは、重要なことであるとされている。

ゴータマが実践していたのは、生涯にわたって衆生済度に「つとめはげむ道」であった。それは各人の苦集滅道による自力救済の道であり、自己を制することのうちにさとりがあるとしていたとされる。そのため、大悟という面からみると、ゴータマの宗教活動の目的は、己がさとり、ニルバーナのうちに想受ともに消滅してゆくのではなくて、苦しんでいる衆生を救済してゆくことにあったとみることができる。仏は、人々を救済することができないとされていた[78]。ゴータマは、各人がさとりを求める自力救済により、人類全体が清らかな行いにつとめはげみ、協和の精神が広がってゆくことを、遊行の目的としていたようである[79]。かつ、その、さとりを求める修行の全体が、善友を作ることであるとしていた[80][81]。このことは、悟った後で、悪魔の誘惑に負けて、地獄で修行の修正をするようになった悟達者であっても、ゴータマは、その人が立ち直れるように、善友として指導してゆきますよ、ということであるようだ。

最初期の仏教は、教義を信じるという意味での「信仰」なるものは説かなかった。教えを聞いて心が澄むという意味での「信」を説いていたとされる[82]。そのため、仏を信じたから救われる、という見方はしていない。たとえ自分が仏を裏切ったとしても、善友となった仏のほうで、友を見捨てないという見方をしているようだ。(出典蛇喩経)。

諸仏の悟りについて編集

ブッダの教えの特徴としては協和の精神があげられる。社会的には共同体を和の精神をもって運営してゆくことをはじめとして、生き物を殺さないという観点からは、他民族との平和というものが念頭にあったことが考えられる。人間の守るべき理法は永遠のものであり、それは諸仏の教えとしてすでに往時から実践的に体得されてきたとされている。したがって、宗教に関しても、ブッダは、仏教というものを説かず、いかなる宗教をも容認し、その生涯のほとんどを、遊行により、衆生の苦集滅道に務めたとされる[83]。特定の宗教を立てず、いかなる宗教をも容認するということは、いかなる宗教も、人格的な理法の働きかけの面を有しているとして、世界を協和の精神で満たすこと(滅)に努めることにつながっている。

アーナンダは、ブッダの臨終のときに、無余涅槃にお入りくださいといった。しかしこれは、修行完成者に対する罪であったとされている。このことは、真の修行完成者にとっては、自己消滅することではなく、肉体が自然の中に還元された後も、指導的な霊として世界の協和に務めてゆくことが目的であることを示している。

ゴータマは悟った後に、何もする気がなくなったとされている。その微妙な心の動きを感じ取って、それと呼応するかのように瞬間的に、「世界の主」とされる存在が、出現したとされる[84][85]。このときは、「世界の主」は、衆生に法を説くように指導しただけで、いなくなったようである。

この出来事は、六神通により開いていた「清浄で超越的な天眼[86]」による指導的な霊的存在との遭遇であると見ることができる。ゴータマの回想からすると、7回の転生の経験がある大梵天は、成立した世界に後から生まれる「この世の指導霊の中心的存在」といったところである。また、世界の主がこの世の創造神ではないとした場合、世界の主は、万古不滅の法・諸仏の悟りに住した存在であると言い換えることができそうである。世界の主は、ゴータマのことを「隊商の主」と語ったとされているが、この場合の「主」が、同じ使われ方をしているようであるので、世界の主とは、この世を全体として目的に導いている中心的存在とみることができる。

それから5週間ほどして、説法に関して、長上として道を説くことはやり切れないと、ゴータマが考えた時のことである。まだ自分は完全な悟りを開いてはいないと、ゴータマ自身は考えていたようであり、このときも世界の主は、瞬間的に心を読み取って、出現したようである。自分以上に、戒律(八聖道と止観)・禅定・智慧・解脱の体系を完全に実施している境地を持った存在や、われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直感)の体系を完全に実施している境地を持った存在がいることについての認識が示されている[87]。ただ、この場合のゴータマが「諸仏」と考えられている存在は、バラモン教等の「大仙人」「過去七仏(ブッダたち)」とされるものであり、同じ語句を使ってはいるが、「世界の主」の唱えたとされる詩句に出てくる「諸仏」とは異なっていると言うことができる[88][89]

ゴータマは、自分以上に理法を悟ったブッタたちの存在について語った。そのことは、ブッタたちの悟りにも段階があることを示している。そこでゴータマは、そうするよりもむしろ、この理法(実在)を尊び、敬い、頼って暮らすこと(正命と解釈できる)にしたとされている。全体として見ると、「ブッタたち」よりも上位に「最高原理(ダルマ)」が位置しており、有余の「諸仏」はダルマに頼って生きてきた、ということが示されている[90]。そういうふうに見ると、諸仏の悟りの段階と、最高原理を頼って生きる心の段階とには、大きな関連があると見ることができる。「頼って生きる」とは、最高原理の人格的な面の守り育てる意志というものが前提とされていると考えられ、そのことを悟った覚者が、ダルマの意志の導きのままに生きることを意味していると見ることができる。

初期の経典では、人格的な面を有する最高原理と関連して、神の存在についても、その存在が確認されている。ゴータマは、人格的な面を有する最高原理とは、悟りを得た者にとって、直感的に「神はある」として感得されうるものである、と説いている[91]。智者によって一方的に「神はいる」と感得されるとは、「第四段階の禅定ののちの第三の明知を有する者」等によって、直感的に理解される事柄であるということができる[92][93]

仏弟子のことばに、「理法(ダンマ)は、実に、理法を実践する人を護る。理法をよく実践するならば、幸せをもたらす」(テーラガーター 303)の句がある。ここでは、理法(ダンマ)がほとんど人格視されているとされる[94]。 これは、ダンミカ長老の実践からくる信念とされている。ダンミカ長老の告白以外に理法の持つ人格的な面について言及している弟子の存在については見当たらない。しかし、最後の旅で語ったとされる、「自らをたよりとし、法をよりどころとする(法島明)」という言葉には、「理法(ダンマ)は、実に、理法を実践する人を護る」という言葉に通じるものがあるとみることができる。

また、ゴータマには、太陽信仰があり、自らを太陽の末裔であると名乗っている経文がある[95]。太陽信仰は、最高原理の人格的な面の発する光明や、諸仏の発する光明と、万物をはぐくむ物質的な太陽の放つ光を、同系統のものととらえる智慧より生じてくるとみた場合、最高原理の多面性には、太陽神としての表象もあるとみることができる[96]

諸仏は、世の人々を憐れみたもう方々であるとされている[97]。このことは、諸仏には、人々を憐れむという想念があることを示している。 また、世界の主とされる存在は、有余涅槃に留まる諸仏の存在のきまりについても言及した。「世界の主」は、その詩句の中で、ダルマに頼って生きるという心の境地は、諸仏とされる存在にとって不可欠な条件であることを教示している。真理、ダルマに頼ることは、過去・現在・未来の仏にとって、正しい教えを重んずることであるとされる[98]。それ故に「この世においてためになることを達成しようとする偉大な境地を望む人は、仏の教えを憶念して、正しい教えを尊重する。それが諸仏にとってのきまりである」とされている。この個所で世界の主が語った「仏の教え」とは、諸仏の教えを指していると考えられる。諸仏の教えとは、「すべて悪しきことをなさず、善きことを行い、自己の心を浄めること、これが諸々の仏の教えである(ダンマパダ183)」ということである[注釈 16]

