アミガサ事件(アミガサじけん)は、1914年9月16日多摩川下流の住民らが築堤を求めて神奈川県庁へ大挙して押し寄せた事件である。本項では、有吉堤築堤に至る経緯を合わせて解説する。

背景編集

荒多摩川の名で知られていた暴れ川の多摩川は、近代以前より下流の住民を氾濫によって苦しめてきた[1]。多摩川氾濫は、江戸時代の多摩川下流住民にとっての最大の災害であり、種々の歴史書によれば1644年正保元年)から1867年慶応3年)までの223年間の間に37回の大洪水が記録されている[2]。これは6年に1度のペースである。また、19世紀初頭に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、稲毛領の多くが「洪水の患あり」「屢水災あり」「水損の患あり」「水損繁く」「常に水災は多くして」などと記されている[3][4]

明治時代には末期を除いて記録的な洪水こそなかったが、小規模なものであれば頻々としてあり、その被害も決して小さいとは言えず[5]、多い時は1年に3回も出水したともいう[6]。そして1907年(明治40年)や1910年明治43年の大水害は悲惨な被害をもたらした[7]御幸村南河原で堤防が90メートルにわたり決壊し、対岸の矢口村六郷村の堤防も決壊、大森から鶴見区にかけての流域全域が冠水した[7]。後者の洪水では、上平間の家屋はすべて流されてしまった[8]。大雨が降るたびに地域住民はで作った台に床のものを上げて洪水に備えたといい、周辺の家屋の多くは、洪水に備えて中二階が設けられていた[9]

1891年(明治24年)、お雇い外国人ヨハニス・デ・レーケが河川改修の準備のために多摩川を調査した[10]。デレーケは報告書の中で、治水対策として堤防の強化などを進言したが、日本政府の財政的事情から、多摩川は放置されてきた[10]。それから20年余りが経過して発生した1907年の洪水は、住民の活動を活発化させるきっかけとなり、同年10月には神奈川・東京の村長や地主ら50名余によって「多摩川河身改修請願」が出された[10]。しかし、当時の東京府(現東京都)と神奈川県の境が多摩川をはさんで複雑に入り乱れていたこともあり、工事の交渉は滞ってしまった[10]

当時、平間に住んでいたある語り手の話によれば、村レベルでも築堤のようなことはされていたという[11]。しかし、東京の村のほうが力が強く、神奈川の村が堤を高くすると、東京の村がさらに高い堤防を築くため、増水時は神奈川側が氾濫するのであった[11]。また、国策としての帝都防衛があり、河川法準用河川[註 1]に指定された多摩川[12]での築堤申請を認めていなかった[9]

決起編集

大正時代に入ると大洪水が連続して発生し[1]上平間に住んでいた[9]御幸村選出の橘樹郡会議員であり、土木常任委員でもあった秋元喜四郎[13]は、1914年(大正3年)8月の洪水で命の危険に直面した[10]。秋元は土木委員として洪水における水防の陣頭指揮を執っていたが、足を滑らせ濁流に飲み込まれる[13]。丸太にしがみつきながらも流されていたところ、近隣の者が助けようとして投げた縄が丸太をとらえ、九死に一生を得た[13]。秋元もまた県庁に請願を出したものの要望が受け入れられなかった住民の一人であった[9]

住民全員による直接的な行動でしか現状を打破できないと考えた秋元は、小倉鹿島田北加瀬をはじめとする代表者を集めて協議の場を設けた[14]。協議の結果、羽織を着用せず、草鞋を履き、代わりに目印として編み笠を被って、同年9月16日午前2時から出発し、警察の目を避けるようにして県庁で集合することとなった[15]。今でいうところのデモ活動である[9]

実行編集

代表者は家一軒一軒を訪れては抗議活動のことを説明し、参加するように呼びかけた[16]ことで、当日は500人以上とも言われる[註 2]地元住民が結託、集合した[19]

上平間の参加者は、ガス橋通り沿いの八幡神社に[20]日吉村小倉の無量院に、そのほかの村は各々の鎮守境内に集合した[21]。警察の監視をかいくぐるために、鶴見橋は使わず[22]、おとといの出水が影響してか橋の上を洗い越しのように水が流れる末吉橋を使って渡った[20]。県庁近くに到着した参加者は、警察の統制を受け、ほとんどの抗議参加者は横浜公園で待機させられた[19]。抗議当時の知事・石原健三との面会が許された、各村の代表者計10名は、洪水の惨状や築堤の早期実現を訴えた[19]。この事件は、翌日の『横浜貿易新報』(現在の『神奈川新聞』)で報じられたほか、『東京毎日新聞』『東京朝日新聞』(同『朝日新聞』)『読売新聞』など計11紙で取り上げられ[23]、大きな話題を集めたが、築堤の許可は下りなかった[9]

