新潮
概要 編集
1904年5月5日創刊[1]。 新潮新人賞(1969年-)を主催し、川端康成文学賞と三島由紀夫賞と萩原朔太郎賞の受賞発表を行っている。新潮社の純文学部門を担う位置付けとされており、同社の『小説新潮』が大衆小説部門を担っているのと対をなす。
この『新潮』と、『文學界』(文藝春秋発行)、『群像』(講談社発行)、『すばる』(集英社発行)、『文藝』(河出書房新社発行、季刊誌)は「五大文芸誌」と呼ばれ、これらに掲載された短編・中編が芥川賞の候補になることが多い。
佐藤義亮が経営難のために手放した『新聲』(1896年創刊)が前身。同誌は長谷川伸、若山牧水、生田長江らを輩出し、当時青年投稿誌の雄と言われた『文庫』(1895年創刊)と並ぶ青年派の一大勢力となったが、1903年に佐藤が編集を離れ、翌年『新潮』を立ち上げた[2]。創刊当初より特定の立場に固執しない編集姿勢を守り、近代日本の主要な文芸雑誌となった。歴代の編集長は齋藤十一、坂本忠雄等で、著名な編集者に菅原国隆、野平健一、小島千加子などがいた。現在の編集長は矢野優(やの ゆたか、1965年生、2003年より編集長)。
佐藤亜紀の「いかなるビジネスもしない」 編集
佐藤亜紀によれば、事の経緯は次の様だった。1996年頃、ウィーン会議を舞台にしたメッテルニヒの伝記を書く構想を話すと、『新潮』編集者は是非うちで掲載したいと応じた。パリで1年間の資料収集を行い、帰国後、掲載枚数と費用負担を担当と話し合った。そんな折、平野啓一郎『日蝕』を雑誌掲載で読む。これは私の作品『鏡の影』のぱくりだ。習作段階では大目に見ても、活字にするのはまずい。その日蝕がなんと、芥川賞候補になった。それから程なく、『鏡の影』は絶版にされた。まるで両作品を読み比べさせないかのように。4か月後、3年来の初稿400枚を渡したところ、載せる余地がないので掲載は不可能、と編集長に通告された。他作品の絶版後も告知無しなども重なり、載せる余地が平野の書下ろしで弾かれたのを知って、残った1作品も自分から版権引き上げを通告。今後、新潮社とはいかなるビジネスもしない、と申し渡した。[3]
「新潮45」寄稿者になり代わって謝罪 編集
矢野編集長は「新潮」11月号(2018年)の編集後記で、「新潮45」に特集記事として掲載された文芸評論家・小川榮太郎の論文を批判。同論文が「LGBTと痴漢症候群の男を対比し、後者の困苦こそ極めて根深かろうと述べ」たのは「差別的表現だ」とし、「差別的表現に傷つかれた方々に、お詫び申し上げます」と書いた。
これに小川は「月刊Hanada」12月号で反論。当該箇所は、恣意的なイデオロギー圧力を安易に追認すれば痴漢を公的に擁護する事態をも否定できなくなるという文脈で語られており、矢野の誤読であると釈明。編集者も寄稿者も表現を問う側であり、圧力を掛けて雑誌を潰し、著者を放逐する裁き手ではないと主張し、編集権もない編集者が「発言者の頭越しに詫びる---これは表現者の人権を根本から踏み躙る暴行ではないか」、一著者に対する文壇の権力者からの村八分宣告に等しいなどと弁解し、これ等を理由に矢野への公開質問状とした。[4]
矢野編集長は「月刊Hanada」編集部のインタビュー申込みを一蹴した。[5]
歴代編集長 編集
企画 編集
- 文學アジア3×2×4(2010年-、韓国・中国の文芸誌と合同で行う文学企画)