この世においてためになることを達成しようとする偉大な境地の段階があるということは、有余涅槃に止まる諸仏においては、偉大な境地に向かう悟りの段階があるということを示している。

悟りの修行を阻害された心の段階について編集

マーラは、祭祀などによって、地位名誉などによる世間的な利益を得て、煩悩を増大させるものである。それは、五つの欲望の対象であるとされている。マーラの目的とするのは、修行者を支配することによって、自分の支配欲等を満たすことであるとされている[100]。 そのように、この世にて、自らの修行を全うしようとする者には、マーラの支配のわなが付きまとっているということが説かれている。

双考経では、初禅において止観されたのは、内側から悪い道に行こうとする心の傾向であるといえる。その悪い道は、外側にも存在し、それは、邪悪な見方、邪悪な思い、邪悪な言葉、邪悪な業務、邪悪な生活、邪悪な励み、邪悪な思念、邪悪な精神統一(定)であるとされている[101]。悟る直前に為された第一禅には述べられていないが、いわばその前提として、第一禅の境地の体得には、マラーのわなについての考察が不可欠であったと言うことができる。[102]

撒餌経によると、マーラのわなは、外界と内界の両方にあるといえる。想念には外界にあまねく存在するものと、内界の様々な想念があるとしている。内界の想念にしかけられた悪魔のわなは、その人の心から出てくる煩悩とは見分けのつかないことが多いようだ。また、悪魔のことを夜叉と言うときがある。初期には、悪魔は特別な存在ではなく、死んだ人と、悪魔とを同一視している場合もある[103]。最初期の教えでは、地獄はこの世にみられるものであった。この世のよこしまな生活やそのもととなる妄執をさしている[104]。そのため、地獄はどこか遠くに見られるものではなく、この世を起点とした、自らの内的世界の通じる妄執の世界と考えられていたと見ることができる。

悟った後も、わなは無くなることはないので、悟る前の人間は、世間の中で暮らしていると、自然に、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四つの落ち行くところにいきつくとされていた。また、それよりはましな人間界と天界の二つの境界は、なんとかして得ることができる[105]と考えられていたが、天界と人間界との迷いの欲望をすべて絶つことは、むつかしいとされていた[106]

世の中の何ものにも執着しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る[107]、愛執と嫌悪と貪欲とは悪魔より来るわなである、とされている[108][109]。 邪魔[110]、恐怖[111]、などもあるとされる。

生存領域として、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道が挙げられている[112]。これは、この世に生存しているときに心内で輪廻転生する領域であるということができる[113]

また、煩悩と関係が深いと思われる無明というものに関して、世間的な煩悩の増大からは解脱していると思われる梵天の世界においても、無明にとらわれる梵天がある[114]とされている。そのため、無明は必ずしも肉体の次元やマーラのわな等にのみ関わるものではないといえる。

地獄・餓鬼・畜生・修羅の、それらの落ちゆくところに生まれたものたちが、もろもろの地獄において、出家することはできないとされた[115]。地獄に落ちた修行者たちには、苦痛の衝撃が絶え間なく続くので、長い年月の間、彼らは、悟りの道に帰ることができない状況に追い込まれている、ということができる。

  • 兜率天(天界)での迷妄

兜率天にいる霊でも、恐怖心から、いきなり地獄に堕ちる時があるとされる[116]。そのことから、兜率天の心境は、天国に行ったり、地獄に行ったりと、不安定なものであるといえる[117]

  • 人間の世界での迷妄、執着の巣窟

執着の巣窟に導かれる人もいる[118]とされ、窟(身体)のうちにとどまり、執着し、多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに沈没している人もいる[119]とされている。生存の快楽や世間の不正などにより、世の中にありながら、欲望を捨て去ることは、容易ではない[120]とされている。

  • 修羅

修羅の心で代表的なものは、争いに突入するときの心であるといえる。 鋸喩経 では、ゴータマ・ブッダは、この経において、出家したものは、在家的な欲望や、在家的な思いを捨てるべきである、ということを説いた。その喩として、ゴータマは、盗賊に手足を切り落とされた時であっても、心を乱すことなく、怒りのこころを抱かないように実践せよ、と説いたとされている。ブッダの教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、内にも外にも争いの世界に堕することが無いようにせよ、としている[121]

外的なものとしては、阿修羅は神々の敵であり、ときどき神々と戦闘を交えるという神話がある[122]

  • 畜生
  • 餓鬼
  • 地獄

古い詩句では、天も地獄も単数で表されている[123]ので、地獄の世界の中に、地獄・餓鬼・畜生・修羅の心のありさまが通じるそれぞれの世界があるようだ。「わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところ(地獄)に堕することもない。・・・わたしは必ずさとりを究める者である[124]」、とされている。

地獄に行っても、時が来れば梵天の世界に生まれて、仏弟子となるとされている。地獄では仏弟子にはなれないとされているので、自覚するまでに、長い年月がかかると見ることができる[125][126][127]

大乗仏教編集

大乗仏教においては、上述のような初期仏教の悟りの観念は小乗的として退けられた[1]。大乗仏教の実践者(菩薩)が求める悟りは、部派仏教教学で固定化した悟りを根源的に捉え直すものであるとされる[1]。大乗仏教における悟りは、そのようなブッダの絶対的な境地に到達することから、成仏ともいわれる[1]。ブッダの悟りに向かおうという菩薩の志向を菩提心という[1]

大乗仏教における悟りに到達するためには六波羅蜜の実践が必要とされ、自利のみでなく利他の精神も説かれた[1]。初期仏教以来の禅定を超える様々な三昧も実践された[1]

大乗起信論編集

中国撰述とされる論書、『大乗起信論 』では、阿頼耶識(あらやしき)に不覚と覚の二義があるとし、覚をさらに始覚(しかく)と本覚(ほんがく)とに分けて説明する。我々の心性(しんしょう)は、現実には無明(むみょう)に覆われ、妄念にとらわれているから不覚であるが、この無明が止滅して妄念を離れた状態が「覚」であるという。無明は無始以来のものであるから、それに依拠する不覚に対しては「始覚」といわれるが、われわれの心性の根源は本来清浄な覚りそのもの(「本覚」)であって、それがたまたま無明に覆われているから、始覚といってもそれは本覚と別のものではなく、始覚によって本覚に帰一するに過ぎない、と説明し、誰にでも覚りに至る道は開けており、それに向かっての修行が必要なことを説いている。さらに、覚りは清浄なものであることも説明されている。

煩悩即菩提編集

煩悩とは主に欲望であるが、人々は欲望により悩まされることを主に煩悩というが、実は煩悩自体は、善も悪もないと言うことが仏の悟りに至る時にわかる。そして、その煩悩は、悩みにもなるのだが、その煩悩を上手く考えることで、考えようによってそのことが三世の生命(過去現在未来を永遠に生きる仏の悟り、{変わり続ける流れを、至福の安らぎで感じること})に変わるということであると知るのである。

