有馬 則故(ありま のりふる)は、江戸時代前期の旗本

 
有馬則故
時代 江戸時代前期
生誕 寛永12年(1635年
死没 正徳3年閏5月28日1713年7月20日
改名 豊重→則故
別名 宮内
戒名 性円
墓所 麻布の曹渓寺
氏族 摂津有馬氏
父母 父:有馬豊長、母:水野重央の娘
兄弟 則故、水野重治、佐用豊房、水野勝政
正室:永井尚征の娘
女、則弘、女、女
養子:則維大次郎瀬名弌明室)、則致
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生涯編集

旗本・有馬豊長の長男[1]として生まれる。

承応元年(1652年)8月25日、徳川家綱に初謁。延宝3年(1675年)7月11日、家督を継承。

延宝7年(1679年)8月15日に御使番となり、同年12月28日に布衣を許された。天和元年(1681年)3月1日、仰せにより関東巡視の任に当たる。天和2年(1682年)4月13日には越前国大野城土井利房に引き渡す役割を務め、同月21日に上野国邑楽郡内で500石を加増され、知行地は都合3,500石となった。天和3年(1683年)閏5月28日には、幼少の榊原虎之助(榊原政邦)が藩主に就任した越後村上藩に仰せによって派遣され、政務の監督に当たった。貞享2年(1685年)7月12日には、下総国古河城松平信之に引き渡す役割を務めた。

元禄5年(1692年)4月14日、御先鉄砲頭に転じる。宝永元年(1704年)6月7日、高齢を理由に職を退いている。

正徳3年(1713年)閏5月28日、79歳で死去。麻布の曹渓寺に葬られた。

系譜編集

寛政重修諸家譜』には、実子として1男3女、養子として3男1女を掲げる。

実子の則弘(大学)は父に先立って死去した。赤松氏一門の旗本・石野則員の五男・則維(のりふさ)を養子に迎えたが、則維はのちに筑後久留米藩主・有馬頼旨の養子となって家督を継承し、久留米藩第6代藩主になった。代わって則維の次男・大次郎が則故の養子になったが、則維の長男が死去したため、嗣子として久留米に引き取られている(大次郎も夭折している)。家督は同族の旗本・有馬重広の長男・則致が養子に入って継いだ。

実子の娘3名については不詳。養女は実弟・水野勝政の娘で、旗本・瀬名弌明の室となった。

脚注編集

  1. ^ 寛政重修諸家譜』巻第四百七十

参考文献編集