中宗 (唐)

唐の4代・6代皇帝
李顕から転送)

中宗(ちゅうそう)は、の第4代・第6代皇帝

中宗 李顕
第4代/第6代皇帝
唐中宗李顕
王朝
在位期間 弘道元年12月11日 - 嗣聖元年2月6日
684年1月3日 - 2月26日
神龍元年1月25日 - 景龍4年6月2日
705年2月23日 - 710年7月3日
都城 長安
姓・諱 李顕
諡号 大和大聖大昭孝皇帝
廟号 中宗
生年 顕慶元年11月5日
656年11月26日
没年 景龍4年6月2日
710年7月3日
高宗
則天順聖皇后武氏
后妃 韋皇后
陵墓 定陵
年号 嗣聖 : 684年
神龍 : 705年 - 707年
景龍 : 707年 - 710年

生涯 編集

高宗の七男として生まれる。当初は周王に封じられたが、後に英王に改封された。同母兄である李弘の急死と李賢の廃立の後、代わって立太子され、高宗の死から7日後の弘道元年12月11日(684年1月3日)に即位した。中宗は翌年正月1日に改元を行い、元号を嗣聖と改めた。

即位後、生母である武則天に対抗すべく、韋皇后の外戚を頼った。具体的には韋后の父である韋玄貞(元貞)を侍中に任用する計画であったが、武則天が信任する裴炎の反対に遭う。計画を反対された中宗は怒りの余り、希望すれば韋元貞に天下を与えることも可能であると発言した。この発言を理由に、即位後わずか55日で廃位され、均州房州に流された。

代わって同母弟の李旦(睿宗)が即位したが、載初元年(690年)に廃位され、武則天が自ら即位して武周時代を迎えた。その末期の聖暦2年(699年)、李顕は武則天により再び立太子され、神龍元年(705年)にクーデタで退位を余儀なくされた武則天は李顕に譲位した(唐の再興)。

中宗は韋后を非常に信任し、朝政に参加させ、その父を王に封じた。また韋后との間にもうけた安楽公主もまた朝政に参加させた。安楽公主は自ら皇太女、さらには皇帝となることを狙い、韋后もまた武則天に倣い帝位を求めた。

景龍4年(710年)、韋后の淫乱な行為が告発されると、韋后は追及を恐れ、安楽公主とともに中宗を毒殺し、末子李重茂(殤帝)が擁立された。しかしその1ヵ月後、李旦の息子の李隆基(玄宗)により韋后と安楽公主は殺害され、殤帝は廃位された。中宗は定陵に埋葬された。

宗室 編集

后妃 編集

登場作品 編集

テレビドラマ