即身成仏編集

生きながらにして成仏を遂げるとする密教的な思想にそって、空海即身成仏を果たしたとされる[128]

ジャイナ教編集

 
ジャイナ教のシンボル

ジャイナ教では、修行によっての束縛が滅せられ、微細な物質が霊魂から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望ます、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。煩悩を離れて生きることを欲しない、と同時に死をも欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着とみるからである。ここに到達した者は、まったく愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に会ったとしても少しも動揺することなく、一切の苦痛を堪え忍ぶ。この境地をモークシャ・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ(涅槃)、とジャイナ教では称する。

モークシャに到達したならば、ただ死を待つのみである。身体の壊滅とともに最期の完全な解脱に到達する。完全な解脱によって向かう場所を、特に空間的に限定して、この世とは異なったところであるとしている。「賢者はモークシャ(複数)なるものを順次に体得して、豊かで、智慧がある。彼は無比なるすべてを知って[身体と精神の]二種の[障礙を]克服して、順次に思索して業を超越する『アーラヤンガ』」。モークシャは生前において、この世において得られるものと考えられている。このモークシャをウッタマーンタ(最高の真理)と呼んで、ただ“否定的”にのみ表現ができるとしている。

このモークシャを得るために、徹底した苦行瞑想、不殺生(アヒンサー)、無所有の修行を行う。ジャイナ教では、次の「七つの真実」(タットヴァ)を、正しく知り(正知)それを信頼し(正見)実践する(正行)することが真理に至る道であると考えられている。

1. 霊魂(ジーヴァ) 2. 非霊魂(アジーヴァ) 3. 業の流入(アースラヴァ) 4. 束縛(バンダ) 5. 防ぎ守ること(サンヴァラ) 6. 止滅(ニルジャラー) 7. 解脱(モークシャ)

ジャイナ教では、宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種とする。霊魂は多数存在する。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(プドガラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティカーヤ)と称する。これらはみな“実体”であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を創造し支配している主宰神のようなものは“存在しない”とする。

霊魂(ジーヴァ)とは、インド哲学でいう我(アートマン)と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものであるが、唯一の常住して遍在する我(ブラフマン)を“認めず”、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っていると見なされている。霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存在し、“元素”にまで霊魂の存在を認める。霊魂は“上昇性”を持つが、それに対して物質は“下降性”を有する。その下降性の故に霊魂を身体の内にとどめ、上昇性を発揮することができないようにしていると考えられている。この世では人間は迷いに支配されて行動している。人間が活動(身・口・意)をするとその行為のために微細な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いて付着する。これを「流入」(アースラヴァ)と称する。霊魂に付着した物質はそのままでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浸透した時、その物質が「」となる。そのため「業物質」とも呼ばれる。霊魂が業(カルマン)の作用によって曇り、迷いにさらされることを「束縛」(バンダ)という。そして「業の身体」(カンマ・サリーラガ)という特別の身体を形成して、霊魂の本性をくらまし束縛しているとする。霊魂はこのように物質と結び付き、そして業に縛られて輪廻すると伝えられている。

霊魂に業が浸透し付着して、人間が苦しみに悩まされる根源は外界の対象に執着してはならないとの教えで、あらゆるところから業の流れ(ソータ)は侵入してくるので、五つの感覚器官(感官)を制御して全ての感覚が快くとも悪しくとも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守ること・制御」(サンヴァラ)と呼び、新規に流入する業物質の防止とする。それに対し、既に霊魂の中に蓄積された業物質を、苦行などによって霊魂から払い落とすことを「止滅」(ニルジャラー)と呼ぶ。

霊魂は業に縛られて、過去から未来へ生存を変えながら流転する存在の輪すなわち輪廻(サンサーラ)の中にいる。輪廻は、迷い迷って生存を繰り返すことだと云われる。ジャイナ教は、その原因となる業物質を、制御(サンヴァラ)と止滅(ニルジャラー)によって消滅させるために、人は“修行”すべきであると説く。そのために出家して、「五つの大誓戒」(マハーヴラタ、mahaavrata)である、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有を守りながら、苦行を実践する。身体の壊滅によって完全な解脱が完成すると「業の身体」を捨てて、自身の固有の浮力によって一サマヤ(短い時間)の間に上昇し、まっすぐにイーシーパッバーラーという天界の上に存在する完成者(シッダ)たちの住処に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るとしている[129]

ヒンドゥー教(バラモン教)編集

ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。

仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟り意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態とされる。サンスクリットニルヴァーナ涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。

インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。

ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。

悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。

悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。

現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。

通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハーヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。

キリスト教編集

仏教者鈴木大拙はイエスを妙好人と考証している[130]。 また、イエスは、古今東西の覚者と同じく、悟りの体験をしていたという見解がある。[131]

福音書における悟りの関連個所編集

イエスの認識を全く理解できなかった弟子が、イエスに叱責されるというエピソードが福音書には載っている。その時に、イエスは、あなたがたは今なお、「悟り」がないのか、という語を用いてそのことを指摘したとされている。キリスト教と悟りとの関連が見られる箇所の一つがそこにあると見ることができる[132]

十字架にかかる以前のナザレのイエスの教えには、心の中の悪に対しての認識を深めることが弟子たちに対しての要求に含まれていた。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫貪欲悪意、奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別などがあげられている[133][注釈 17]

仏教的な悟達者との関連編集

これらの箇所に見えることは、人が、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは一種の悟りである、という「自力救済的な教え」を、時にイエスは説いていたということである[注釈 18]。しかし、ナザレのイエスは悟っていたかもしれないということを裏付けできるような資料はほとんどなく、わずかに『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に仏教的な悟達者との関連があるかもしれないという記述が残っているのみである。

『闘技者トマスの書』に見るナザレのイエスと悟りの関連性編集

福音書と同じくイエスの言行を記した『闘技者トマスの書』には、自力救済的な思想が記されている。「自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。」[136]という言葉などにも、人が、心の中の悪を突き詰めていった「悟り」というものにつながっている部分があるようにも見える。『闘技者トマスの書』は、自力救済的な思想でありながらも、同じナグ・ハマディ文書のトマス福音書とは異なり、異端であるとはされなかった。

「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている[137]

闘技者トマスの書における悟りと関連した信念編集
  • 2、イエスの友と呼ばれる人は、自らを測り知らなければならない。
  •  自分が何者なのか、いかにして存在しているのかについて、知らなくてはならない。
  •  自分がいかなる存在になるかを、学び知りなさい。
  •  イエスの兄弟と呼ばれている人は、自分自身について無知であってはならない。
  •  私は真理の知識である[注釈 19]
  •  私が真理の知識であることを、誰もが認識することができる。
  •  今だ自分自身について無知であっても、すでに認識にたっすることはできる。
  • 3、自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。
  • 5、変化するものは滅し、滅びる。肉体が滅びるのと同じように、万物は変化し、滅びてゆく。
  • 6、万物の深遠や真理の知識は、見ることができず、説明することも困難である。
  • 8、欲情や肉欲は肉体に属する火炎である。人の心を酔わせ、魂を混乱させる。人々の霊を焼き焦がす。
  •   真の知恵から真理を求める者は誰でも、自らを翼にして飛翔し、「欲情」から逃れることが出来る。[139]
  • 9、これは完全なる者たちの教えである。もし、あなたたちが完全になろうと思うならば、あなたたちはこれらのことを守るであろう[注釈 20]
  • 11、幸いだ、賢者は。彼がそれを見出した時に、彼はその上に永遠に安息し、彼を動揺させる者どもを恐れることがなかった。
  • 12、本来的自己の中に安息することは、益になる。そして、それはお前たちにとって善いことなのだ。
  • 22、あなたたちが、身体の苦悩と苦難から離れるとき、あなたたちは、善なる者[注釈 21]から安息を受け、王とともに支配するであろう[141][142]
『トマス福音書』における悟りと関連した信念編集

