木村隆秀
木村 隆秀(きむら たかひで、1955年8月10日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(4期)。
木村 隆秀 きむら たかひで | |
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![]() 内閣府大臣政務官就任に際し公表された公式肖像写真 | |
生年月日 | 1955年8月10日(67歳) |
出生地 |
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出身校 | 東京経済大学経済学部 |
前職 | 愛知県議会議員 |
所属政党 | 自由民主党(津島派) |
称号 | 経済学士 |
親族 | 父・木村昭一(愛知県議会議員) |
選挙区 |
(比例東海ブロック→) 愛知5区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1996年 - 2003年11月9日 2003年12月9日 - 2009年 |
選挙区 | 名古屋市中川区選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1983年 - 1987年 1991年 - 1996年 |
来歴・人物編集
愛知県名古屋市中川区生まれ。名古屋市立八熊小学校、名古屋市立山王中学校、愛知県立熱田高等学校卒業。1978年、東京経済大学経済学部卒業。株式会社ニチリョウ勤務後、衆議院議員・西岡武夫の秘書となる[1]。
1983年4月、愛知県議会議員選挙に中川区選挙区から立候補し初当選。1987年の県議選で落選[2]。1991年の県議選で2回目の当選。1995年の県議選で3選。
1996年の第41回衆議院議員総選挙に、愛知5区より自民党公認で出馬。民主党の赤松広隆に惜敗するが、比例東海ブロックで復活し初当選。父親が果たせなかった夢を達成した[1]。当選後、当時の橋本龍太郎首相の出身派閥である平成研究会(小渕恵三→橋本龍太郎→津島雄二派)に所属[1]。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では再び赤松に敗れるも、比例復活で当選(2期目)。2002年に例外的に夫婦の別姓を実現させる会に参加。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では三たび赤松に敗れ、比例復活もならず落選。しかしその直後、愛知4区から出馬し比例復活で当選した近藤浩が公職選挙法違反で逮捕され、同年12月9日に辞職。それに伴い木村は繰り上げ当選した(3期目)。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では小泉フィーバーに乗り、赤松を破って初めて小選挙区で当選(4期目)。名古屋市の衆議院小選挙区では、自民党唯一の勝利となった。民主王国における勝利は「大金星」と呼ばれた[3]。
2006年9月発足の安倍内閣で、防衛庁副長官に任命された。2007年1月の防衛省発足に伴い、初代防衛副大臣に就任。
2007年10月9日、次期総選挙に出馬せず今期限りで政界を引退することを表明する[1][3]。引退の理由として、自身の性格が議員に不向きではないかと考えていたこと、父親が死去した時の年齢と同年齢になったことを節目に自身の今後について考えた結果「普通の生活に戻りたい」という気持ちが高まったことを挙げた[1][3]。突然の引退表明は、一部の関係者・支援者から「無責任」との批判を受けた[1]。
なお2年後の2009年の第45回衆議院議員総選挙の愛知5区には、後任として愛知県議会元議長の寺西学の息子、寺西睦が出馬するが大差で落選した。
関係団体編集
脚注編集
- ^ a b c d e f “安倍さんに続き?木村議員無責任引退”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2007年10月9日). オリジナルの2007年10月14日時点におけるアーカイブ。 2017年7月20日閲覧。
- ^ 『愛知県議会史 第十四巻』愛知県議会、2010年12月10日、256頁。
- ^ a b c “自民党・木村隆秀衆院議員 突然の引退表明”. 日テレNEWS24. (2007年10月9日) 2015年4月17日閲覧。
公職 | ||
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先代 創設 |
防衛副大臣 2007年 |
次代 江渡聡徳 |
先代 木村太郎 |
防衛庁副長官 2006年 - 2007年 |
次代 防衛副大臣へ |
先代 亀井郁夫 嘉数知賢 奥山茂彦 |
内閣府大臣政務官 阿南一成 大村秀章と共同 2002年 - 2003年 |
次代 西川公也 森元恒雄 宮腰光寛 |
先代 今村雅弘 吉田六左ェ門 岩井國臣 |
国土交通大臣政務官 田中和徳 木村仁→菅義偉 森下博之→岩城光英 森下博之と共同 2001年 - 2003年 |
次代 菅義偉 高木陽介 森下博之 |
議会 | ||
先代 小沢鋭仁 |
衆議院環境委員長 2005年 - 2006年 |
次代 西野陽 |