同盟編集

大勢での抗議活動自体は実りあるものにならなかったが、これを契機として市村橘樹郡郡長を会長、小島御幸村臨時村長と深瀬元日吉村村長を副会長とした「多摩川築堤期成同盟」が結成された[23]。「同盟」には、以下に挙げる11村が参加し[23]、築堤運動がさらに大きくなった[24][25]。「同盟」の活動は、1914年10月12日に石原知事が現地を視察するという形で結実した[22]

築堤編集

画像外部リンク
  多摩川を視察する有吉忠一

抗議の翌年、1915年(大正4年)に石原が神奈川県知事を退任し、9月から有吉忠一が信任した[26]。有吉は、すぐさま水害の問題に真摯に取り組み、河川改修申請許可を内務大臣に願い出るが、申請は2年弱前に却下されたばかりで再申請は認められないとされた[26][註 3]。これを受けた有吉は、就任からわずか2か月後の11月上旬に、「水害予防のために郡道を改修する」という名目で、旧橘樹郡道(南武沿線道路と多摩川沿線道路の間を走る道路)をかさ上げし、代用堤防として供用することを決定した[26]。道路改修の名目だったので内務大臣の許可はいらず、神奈川県による正式な許可も翌年の1916年(大正5年)1月25日に下り、4月から工事が始まった[27]。住民も喜んで工事に参加した[28]

ところが、多摩川をはさんで対岸側の東京府荏原郡の住民が内務省に工事中止を訴え[19]、4月18日、内務省は河川法に基づく許可が必要な工事だとして中止命令を下した[27]。有吉はこれを無視して工事を続行したが、ついに懲戒処分が下ってしまう[27]。これでもめげなかった有吉は、逆に国を説得し[16]、東京側の堤防よりも高さを低くするという条件の下で[29]6月7日から工事が再開され、9月30日に竣工した[27]

竣工式が、12月18日に御幸村玉川尋常小学校(現在の川崎市立玉川小学校)で行われ[27]、盛大な祝賀会が開かれた[9]。当時の羽田橘樹郡郡長は有吉に感謝し[27]、有吉の名にちなんで「有吉堤」と名付けられた[15]。一方、有吉堤によって、中丸子の渡しは消滅してしまい、一部の耕作地も失われた[28]

諸元編集

有吉堤は、御幸村上平間天神台から中原村上丸子の旧橘樹郡道であり[15]、全長は資料により異なるが1.7キロメートル[29]から2.2キロメートル[30][31]とされる。

事後編集

 
中丸子児童公園から見た有吉堤跡。道路と地面との間に傾斜があるのがわかる。

本格的な堤防の完成により、有吉堤は堤防としての役割を終えた[16]ものの、ガス橋などにその痕跡が今でも残されている[18]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 河川法準用河川に指定された河川では測量が行われていたため、県の予算で行う築堤でも内務大臣の許可が必要であった[12]
  2. ^ 参加人数には諸説あり、抗議参加者の語り手や、郷土誌の多くによれば500人以上[17]小塚 1970, p. 231では、1000人以上とされる。抗議翌日の『東京朝日新聞』によれば400名以上である[18]
  3. ^ 背景でも言及している通り、政府は神奈川県側での築堤には反対の姿勢である。

出典編集

文献編集

  • 山田蔵太郎『稲毛川崎弐ヵ領用水実績』稲毛川崎二ヶ領用水普通水利組合、1930年11月26日。
  • 前川清治『かわさき歴史ウオーク』東京新聞出版局、2002年11月12日、初版。ISBN 4-8083-0771-5
  • 村上直、村田文夫、三輪修三、仙石鶴義『わが町の歴史・川崎』村上直、文一総合出版、1981年7月30日、初版。
  • 『市井60周年記念 かわさき』川崎市市民広報部広報課、川崎市、1984年11月。
  • 新中原誌刊行会『川崎 新中原誌』小川一朗、有隣堂、1977年10月30日。
  • 多摩川の見どころ 多摩川の名脇役”. 国土交通省関東地方整備局. 2018年1月18日閲覧。
  • 川崎地域史研究会『かわさき民衆の歩み 明治・大正・昭和』小林孝雄、多摩川新聞社、1995年6月30日。ISBN 4-924882-12-7
  • 『やさしい川崎の歴史』小塚光治、川崎歴史研究会、1970年5月1日、初版。
  • 小塚光治『川崎史話』下巻、多摩史談会、1966年8月10日。
  • 『川崎地名辞典』上巻、日本地名研究所、川崎市、2004年4月。
  • 第10代「横浜市長」の記念碑が「川崎市中原区」にあるのはなぜ?”. はまれぽ.com (2016年12月26日). 2018年1月18日閲覧。
  • “(街 プレーバック)アミガサ事件@川崎市・多摩川下流 100年前、覚悟の直訴”. 朝日新聞 夕刊 (朝日新聞社). (2014年5月23日) 
  • 有吉堤竣工百年の碑・解説板 (解説板). 中丸子児童公園: 有吉堤竣工百年の会. (2016年10月30日). 
  • 「稲毛領」『新編武蔵風土記稿』巻ノ59橘樹郡ノ2、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763983/42