(77)、すべては私から出て、 そしてすべては私に達した。木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう。

(4)、・・・日を重ねた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。 そうすれば彼は生きるであろう。

(5)、あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに明かされるであろう。 明らかにならないまま隠されているものはないからである。

(15)、もしあなたが女から産まれなかった者を見たら、ひれ伏しなさい。彼を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である[143][144]

イスラム教編集

一般のイスラム教には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教神秘主義とも呼ばれるスーフィーは、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中にはハッラージュ英語版のように「我は真理なり」と宣言して時の為政者に処刑された例がある[145]

スーフィズムの修行例編集

イスラーム世界において異端とされてきたスーフィーの一派の中には、人間の自我意識の払拭を修行の目的としている一派があるとされている。彼らは、人間には「我」というものがあるから、苦しみや悪があると捉え、修行者は、自我意識を内的に超克したところに、神の顔を見ることが出来るとされる。スーフィーにおいて、神は、自分自身の魂の奥底に存在するだけでなく、すべての場所に遍在しているとされる。また、神は、あらゆる物事の内面に存在している内在神であるともされている。 そして、修行者においては、自己否定の無の底に、「遍在する人格的な神」の実在性の顕現が為されるとされる。[146]

  • 「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、・・・それを汝が知らないでいる状態のことだ」。(アブー・サイード)(11世紀のスーフィー)
  • 「汝が汝であることよりも、大きな災いはこの世にはありえない」。(アブー・サイード)
  • 「我こそは真実在」。(ハッラージ)(10世紀のスーフィー)
  • 「我が虚無性のただ中にこそ、永遠に汝の実在性がある」。(ハッラージ)
  • 「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現がその者の内部を占拠して、もはや神以外のなにものの意識もまったく残らないことだ」。(ジャーミー)(15世紀のスーフィー)
  • 「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、わたしは自分という皮を脱ぎ捨てた。・・・私は彼だったのだ」。(バーヤジード)(9世紀のスーフィー)

[注釈 22]

初期イスラーム教と悟り編集

初期イスラーム教について編集

ムスハフ解釈本を研究する者は、大体三つの時期に全体を大別するのが常である[148]。 ムハンマドに表立って反対する者が出てくる前、最初の啓示から四年ほどの間に下されたアッラーによる初期の啓示に顕された姿は、ユダヤ教(なかでもモーセの教え)やキリスト教(なかでもナザレのイエスの教え)で説かれている神の姿とたいへんよく似通っているとされる[149] [150]

アラブの伝承では、人はめいめいに自身の精霊(ジン)を持っているとされ、砂漠の民は、神、あらゆる精霊、あらゆる超自然の力に畏怖の念を抱いているとされる[151]。当時、ムハンマドの住んでいた地域のキリスト教は、異端とされるものであったとされ、閑静な場所で、瞑想生活を送るタイプの異端であったとされる。ムハンマドは、啓示を受け始める以前、ヒラー山の洞窟に、定期的に数か月単位で瞑想生活を送っていたとされる。それは、ムハンマドの祖父が、キリスト教徒に関心を持ち、異端とされる宗派の信仰生活に影響を受けてのものであったようだ。祖父の代より行われていた、一家の宗教行事ともいえる瞑想生活を契機として、ムハンマドに神の啓示が下される事態となったわけである。しかしそのとき、ムハンマドが悟っていたかどうかについては、定かではない。

啓示を受け始めた当初、神はムハンマドに対して「あなたは神の預言者である」という言葉を繰り返していたとされている。彼が瞑想のために山に登るたび、その声が彼をつつみ、彼の自覚を促していたという[152]。その神が、ユダヤ教やキリスト教の神と同じであると直感したのは、彼を取り巻く人たちであった。

ヒラー山にて、内的啓示を受けたとき、ムハンマドは、それがアラブに昔から言い伝えられるジンと呼ばれる霊的存在であると思った。妻は、妻のいとこに相談をした。「かつてモーセを訪れた偉大な神が到来したのだ」と、いとこは、ムハンマドに語ったと言われます[153]。その後、ムハンマドが「ヒラー山」に登るたびに「ムハンマドよ、あなたは神の使徒である」という、神の、啓示があったとされる。ムハンマドには、その神が、「モーセを訪れた偉大な神」であるかどうかは判らなかった。けれども、神によって、モーセに連なる預言者の一人としての自覚を促されている、という認識はあったようだ[154]

スーフィズムにつながる心境編集

ムハンマドの啓示も、当初はイエス(宗教者)と同じ、一なる神の理を説くものであり、平和を目指すものであったとされる。しかし、平和のために剣を取ることによって生じた甚だしい自己矛盾が、神の理とその啓示から、ムハンマド(宗教者)を遠ざけてしまった、という見解がある[155]。そのような観点からすると、ムハンマドの意識は、最初期に限定してみた場合、「神の理」を悟る心境にあったとみることができる。また、信者においては、こうした瞑想生活と神の理に対する理解と洞察から、後年のスーフィズムが生じてきたとみることができる。

老荘思想と悟り編集

「悟り」と「道の体得」との関係編集

」は、この現象界を超えたところで、現象界を生起させ変化させる一者として考えられている。この「道」は言葉によって客観的に捉えることができないとされている。そのため、荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている[156]ことを感得した人であるとされている。また、「道」は、無限なる者[157]として、天地のまだ存在しない大古から、すでに存在しているものであり、これを感得する者を、真人や聖人と呼んでいる。また、道を体得した者は、霊妙な力を持つ天帝鬼神の存在についても知ることになる、とされている。(斉物論篇 九)。「道」は、すべての現象をそうあらしめている原理としての性格と、宇宙生成論的な発生の根源者という性格の二面が融合していることが知られている[158]。このことは、宇宙の真理を説いたとされる初期仏教における悟りと何らかの関係にあると見ることができる。[159]

荘子の「道」について編集

道は万物が皆よって生ずる根本的な一者であるとしている。道は無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[160]

自然の道から見れば、分散することは集成であり、集成することは、そのまま分散破壊することに他ならない。道を体得するとは、すべてを通じて一であることを知るということである。すべてのものは、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている、とされる(斉物論篇)[161]

老子の「道」について編集

老子においては、実在としての道は、循環運動を永遠に続けているとされている[162]。あらゆる存在は、「」として、「」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。

「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。

「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである[163][164]。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。

荘子(書物)と悟り編集

荘子において、道を体得した人とは、すべてのものが、生成(無為)と破壊・分散(有為)の区別なく道において一となっている[165]ことを感得した人であるとされている。

道は、万物が皆よって生ずる根本的な一者であり、無為無形の造物主として古より存在するが、情あり、信ありとされている[166]

根源的な真人や聖人における心境編集

聖人における「聖」という概念には、倒置の状態(自己を外物のうちに見失い、自らの本性を世俗の内に喪失した状態)から完全に脱することができた真人という意味合いがある。聖人の境地とは、およそ無心のままに静けさを保ち、欲望に動かされずに安らかであり、静まりかえって作為から離れていることとされる。それは、天地の安定した姿のうちにあり、自然のままの道徳の極致を体現した聖なる存在であるとされる。(天道篇 二)[167]

自得について編集

自得とは、最初の段階では、自分自身の在り方に満足することであり、与えられた運命のままに生きるという随順の立場と変わりがないといえる。しかし、これは、自分の「外なる物」という自分の本性でないものと自分の内にある本性とを弁別して、自らの本性を選択し続ける、という段階につながっている。その外物とは、仁義であり、世間的な名声であり、欲望をさそう財貨であり、五味、五色、五声である。これらの外物を遠ざけ、退けるところにはじめて自然の性が保たれるのである、とされる[168]

道の徳を身に得た者は、徳を傷つける知識を得ようとはしない。だから、「ただ自己のあり方を正すことがすべてである」。このような自己本来の立場にあって、完全な楽しみを得ること、これを「わが志を得る」という、とされている(繕性篇)。

明知について編集

天地の徳を明白に知る者は、いっさいの根源を宗とする者であるといえる。それは天との和合をもたらすものであり、また、天下万物に調和を与え、人との和合をもたらすものである(大宗師篇)、とされている。また、道とは徳の根源である。生とは徳が発する光に他ならない、ともされている(庚桑楚篇)[169]

荘子の坐忘的心境と悟りについて編集

荘子の思想の中には、「道」と「無為」とを同一視してしまう場合がある。また、「無為」と、「自然の為すところ」とが同一視されている場合もある。至人の境地に至るためには、これらを念頭に生きることが不可欠な道標であるとされる場合もある。この場合の至人は、物との調和を保ち、その心が無限の広さを感得することをもって善しとする(大宗師篇)。こうした思想は、後代になって、解脱を目的とする禅宗の成立に大きな影響を与えたとされる[170]。仏教における禅宗は、仏教伝統を受けつぎながらも荘子を頂点とする中国思想と深く交流することによって、はじめて成立したものであるとする見解がある。それによると、禅宗における悟りと関連した概念(「不立文字」「見性仏性」等)と、荘子における無為自然との合一という概念とには、相通じるものがあるとされている[171][172]

老子道徳経と悟りについて編集

玄同(道との合一)について編集

「その光を和らげ、その塵を同じくす。是を玄同という」(第56章)という言葉がある。玄を道と解釈した場合、老子においても道との合一を果たす生き方は、一つの悟りであり、「道の徳」や「道の援助」のうちに生きる生き方であると見ることができる。

道は全体に対して、弱い力として働いており、沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。(42章)

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 菩提は: bodhiの音写[1]
  2. ^ 「開悟」が仏教伝来以前から中国に存在していた漢語かどうかは不明。
  3. ^ 肉体的な執着から離れた境地となり、意識が調和されるにしたがって、水が水蒸気になって拡大してゆくように、もう一人の我というものが拡大していって宇宙と一如と感じられるようになってゆくことを悟りとする説もある。内的宇宙が拡大して外的宇宙と合一することが佛への転換点であるとされている。[15]
  4. ^ 釈迦が降魔成道を遂げて悟りを開いたとされる蠟月(十二月)八日は、今日でも降魔成道会として、曹洞宗では最も重要な年中行事の一つとなっている[18]
  5. ^ 過去七仏の観念があらわれ、第七人目の仏がゴータマであるとするようになったのは、後代になってからとされる。[23]
  6. ^ ウパニシャッドの言葉であっても、現存パーリ仏典よりも内容や言葉はかなり古いものをうけている。[24]
  7. ^ 無我とは、アートマンが存在しないのではなく、我でもないものを我とみなしてはならないという考え方であり、「われという観念」、「わがものという観念」を排除しようとしたのであるとされる。[31]
  8. ^ ゴータマの悟りに関して、宇宙には意識の働く宇宙と物質の宇宙の二つの世界があるとする見方に基づき、「自ら(自灯明)」という意識の大きさは、もともと宇宙の大きさと等しいものであるとする見解がある。煩悩から解脱するとき、意識の大きさは、その本来の大きさである無限大になるとされているようだ。アートマンは、人間の煩悩との関係から、「われという観念」(偽我)として存在しているかのように見える、という見解もある。[32]
  9. ^ ゴータマは無余涅槃を排斥したとされる。[33]
  10. ^ 悟りというものを宇宙原理たるブラフマンと真の自己との合一という観点から見た場合、小宇宙的概念としての内的世界(真人としての我)が、大宇宙の根本原理と合一すると言い換えることもできそうである。
  11. ^ 肉体的な執着から離れた境地となり、意識が調和されるにしたがって、水が水蒸気になって拡大してゆくように、もう一人の我というものが拡大していって宇宙と一如と感じられるようになってゆくことを悟りとする説もある。内的宇宙が拡大して外的宇宙と合一することが佛への転換点であるとされている。[36]
  12. ^ この宇宙の前には、幾多の宇宙の生成と消滅があり、それらの幾多の宇宙期における歴史と、そこにおける自らの一々の百千の生涯について思い起こすことができるようになったとされる。
  13. ^ ここで四諦に関連して書いてあることは、後世の付加であるとされている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P105 中村元
  14. ^ そのことについて見た場合、第三の明知と、過去現在未来にわたる阿羅漢について、心に関して、心でもって知る、という智慧には、共通する部分があると言える。
  15. ^ カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められた開悟者とされたが、対機説法においては、対機した幾人かの比丘尼が還俗したりしたことが記されており、慈悲という面では、及ばないところがあったようである。 [42]
  16. ^ 諸仏の教えがいつからのものであるかについての記述はないが、ゴータマの回想によると、7回の宇宙期の記憶があるということであるから、そのうちのいずれかの宇宙期より伝承されてきたものであるかのようにも考えられる。この宇宙期に起源をもつものであるとすると、諸仏の教えは、超古代文明を生きた仏の教えであるということができる。プラトンが記述したアトランティス大陸などにも、古代文明を生きた賢者が、万古不滅の法を悟っていたとする見解もある[99]。また、さらに、諸仏の教えが、この宇宙期以前の仏の教えであるとするならば、それは超宇宙期の仏の教えであるということができる。初期の仏教においては、万古不滅の法とは、超古代文明をさらに超えた文明に生きた仏が悟った理法であると見ることができる。また、ゴータマは、過去・現在・未来の人類の心を見通せるということであるので、諸仏の教えは未来にその発生の源を持つというふうに見ることもできる。
  17. ^ 「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意」までは、複数形で言われており、それらの具体的な行為が意味されている。「奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別」までは単数形。それらで表される心のあり方に主眼点があるとされている。[134]
  18. ^ 福音書において、「十字架」という語には、贖罪論的な意味はなく、自力的な人生の重荷や使命といった意味を持つ言葉としてしか使われていないとされている。[135]そうしたことから、福音書の中には、「自力救済的な教え」と、「他力救済的な教え」とが混在していると言える。そして、キリスト教が国家宗教としての位置を確立するころには、「他力救済的な教え」以外のものを異端として排斥するようになっていった。
  19. ^ 自分の霊的な本質を認識していることを指しているとされている[138]
  20. ^ マタイ5:48にも、同じような言葉が使われている。
  21. ^ 太陽を介し、そのよき従者である光を人間に送る神[140]
  22. ^ 内面的に純化されたイスラームは、「悟り」を求める修行者の意識と共通する部分があると言える。このように、内面的ともいえるイスラームの一宗派は、イスラーム自身の歴史的形態の否定スレスレのところまで来ているとされている。そのため、イスラーム教において彼らは、異端として弾圧されてきたとされている。[147]

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 中村元ほか(編) 『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、370-371頁。 
  2. ^ 新村出(編) 『広辞苑』(第三版)岩波書店、1986年10月、972頁。 
  3. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」 483頁。
  4. ^ 『正覚』 大正新脩大蔵経テキストデータベース
  5. ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「正覚」 687頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
  6. ^ 『広説佛教語大辞典』 中村元著 (東京書籍) 上巻 「開悟」 180-181頁。
  7. ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) prativibudda 840頁。
  8. ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」 483頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
  9. ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) bodhi 932頁。
  10. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。
  11. ^ 阿耨多羅三藐三菩提 がは大正新脩大蔵経に1万3500余回出現するが、阿含部は45回に過ぎない。
  12. ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) anuttarāṃ 58頁, samyak 1437頁, sambodhiṃ 1434頁。
  13. ^ 阿耨多羅三藐三菩提 (阿含部) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  14. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P7 中村元
  15. ^ 『心の原点』高橋信次  三宝出版 1973年 P26
  16. ^ 『四禅‐定』 (禅学大辞典)参照: 釈迦族の農耕祭のときに四禅定を得たとする。同辞典の旧版では農耕祭での相撲のときに四禅の相を現したとしている。
  17. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大日經疏演奧鈔(杲寶譯)』 (T2216_.59.0414a08: ~): 疏如佛初欲成道等者 按西域記 菩提樹垣正中金剛座。…(中略)… 若不以金剛爲座 則無地堪發金剛之定 今欲降魔成道 必居於此。
  18. ^ 清水寺成道会12/8 ※記述内容は各寺共通 - 京都・観光旅行。
  19. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『釋迦譜』 (T2040_.50.0064a08: ~): 佛成道已 梵天勸請轉妙法輪 至波羅捺鹿野苑中爲拘隣五人轉四眞諦。
  20. ^ 藤本晃 (2015年11月). 悟りの四つのステージ. サンガ [要ページ番号]
  21. ^ a b 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P114 中村元
  22. ^ 岩波文庫『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』P291訳注第五章注150 中村元
  23. ^ 原始仏典Ⅱ相応部第一巻P484第8篇注80 中村元ほか
  24. ^ a b 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P136 中村元
  25. ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P152松本照敬
  26. ^ 岩波仏教辞典第二版P371
  27. ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P234松本照敬
  28. ^ a b 『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』中公バックス 昭和54年 P22 インド思想の潮流の項目 長尾正人 服部正明
  29. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P113 中村元
  30. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P118 中村元
  31. ^ 中村元著『佛教語大辞典』より) 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P20無我の項目上村勝彦
  32. ^ 『人間釈迦 1』高橋信次著 三宝出版 1973年 P172
  33. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P395注875 中村元
  34. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P144 中村元
  35. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P7 中村元
  36. ^ 『心の原点』高橋信次  三宝出版 1973年 P26
  37. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P113 中村元
  38. ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P205注29 中村元
  39. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P95 中村元
  40. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P616注24  春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  41. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P396解説  春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  42. ^ 『原始仏典II 相応部経典第2巻』 第5篇P616注24  春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  43. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
  44. ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P204注28 中村元
  45. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第1篇P600注88  春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
  46. ^ 『尼僧の告白』1982年岩波書店P36中村元
  47. ^ 『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤII』岩波書店 1986年 P339の注8 中村元
  48. ^ 「たましい(霊)の最上の清浄の境地」のうちにあって、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、清浄な行いを存続してゆくことが目的であるとされている。『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書 1984年 P395の注875 中村元
  49. ^ 禅宗などにおいては、根本的な悟りを得ることを大悟するという宗派もあれば、大吾を否定し、日常修行そのものが大悟であるとする宗派もある。(出典『岩波仏教辞典』1989年 P657)
  50. ^ 撒餌経(中部経典第25経)によると、無余涅槃を目的とするグループに対してのみ、無余涅槃について説くことがあった、とみることができる。
  51. ^ 悟りには、一般的に考えられている悟りと、本来的な悟りとされるものの二種類があるとする見解がある。一般的には、宇宙即我の悟りとも呼べる「大悟」というものを悟りと呼んでいる。本来的な悟りとは、日常生活において自分が気づいた欠点を修正し、その正した事柄が無理なく行えるようになることであり、これへと精進し続けることを悟りとする、という見解がある。(出典『心眼を開く』 三宝出版 1974年 P209 高橋信次)
  52. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P260の注54 中村元
  53. ^ 『仏典を読む1 仏陀の生涯』岩波書店 2017年 P50 中村元(前田専學 監修)
  54. ^ 無所有処や非想非非想の思想については、他の仙人が説いた教えではなく、もともとは仏説であった、とする見解がある。(出典『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 P723 第36経の注4  春秋社2004年 中村元監修)
  55. ^ 想念には外界にあまねく存在するものと、内界の様々な想念があるとする。マーラのわなは、外界と内界の両方にあるといえる。非想非非想の思想と、悪魔のわながつながりがあると見るならば、「解脱」という語は、マーラの眼から逃れるという観点から見た「悟り」であると見ることができる。 外界から内界に向かってゆく想念と、内界から外界に向かってゆく想念とがあり、その想念の動きを止めたところに、空間(物質的な宇宙)の無限や、意識の無限(ブッダの体感する過去現在未来の意識主体の総和)を体感し、そこに住する境地に至ることができるとされている。
  56. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第19経 二種の思い P282 前書き 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳
  57. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』第36経 身体の修行と心の修行ー マハ―サッチャカ経 P549 春秋社2004年 中村元監修 平木光二訳
  58. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館 1958年 P104 中村元
  59. ^ 正見というものから離れるので、諸仏の教えというものからも、離れてゆくようである。
  60. ^ これは、宇宙期についての明知にあたるようだ。
  61. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館 1958年 P120 中村元
  62. ^ マハーカッサバは、比丘が衆人と交わるのを戒めた。ゴータマは、衆人済度のために遊行を何十年もしたが、マハーカッサバは、岩登りをしていたとされる。『仏弟子の告白』岩波書店 1982年 P284 1058の注
  63. ^ これは、諸々の衆生意識についての明知にあたるようだ。
  64. ^ これは、「なにも持たない」ということであるとする経文もある。「なにも持たない」ということは、煩悩を滅することと関係があると思われるので、これは、もろもろの汚れを滅ぼす智に関係があると思われる。
  65. ^ これは、「生は尽きはてた」という言葉に関係があるようである。「闇黒は消滅して、光明が生じた」というブッダの言葉から推察すると、非想非非想の状態に、光明のみが感じられるということのようである。
  66. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第25経 猟師と鹿の群れ-猟師経 P379 春秋社 2004年 中村元監修 羽矢辰夫訳
  67. ^ 第85経や聖求経には、想受滅と思われる境地に至り、教えを説く意欲の亡くなったゴータマに、世界の主であるブラフマー神が、慈悲利他の境地に誘ったことが伝えられている。世界の主は、このままだと世界は滅びる方向に向かってしまう、と言ったとされている。考えてみると、無余の涅槃にとっては、宇宙には生成する時期もあれば、滅びる時期もある訳であるから、それはどちらでもいいわけである。世界の主の放った言葉のうちには、想受滅の解脱とは異なった次元に、諸仏の慈悲を衆生に説く境地があったことがうかがえる。
  68. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第25経は、無余涅槃を求める出家者に対して解かれた経文のようで、「闇黒は消滅して、光明が生じる」等の、梵天勧請以後の境地について、欠落している。想受滅の状態で考えられる心境は、光を受信する心の働きをも滅した闇の感覚や、光を感じる光明の感覚、この世の主などの霊的存在を感じる光明の感覚、などである。
  69. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館 1958年 P329 中村元
  70. ^ 無余涅槃を求める初期の修行者にとっては、「もはや輪廻の範囲に戻ってくることのない境地」というのは、理想の境地とされていた。これは後代においての不還とは異なっている。(出典『ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤⅠ』岩波書店 1986年 P257の注3 中村元)。これに対して、世界が成立しつつあるときの極光浄天というのは、有余涅槃で考えられるニルバーナの世界と同質の世界であると思われる。
  71. ^ 在家信者に対しては、「さとりを達成する」「さとりを究める」と説いている。これは、一旦梵天の世界に入り、何転生かの後に、さとりを達成する、という意味である。
  72. ^ 『ブッダ最後の旅』岩波文庫 2001年 P48 中村元
  73. ^ 初期の仏典には、教えを聞く人と、静かな林内で独りになって悟る人と、教えを聞きあの世に帰ってブッダをたずねてくる人と、悟ってあの世に帰って、消滅する人などについての記述がある
  74. ^ ここには、有余涅槃の萌芽があるとされている。(出典『仏弟子の告白』岩波書店 1982年 P292 の注 中村元)
  75. ^ 『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P306の注 中村元
  76. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P113  中村元
  77. ^ 解脱していると思われる修行僧が、悪口を言ったために地獄に落ちた、という話がある。ここから見えることは、「ニルバーナ」を目指す者は、たとえ大悟を果たしたものであっても、努めはげんでいないと、悪魔の誘惑に負けた者は、悟りの境地から、外れてしまうことがあることを示唆している(出典『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P144 中村元)
  78. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P420の注 中村元
  79. ^ 『ブッダ最後の旅』岩波文庫 2001年 P197の注15 中村元
  80. ^ 原始仏典Ⅱ相応部第一巻P137第三篇第二章第8節 中村元ほか
  81. ^ 『2つの扉』 三宝出版 2022年 P143 高橋佳子
  82. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P431注1147 中村元
  83. ^ 『ブッダ最後の旅』岩波文庫 2001年 P197の注15 中村元
  84. ^ 「世界の主」という語は、西洋的には訳しにくい語であるとされていて、「この現実世界の主」という意味を持っている。(出典『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P340の注 中村元)
  85. ^ 当時の人々は、梵天を、世界を創造した主神と考えて尊崇していたとされるので、この現実世界の主宰神とする見方もある。(出典『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波書店 1978年 P95の注中村元
  86. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P106
  87. ^ 『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P339の注と、P88 中村元
  88. ^ 『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P313の注 中村元
  89. ^ 過去七仏はすでに消滅の内に没入し、真理そのものとなったと認識されていたようだ。(出典『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店 1982年 P111 中村元)。六神通に通じた人は、自らの分身をつくりだす自己変化の能力があったとされることから類推すると、当時の悟達者は想受滅に至り、自らの存在を消し、真理そのものとなる能力があったということが考えられる。
  90. ^ (出典『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P88 と、P339 の注 中村元)このことは、唯我独尊を超えて、ダルマの人格的な面に頼って生きる生き方は、八正道における「正命」の正しい在り方を指示しているとみることができる。在家信者の生活という点に関しては、八正道と神仏への信仰生活との関連性もうかがえる。
  91. ^ (出典『原始仏典第4巻 中部経典 Ⅲ』第100経 清らかな行いの体験 ー サンガーラヴァ経 春秋社 2005年 前書き P426 山口務
  92. ^ 悟りの内容の最後の方に、第三の明知が生じた後、無明と闇黒が滅び、光明が生じた、とある(出典『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P107 中村元)。ここに言われている「光明」とされるものが、「神の意識」(神の存在)と同じものであるとする見解がある。(出典『人間釈迦 1』三宝出版 P157 高橋信次 )
  93. ^ なお、悟りの内容を記したいくつかの経文には、「神」、「人格的な面を持つ理法」、「出起する道」、「梵輪」、などの実在について、言及しているものはあまり見当たらない。これは、ゴータマにとっては、直感的な事柄について、対機説法によってこれを説く機縁にある弟子があまりいなかったためと思われる。
  94. ^ 後代の仏教(アッサムやスリランカ)で、ダルマが人格神のように見なされるに至った源泉にこの詩句があるとされている『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店1982年 P252注303 中村元
  95. ^ (出典『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P335 中村元)。これは、光明という言葉に関連していると見ることができる。
  96. ^ これまで人間が、神、仏、万古不滅の法、実在、宇宙意識等と呼んできたものは、万生万物の根源としての「一なるもの」であるとする見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)
  97. ^ 『ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤⅠ』岩波書店1986年P118中村元
  98. ^ 『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P89 中村元
  99. ^ 『心の原点』三宝出版1973年P51 高橋信次
  100. ^ ゴータマが悟る直前にマーラの誘惑や、攻撃を受けたとされるのも、ゴータマが悟って、教えを説いてしまうと、人間をだまして支配することがやりずらくなってしまうからだとされている(出典『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第19経 二種の思いー双考経 P292 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳)
  101. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第19経 二種の思いー双考経 P292 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳
  102. ^ 最初の時期には五下分結についての解釈は一定しておらず、死後に四悪道のいずれかにおもむかせる五つの束縛という解釈もされていた。三界説はダンマパダやスッタニパータの中にも出ていないが、五下分結、五上分結の観念はおそらく成立していたと考えられている。三界説が成立したのは、かなり遅れてのことであるとされている。(出典『ブッダ 神々との対話』岩波書店 1986年 P228 中村元)
  103. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P340の注 中村元
  104. ^ (出典『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P373 の注 中村元)無明と六道輪廻とが関係しているとするならば、内的世界においても、六道輪廻の現象が起こっているといえる。
  105. ^ 『尼僧の告白』岩波書店 1982年 P89 中村元
  106. ^ 『尼僧の告白』岩波書店 1982年 P18 中村元
  107. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P233 1103 中村元
  108. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P185 835 中村元
  109. ^ 『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P43 中村元
  110. ^ 『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P319の注8 中村元
  111. ^ 『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P15 中村元
  112. ^ 『仏弟子の告白』岩波書店 1982年 P249の注 中村元
  113. ^ 内的世界においては、悟り以前の段階として、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の心の状態を、各人の心が六道輪廻している、とする見解もある。(出典『GLA誌 2005・10』人天経綸図解義の項 GLA総合本部出版局 2005年 P16 高橋佳子
  114. ^ 『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P94 中村元
  115. ^ 『尼僧の告白』岩波書店 1982年 P89 中村元
  116. ^ 『仏典を読む1仏陀の生涯』岩波書店 2017年 P4 中村元(前田専學 監修)
  117. ^ 生きている人間の天界は、有頂天といって、上がったり下がったりする心の情緒における上がった状態を指す、という見解がある。
  118. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P188 846 中村元
  119. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P175 772 中村元
  120. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P175 中村元
  121. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第21経 怒りのこころと慈しみのこころー鋸喩経 春秋社 2004年 前書き P304 中村元監修 羽矢辰夫訳
  122. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P371の注 中村元
  123. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年 P368の注660 中村元
  124. ^ 『ブッダ最後の旅』岩波文庫 P48 中村元
  125. ^ 『ブッダ 悪魔との対話』岩波書店 1986年 P111 中村元
  126. ^ 悟りの道から脱落した人が、地獄から抜け出るためには、生前の自らを悟り、自分は梵天の世界に生まれてはいない、ということを悟ることが外的な地獄を抜け出るきっかけとなる、ということができる。諸仏の教えと、仏との善友ということが、地獄脱出の要になっているといえる。地獄に落ちる要因となった己の悪行を省みて(もろもろの悪をなさない)、自分自身の心の在り方を止観し(自らの心を浄くする)、善いことをなそうとすることが、内的な地獄を抜け出ることにつながり、仏との善友の絆をつなぐことになる、と見ることができる
  127. ^ 『心の原点』 三宝出版 1973年 P59 高橋信次
  128. ^ 悠誘 高野山 高野山の歴史 - 一般社団法人 高野町観光協会。
  129. ^ 渡辺研二 2006.
  130. ^ 鈴木大拙全集第十巻[要追加記述]
  131. ^ 『人間の絆 響働編』高橋佳子 祥伝社 1991年 P55
  132. ^ マタイ福音書15:16
  133. ^ マルコ福音書7-21
  134. ^ 『新約聖書』新約聖書委員会岩波書店2004年、P31
  135. ^ 『新約聖書』新約聖書委員会岩波書店2004年、補注用語解説P21
  136. ^ 『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 説教・書簡』 闘技者トマスの書 3 岩波書店、1998年、 荒井献大貫隆、小林稔、筒井賢治訳 
  137. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』 P380
  138. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』用語解説 P5
  139. ^ マリア福音書参照
  140. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』P57
  141. ^ 『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 説教・書簡』 闘技者トマスの書 岩波書店、1998年、 荒井献大貫隆、小林稔、筒井賢治訳 
  142. ^ 闘技者トマスの書参照
  143. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』トマス福音書1989年 荒井献ほか
  144. ^ トマス福音書参照
  145. ^ イスラム史におけるスーフィズムの意義について(Webpage archive、2012年8月5日) - http://www4.ocn.ne.jp/~kimuraso/ronbun3.html
  146. ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦著 岩波書店 1991年P212
  147. ^ 『イスラーム文化』井筒俊彦著(岩波書店 1991年P218
  148. ^ 『コーラン 中』井筒俊彦岩波書店 1958年 P301 解説
  149. ^ 『マホメット』藤本勝次著 中央公論社 1971年 P15
  150. ^ 『真創世記黙示篇』 祥伝社 1978年 P54 高橋佳子
  151. ^ 『マホメットの生涯』ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和夫訳 河出書房新社 2002年P22
  152. ^ 『マホメットの生涯』ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和夫訳 河出書房新社 2002年
  153. ^ 『ムハンマド』国書刊行会 2016年 P45 カレン・アームストロング著 徳永理沙訳
  154. ^ しかし、初期の啓示とされるものについても、ヒラー山にて下されたものはごくわずかであり、2年ほど通信は途絶えたとされている。その後は、当時の偶像崇拝のメッカであった神殿にて再開されたと言われている。当時の神殿は、人身御供も行われるほど、霊的に乱れた場所であり、その後の神の啓示の神聖さに大きな影響を与えたと考えられる。詳しくはナスフを参照のこと。
  155. ^ 『心眼を開く』高橋信次著 三宝出版 1974年 P142
  156. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P184森三樹三郎
  157. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P89森三樹三郎
  158. ^ 『中国古典文学大系4』平凡社1973年 P488解説 金谷治
  159. ^ 初期仏教の経典の中には、サーリプッタ解脱をしたときに、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる。(出典『原始仏典II 相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳)
  160. ^ 『中国古典文学大系4』平凡社1973年 P64 金谷治
  161. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P184森三樹三郎
  162. ^ 『老荘を読む』講談社 1987年 P114 蜂屋邦夫
  163. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社1978年P114 小川環樹
  164. ^ 老子が「道(タオ)」と呼んできたものは、人間がこれまで神とか仏とか宇宙意識とか呼んでいた、万生万物の根源としての「一なるもの」であるとする見解がある。(出典『人間の絆 嚮働編』祥伝社 1991年 P34 高橋佳子)
  165. ^ 『老子・荘子』講談社学術文庫1994年P184森三樹三郎
  166. ^ 『中国古典文学大系4』平凡社1973年 P64 金谷治
  167. ^ 欲望に動かされずに道徳の極致にいたるというのは、初期仏教における「諸仏の教え」に通ずるものであると見ることができる。
  168. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P40解説 小川環樹
  169. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P472 小川環樹
  170. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P256の注 小川環樹)
  171. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P51 小川環樹
  172. ^ また、荘子において、「明」によって照らすとする思想の中には、是非の対立を超えた明らかな知恵を持つことであるとする場合がある。この場合の明知は、絶対的な智慧を指し、こては仏教でいう無分別智にあたるとされる(出典『老子・荘子』講談社学術文庫 1994年 P178 森三樹三郎

参考文献編集

  • 鈴木学術財団 編 『漢訳対照梵和大辞典』(新訂版)山喜房佛書林、2012年5月。ISBN 9784796308687 
  • 中村元 『広説佛教語大辞典』東京書籍、2001年6月。 NCID BA52204175 
  • 大蔵経テキストデータベース研究会 『大正新脩大藏經テキストデータベース』(2012版)、2012年http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php 
  • 禪學大辭典編纂所 編 『禅学大辞典』(新版)大修館書店、1985年11月。ISBN 4469091081 
  • 渡辺研二 『ジャイナ教入門』現代図書、2006年。ISBN 4-434-08207-8 

関連項目編集